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第8巻:如月令嬢は『箱庭の秒針を読み違えない』  作者: アリス・リゼル


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第1話『鏡餅』 ~section2:フェルトと、微細な粉末~

 冬の短い陽は、すでに西の空の底へと沈みかけていた。

 旧校舎のアーチ型の窓から差し込んでいた琥珀色の光芒は、徐々にその赤みを増し、やがて血液のような深い真紅へと変色しながら、図書室のアンティーク家具に長く歪な影を落としている。

 完全に静まり返った室内で、瑠璃は猫足のマホガニー製デスクの周囲を、音もなく、しかし獲物を狙う猛禽類のような鋭利な足取りでゆっくりと旋回し始めた。彼女の視線の中心には、白木の三方に鎮座する『鏡餅のたぬき』が固定されている。


 サクタロウという名の、デジタル機器の検索結果に安易に依存する助手が不在である今の環境は、瑠璃にとって至高の実験室であった。彼女の『物理的観察眼』は、他者の発する無駄な呼気や衣擦れの音、あるいはスマートフォンが発する微小な電磁波のノイズすらも、観察の解像度を下げる不純物として認識してしまうからだ。

 今の彼女の聴覚が捉えているのは、純銀の懐中時計が刻む正確な秒針の音と、自身の規則正しい心音、そして、空気の乾燥によって鏡餅の表面がごく微かに収縮し、ひび割れようとする物理的な摩擦音だけであった。


 瑠璃はデスクの正面で立ち止まると、右手に持った純銀のルーペを目の高さに掲げた。

 装飾的な彫金が施された銀の縁取りの奥で、完璧な曲面を持つ分厚い凸レンズが、夕暮れの光を集束させる。彼女はそのレンズ越しに、まずはたぬきの身体を構成している『茶色いフェルト』の材質へと物理的なアプローチを開始した。


(なるほど。極めて安価で、粗悪な代物じゃ)


 純白の綿手袋に包まれた指先で、たぬきの短い腕に見立てられたフェルトの端をそっと持ち上げる。

 レンズ越しに拡大された繊維の構造は、瑠璃の脳内に瞬時にその素材のルーツを弾き出した。羊毛(ウール)を圧縮して作られる本来のフェルトであれば、繊維の表面には動物毛特有のキューティクルと呼ばれる微細な鱗状の構造が見られ、繊維同士が複雑かつ強固に絡み合っているはずである。しかし、今彼女の目の前にあるこの茶色い繊維は、表面が不自然なほどに滑らかであり、光を均一に反射するテカリを帯びていた。

 それは、石油から化学合成されたポリエステル繊維特有の均質な押し出し構造であった。百円均一の量販店や、手芸店の安売りコーナーで大量に山積みされている、誰もが容易に入手可能な工業製品。


 しかし、瑠璃の思考は『犯人は金のない生徒である』といった浅薄な結論には至らない。

 月見坂市のインフラを完璧に計算し尽くし、絶対的な密室であった校長室を突破するほどの知能を持つ犯罪者が、自らの盤面に配置する駒として、意味もなくこのような安価な素材を選ぶはずがないのだ。この『どこにでもあるポリエステルフェルト』でなければならなかった理由、あるいは、これを実行犯に『指定した』黒幕の意図が、必ずどこかに潜んでいるはずである。


 瑠璃の視線は、フェルトから、それを鏡餅に固定している『縫い目』へと移行した。

 ここからが、物理的観察の真骨頂であった。

 有機物である餅と、無機質な繊維を結合させているのは、極めて一般的な黒い木綿糸であった。瑠璃はルーペの焦点を、その糸が鏡餅の表面に突き刺さっている『穿孔(せんこう)部分』へと合わせる。


 鏡餅の表面は、乾燥によってデンプンがアルファ化からベータ化へと移行し、すでに石膏のように硬く結晶化しつつあった。そこに針を通すという行為は、布に針を通すのとは根本的に異なる物理的負荷を伴う。

