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第8巻:如月令嬢は『箱庭の秒針を読み違えない』  作者: アリス・リゼル


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第5話『弦』 ~section3:美容師と、挫折のメロディ~

 美容室『サロン・ド・ルフレ』の華やかなメインフロアの奥に位置する、スタッフルームへと通じる重厚な木製扉。

 表の洗練された空間とは異なり、従業員専用のバックヤードは徹底して実用性と効率のみを追求した無機質な空間である。扉の表面には、長年の使用によって付着した皮脂や整髪料の微小な飛沫が酸化し、光沢を失った微細な被膜を形成している。


 黒田がその木製扉の真鍮製のノブを無音で回し、ゆっくりと手前へと引き開けた。

 開け放たれた空間から、メインフロアよりもさらに数段濃度を増した、強烈な化学物質の揮発臭が押し寄せてくる。

 パラフェニレンジアミンなどの酸化染料がアンモニアと反応して発する特有の刺激臭。パーマネントウェーブ用の還元剤であるチオグリコール酸アンモニウムが放つ、タンパク質のシスチン結合を強制的に切断する際の硫黄系の悪臭。それらが狭く換気の悪い空間に高密度で滞留し、人間の嗅覚受容体を激しく刺激する。


 六畳ほどのスタッフルームの内部は、壁沿いにスチール製のロッカーが並び、中央には休憩用の簡素な折りたたみ式テーブルとパイプ椅子が配置されていた。壁際のシンクには、カラー剤の色素が沈着して黒ずんだ樹脂製のボウルや、洗浄待ちのハケが無造作に放り込まれている。

 そして、その薄暗い空間の隅。パイプ椅子の上に背中を丸めて深く腰掛け、両手で頭を抱え込むようにしてうずくまっている、一人の若い男の姿があった。


「……明人(あきと)。お前、一体こんな暗いところで何をしているんだ。システムがダウンして大騒ぎになっているというのに」


 瑠璃の背後からスタッフルームに足を踏み入れた支配人が、その青年の姿を認めるなり、苛立ちと安堵が入り交じった声を上げた。


支配人の声に弾かれたように、明人と呼ばれた青年美容師がビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

 年齢は二十代半ば。美容師という職業柄、髪は明るい色彩に脱色され、複雑なカッティングが施されている。しかし、現在の彼の顔面には、接客業に必須とされる作り物の笑顔や社交性の欠片も存在しなかった。

 彼の眼球の結膜は極度の疲労とストレスによって毛細血管が拡張して充血し、瞳孔は自律神経の乱れによって不自然に散大している。顔面からは血の気が引き、額には冷や汗と呼ばれる精神性発汗の痕跡が、皮脂と混ざり合って不快な光沢を放っていた。


 瑠璃は、純銀のステッキの石突きでリノリウムの床をカツンと鳴らし、青年の数歩手前で静かに歩みを止めた。

 彼女の深く澄んだアメジストの瞳が、頭を抱えていた青年の『両手』、特にその指先のミクロの物理的状態へと、極限の解像度で焦点を合わせた。


 美容師という職業は、人間の肉体において最も過酷な化学的、および物理的なダメージを両手に蓄積し続ける労働である。

 一日に何十回も繰り返されるシャンプー業務。合成界面活性剤であるラウレス硫酸ナトリウムなどの強力な洗浄成分が、表皮の角質層を保護している皮脂膜と細胞間脂質を徹底的に溶かし出し、洗い流す。さらに、冬の乾燥した外気と、ドライヤーが発する百十度近い高熱の熱風が、皮膚の内部の水分を容赦なく奪い去っていく。

 結果として、美容師の手は慢性的な接触性皮膚炎を引き起こし、表皮はひび割れ、痛々しい発赤と角質の剥がれ落ちを伴うのが常である。


 明人の両手もまた、その過酷な職業病の痕跡を明確に刻み込んでいた。

 しかし、瑠璃の物理的観察眼が捉えたのは、洗剤や薬品による広範な化学的ダメージの痕跡ではない。

 明人の『左手』の指先――人差し指、中指、薬指、そして小指の四本の指の腹にのみ局所的に形成されている、極めて特異で物理的な『角質増殖の痕跡』であった。


(左手の四本の指先。表皮の基底層における角化細胞(ケラチノサイト)の増殖が異常に促進され、分厚く硬化した角質層が極めて局所的な胼胝(タコ)を形成しておる。しかも、その硬化した角質の表面には、細い線状の摩擦痕と、わずかな凹みが刻み込まれている)