 レンズ越しに見える餅の穿孔部は、綺麗な円形ではなく、周囲が不規則に砕け散り、微小なクレーターのように陥没していた。これは、鋭利な針先で繊維を押し広げたのではなく、太く頑丈な針――例えば革縫い用の針や、マットレス用のカーブ針などを、強引な力で『ねじ込んだ』痕跡である。

 さらに、糸の張力(テンション)の掛かり方を観察する。たぬきの手足と尻尾を固定している縫い目の間隔自体は、驚くほど均等であった。ミリ単位で等間隔に針が落とされている。これは、実行犯が手先の細かい作業に極めて慣れており、優れた空間把握能力と目測の精度を持っていることを示している。


 だが、そこに強烈な物理的矛盾が存在していた。

 縫い目の間隔は完璧であるにもかかわらず、糸の引き締め具合がバラバラなのだ。ある箇所はフェルトが千切れそうなほど強く引かれているのに、別の箇所は糸がたるみ、餅の表面から浮き上がっている。

 そして何より、針を刺し込む角度に迷いが生じた痕跡――餅の表面に針先が滑ってできた無数の微細な引っかき傷が残されていた。


(空間のバランスを取る視覚的な技術は高いが、裁縫という『繊維を扱う力学』には全くの素人。おまけに、この硬化した餅に太い針を連続して押し込むだけの、強い握力と腕力を持っておる)


 瑠璃は静かに独り言をこぼした。

 もし家庭科を専攻する生徒や、手芸を嗜む者であれば、縫い目の間隔だけでなく糸の張力も均一に保つことができる。逆に、全く不器用な人間であれば、縫い目の間隔そのものが歪むはずだ。

 間隔は完璧だが、張力のコントロールができない。そして、硬い餅に針をねじ込む物理的な腕力。

 この痕跡から導き出される実行犯の肉体的プロファイルは、『日常的に筆やペンなどの道具を用いて精密な視覚的表現を行っているが、裁縫の経験は皆無であり、かつそれなりの筋力を持つ者』――すなわち、特定の芸術的訓練を受けた男子生徒である可能性が極めて高い。


 しかし、瑠璃の探求はそこで停止しない。プロファイルはあくまで推論の入り口に過ぎない。彼女が求めているのは、被疑者を個人レベルまで特定するための、絶対的で反証不可能な物理的証拠であった。

 瑠璃はさらに顔を鏡餅へと近づけた。純白の綿手袋をはめた左手でたぬきの尻尾を僅かに持ち上げ、その裏側に隠された、糸の『結び目(玉留め)』の部分にルーペの限界まで焦点を絞り込む。


 実行犯は、見えない裏側であっても几帳面に玉留めを行っていた。その黒い木綿糸の極小の結び目の隙間に、図書室の夕陽を反射して、本来そこにあるはずのない『異物』が微かに瞬いた。

 瑠璃は息を止めた。呼気の気流によって、その微細な証拠が吹き飛ばされるのを防ぐためだ。


 レンズが捉えたのは、直径一ミリにも満たない、極微細な粉末の集合体であった。

 その色は、深い海を思わせる鮮烈な青色。

 瑠璃の脳内の膨大なデータベースが、瞬時にその物質の特定を開始する。

 布の繊維屑ではない。埃やカビの胞子でもない。光の反射率と、粒子が不規則に砕けたような結晶構造から見て、それは明らかに人工的に精製された『顔料』であった。

 セルリアンブルー、あるいはウルトラマリン。

 しかし、一般的なアクリル絵の具や水彩絵の具であれば、顔料は展色剤(バインダー)となるアクリル樹脂やアラビアゴムによってコーティングされ、乾燥すれば薄いフィルム状の塗膜を形成するはずである。だが、結び目に付着しているこの青い粉末は、バインダーの気配が一切なく、完全に乾燥した粉そのものの状態でパラパラと付着していた。


 顔料が剥き出しの粉末状態のまま、指先を介して糸の結び目に転写される画材。


(ソフトパステルか…)


 顔料を少量の糊材だけで棒状に固めたパステルは、紙に擦り付ける際に大量の粉末を発生させる。その粉末は指の指紋の隙間や爪の間に深く入り込み、石鹸で洗った程度では容易には落ちない。実行犯は、直前まで青いパステルを用いて何らかの作業を行っており、その指先に残っていた粉末が、玉留めを作る際の強い摩擦によって木綿糸に付着したのだ。


 さらに、瑠璃の研ぎ澄まされた五感は、視覚による情報収集と並行して、もう一つの決定的なアナログ情報を抽出していた。

 彼女はゆっくりと目を閉じ、嗅覚の感度を極限まで引き上げた。

 図書室の古い紙の匂い、アンティーク家具のワックスの匂い、アルコールランプの硝煙、そして自分が淹れたダージリンティーの芳醇な香り。瑠璃の脳は、それら環境のノイズとなる匂いの分子を、オーケストラの指揮者が不要な楽器の音を消し去るかのように、一つ一つ意識のフィルターから除外していく。

 すべてのノイズが消え去った絶対的な無臭の空間のキャンバスに、たぬきの縫い目から立ち上る、ごく微量な揮発性の分子だけを浮かび上がらせる。


 それは、鼻腔の奥をツンと突くような、特有の芳香族炭化水素の匂いであった。

 マツ科の植物の樹液を蒸留して精製される、揮発性油。


(テレピン油じゃな)


 瑠璃は閉じていたアメジストの瞳を開き、確信に満ちた声を漏らした。


 油彩画において、絵の具の粘度を下げるための溶き油(揮発性ペインティングオイル)として使用されるテレピン油。その匂いは極めて強く、衣服の繊維や髪の毛に深く染み込み、数日間は消えることがない。パステルの粉末と同様に、実行犯の指先から糸へと、物理的な接触を通じてその匂いの分子が転写されていたのだ。


 縫い目の間隔と張力の矛盾が示す、視覚的訓練を受けた男子生徒。

 結び目に付着した、剥き出しの青いパステルの粉末。

 そして、糸に染み込んだテレピン油の揮発性の匂い。

 これら三つの物理的痕跡が交差する座標は、如月学園の中でただ一箇所しか存在しない。油絵の具とパステルという、性質の異なる二つの画材を日常的に併用して作品を制作している、美術部のアトリエである。


 物理的な観察によるルーツの特定は、これで完了した。

 しかし、瑠璃の鑑定はまだ終わらない。彼女が解き明かさなければならないのは、物質のルーツだけでなく、この異常な盤面を設計した黒幕の『意図』である。

 なぜ、美術部員という一見無関係な駒が、校長室という密室で鏡餅を装飾するという行動に至ったのか。その動機となる情動を読み解かなければ、この不純物の真の姿を見たことにはならない。


 瑠璃は銀のルーペを手から下ろし、姿勢を正した。

 そして、彼女の持つもう一つの武器――『情動の視座』へと意識を切り替える。

 それは決して、対象に触れただけで他者の記憶や感情が魔法のように流れ込んでくるような、非科学的な異能の類ではない。これまで彼女が自らの目と鼻で収集した客観的かつ物理的な痕跡を基盤とし、人間を単なる論理的な機械としてではなく、快・不快、恐怖、喜びといった『情動』によって突き動かされる生物として捉え直し、その行動の背景にある心理的プロセスを極限まで深く推論する、高度な演繹的視点である。


 かつての瑠璃は、すべての事象をただ冷徹な物理法則と物質の因果関係としてしか見ていなかった。しかし、今は亡き親友と過ごす時間の中で、人間という不合理な存在が織りなす情動の機微を理解し、それを論理のパズルに組み込むこの視座を会得したのだ。


 瑠璃は、鏡餅に刻まれたすべての痕跡を脳内で俯瞰し、実行犯の精神状態を再構築していく。


(もし、この犯行の動機が如月家や大河内校長に対する『強烈な悪意』や『反抗心』であったなら、どうなるか)


 瑠璃の脳内で、仮説に基づくシミュレーションが走る。

 怒りや憎悪に突き動かされた人間は、対象を破壊したいという衝動に駆られる。硬い餅に針を刺す際、その力みは不規則になり、フェルトは引き裂かれ、縫い目は暴力的に乱れるはずだ。しかし、目の前のたぬきの縫い目は、力加減こそ不器用だが、針を落とす間隔は極めて冷静かつ均等であった。


(ならば、自己顕示欲に基づく『単なるイタズラ』か?)