 瑠璃の脳内の生体力学および解剖学のデータベースが、その指先の痕跡を生み出した物理的なルーツを高速で逆算していく。

 左手の指先にのみ、このような細い線状の圧力と摩擦が継続的に加わる行為。

 それは、ハサミの開閉によるものではない。ハサミのリングと擦れるのは主に親指と薬指の側面である。コーム(櫛)の操作によるものでもない。


「アコースティックギターの、フィンガリングによる物理的な損傷の蓄積じゃな」


 瑠璃の透徹した声が、スタッフルームの澱んだ空気を切り裂いた。


 明人の体が、まるで高圧電流を流されたかのように大きく跳ねた。充血した両目が極限まで見開かれ、信じられないものを見るような視線が瑠璃へと突き刺さる。

 瑠璃は、純白の綿手袋に包まれた指先で、明人の左手を真っ直ぐに指し示した。


「金属の弦を、硬い木製の指板(フレットボード)に向けて、指先の狭い面積で強烈な圧力をもって押し付け続ける。その物理的な反作用と摩擦熱から内部の毛細血管と神経を守るため、人体の防衛本能として表皮の角質層が異常増殖し、硬い装甲を形成する。お主の左手の指先には、その明確な生体力学の痕跡が刻まれておる」


「な、何を……急に。俺の指がどうしたっていうんだ。あんたは一体誰なんだ」


 明人が震える声で反論を試みるが、瑠璃の氷のような論理の刃は、彼の脆弱な抵抗を一切の容赦なく物理的に解体していく。


「だが、お主のその指先の角質の状態と、表のメインフロアの鏡台に放置されていた『あの不純物』との間には、極めて興味深い物理的、および力学的な矛盾が存在しているのじゃ」


「……不純物?」


「プラスチックのヘアカーラーに、暴力的なまでの引張応力で巻き付けられ、ひしゃげさせていた、アコースティックギターのリン青銅の巻弦のことじゃよ」


 明人の顔面から、さらに血の気が引いていく。自律神経の制御が完全に崩壊し、彼の呼吸は浅く、そして痙攣したように乱れ始めた。


「わしは先ほど、ルーペ越しにあの金属ワイヤーの構造を完全に把握した。あそこにあったのは、強靭な高炭素鋼の芯線にリン青銅が密に巻き付けられた、第五弦か第六弦の極太の『巻弦』じゃ。しかし」


 瑠璃は、冷酷なまでに美しいアメジストの瞳で、明人の左手の指先を射抜いた。


「お主の左手の指先に残されたタコの形状と、そこに刻まれた線状の凹みの幅を計測するに。お主が長年押さえ続け、指先を硬化させた主たる要因は、あのような太い巻弦ではない。もっと細く、表面が平滑な『プレーン弦』、あるいはエレキギターの極細のゲージによるものじゃ。リードギターとして、高音域の細い弦をチョーキングやスライドで激しく擦り続けた摩擦痕が、お主の角質には明確に記録されている」


 物理的な矛盾の提示。

 太い巻弦をメインで押さえるコード弾きのプレイヤーであれば、指先のタコはより広範囲で平坦になる。しかし、明人の指先のタコはピンポイントで硬く、細い弦が深く食い込んだ痕跡を示している。


「さらに言えば、お主のその指先のタコは、現在進行形で形成されているものではない。角質層の表面が乾燥して白く毛羽立ち、一部はターンオーバーによって剥がれ落ちかけている。細胞の再生サイクルから逆算して、お主が最後にギターの弦をまともに押さえたのは、少なくとも数ヶ月、あるいは数年以上も前の過去の出来事じゃ」


 瑠璃は、純銀のステッキを床に立て、両手でそのグリップを静かに握りしめた。


「数年以上もギターを弾いていない、かつてリードギターを担当していた人間が。なぜ、自分がメインで弾いていた細いプレーン弦ではなく、最も太く、最も強靭な『低音の巻弦』だけを、今日この日に至るまで持ち歩いていたのじゃ?」


 逃げ場のない、絶対的な論理の包囲網。

 瑠璃の言葉は、単なる推理ではない。細胞のターンオーバー、金属の直径、摩擦のベクトルという、宇宙のどこへ行っても覆ることのない物理法則に基づいた、完全なる事実の突きつけである。