 それも違う。単に人を驚かせたいのであれば、誰もいない密室の校長室などというリスクが高く、発見が遅れる場所にわざわざ配置する意味がない。もっと人目につく場所に置くはずだ。


 悪意でもなく、自己顕示欲でもない。

 物理的痕跡が雄弁に語る実行犯の心理状態。それは、対象に対する一切の個人的な執着の欠如であった。

 丁寧に等間隔で針を落とす『集中力』はあるが、そこに込められた感情は限りなく平坦である。彼はただ、与えられたミッションを淡々とこなしているだけなのだ。


 瑠璃の脳裏に、一つの明確な情動の波形が浮かび上がった。


(ゲームに参加するような、浅薄な高揚感じゃな)


 瑠璃は、冷ややかな声で結論を口にした。


 実行犯の男子生徒は、自らの意志で如月家を侮辱しようとしたのではない。彼はただ、何者かによって与えられた『フェルトを校長室の鏡餅に縫い付けよ』という異常な指示に対し、疑問を抱くことなく、まるでロールプレイングゲームのクエストをこなすようなスリルと好奇心――指示への忠実な服従という情動によって動かされただけなのだ。

 悪意なき実行犯。彼は、天才的な頭脳を持つ姿なき犯罪者が、密室の校長室に干渉するために使い捨てた、単なる物理的な『駒』に過ぎない。


 瑠璃は、机の上の不格好なたぬきを見下ろしたまま、小さく息を吐いた。

 読み解いた実行犯の浅薄な高揚感に対し、瑠璃の心に共感や哀れみが湧くことは一切ない。彼女は他者の感情を完全に論理として理解し、解体することはできるが、それに寄り添うという人間らしい機能を持たないからだ。彼女にとっての情動とは、ルーペで覗き込む繊維の構造と同じ、単なる情報の一つでしかない。


(構図は完全に見えた)


 瑠璃は純白の綿手袋をはめた両手を軽く合わせ、完璧な身嗜みを整えた。

 油絵とパステルを併用する、手先の空間把握能力に長けた美術部員の男子生徒。彼が、何者かの指示によってゲーム感覚でこの密室の装飾を行った。

 ならば、次なる物理的行動は明確である。その操り人形の首根っこを掴み、彼に指示を与えた『見えない依頼人』が残したアナログな痕跡――すなわち、真の黒幕の盤面へと至る道標を引きずり出すことだ。


 瑠璃は、優雅な所作でチェスターフィールドのソファから立ち上がった。

 ティーカップに残っていた冷めたダージリンティーには目もくれず、マホガニーのデスクに置かれた桐の箱の蓋を静かに閉める。


 サクタロウがインフルエンザで寝込んでいる今、凡人の足手まといを気にする必要はない。

 孤高の天才の前に広がるのは、見えざる奇術師が用意した、極めて高度で冷徹な物理パズルの盤面である。


(大人しく待っておれ。愚鈍な操り人形め)


 瑠璃は、漆黒の編み上げブーツの踵で床を一つ鳴らすと、冬の夕闇が完全に支配しつつある図書室に背を向けた。

 気高く、そして一切の迷いのない足取りで、彼女は真犯人の影を追って、静寂の旧校舎から美術室のある本校舎へと向けて歩みを開始した。

 重厚な真鍮の扉が閉ざされる低い音が、図書室の冷たい空気の中に、反撃の鐘のように静かに響き渡った。



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