「……あのヘアカーラーにギターの弦を巻き付け、純粋な物理的暴力によってプラスチックの弾性限界を突破させ、破壊した張本人。それは、この美容室の従業員であり、過去の夢の残骸を持ち歩いていたお主以外の何者でもない。そうじゃな」


 沈黙が、化学物質の匂いが充満するスタッフルームを重く支配した。

 支配人は、背後で息を呑んだまま、まるで信じられない怪物でも見るような目で明人を見つめている。

 明人は、しばらくの間、呼吸を忘れたように硬直していたが。やがて、その充血した両目から、ポロリと一粒の水滴がこぼれ落ちた。

 塩化ナトリウムと微量のタンパク質を含んだ涙液が、重力に従って彼の頬を伝い、リノリウムの床へと落下して小さな飛沫を上げる。


「……あんたの言う通りだよ。全部、俺がやったんだ」


 明人の口から漏れたのは、言い逃れでも反抗でもない。すべてを見透かされたことに対する、極度なまでの自嘲と、そして行き場を失った絶望の吐息であった。


「俺は……昔、プロのミュージシャンを目指してた。インディーズのバンドでギターを弾いて、小さなライブハウスを回って。いつか絶対に大きなステージに立ってやるって、本気で信じてたんだ」


 明人は、自らの両手を虚空に浮かべ、その剥がれかけた指先のタコを、自嘲気味な眼差しで見つめた。


「でも、現実はそんなに甘くなかった。才能の壁、集客のノルマ、メンバーとの不和。何年やっても芽は出ないし、借金だけが膨れ上がっていく。結局、バンドは解散して、俺は夢を諦めた。生きるためにハサミを握って、この月見坂市っていう、綺麗で、冷たくて、完璧すぎる街で、他人の髪を整える毎日……」


 明人の言葉には、過去への強烈なノスタルジーと、現在の自分に対する絶対的な自己嫌悪、すなわち挫折の情動が、高密度のエネルギーとして渦巻いていた。

 瑠璃が先ほど、カウンターの上で弦に触れた際に『情動の視座』で読み取った心理的プロセスの波形と、寸分の狂いもなく一致する感情の吐露である。


「ギターも、アンプも、機材も全部売った。でも……どうしても、最後に俺のギターに張ってあった、あの『一番太い六弦』だけは捨てられなかった。一番低くて、重たい音を出す、あの弦だけは。俺の青春の、どうしようもない重たさの象徴みたいで……ずっと、ポケットの奥底にお守りみたいに入れて、持ち歩いてたんだ」


「その過去の質量、すなわちノスタルジーの象徴を。なぜ今日、この日の、このタイミングで、現在の己の生業を象徴するヘアカーラーに対して、あそこまで暴力的に巻き付け、破壊するという物理的行動に出たのじゃ」


 瑠璃は、一切の同情を交えることなく、ただ純粋な事象の因果律の解明を求めて冷徹に問い詰めた。


 明人は、顔を覆っていた両手を力なく下ろし、ゆっくりと首を横に振った。


「……俺にも、よくわからないんだ。ただ……数時間前。俺はオープン前の店内で、あの窓際のセット面の掃除をしていた。今日は日曜日で、これからたくさんのお客さんが来るはずだった。いつも通りの、退屈で、でも生きていくためにはやらなきゃいけない、美容師としての日常……」


 明人の瞳孔が、数時間前の異常な空間的、および聴覚的な体験を思い出し、再び不自然に散大していく。


「そしたら、突然……外から、信じられない音が聞こえてきたんだ。店のガラス越しに、あの表通りの向かいにある、巨大な街頭ビジョンから」


 月見坂市新市街のメインストリートには、都市インフラと連動した巨大なデジタルサイネージ、すなわち街頭ビジョンが多数設置されている。

 通常であれば、そこには洗練されたハイブランドの広告映像や、無機質な環境映像、あるいはスマートシティの行政ニュースが、環境音に溶け込むような計算された音量で流されているはずである。


「いつもなら、当たり障りのない広告が流れてるだけのあのビジョンから……突如として、爆音で音楽が流れ始めたんだ。スピーカーが割れるんじゃないかっていうくらいの、異常な大音量で」


 明人の声が、恐怖とも歓喜ともつかない、極度に不安定な周波数へと変異していく。


「その曲は……有名なポップスでも、クラシックでもなかった。俺の曲だったんだ。俺たちが、何年も前に小さなライブハウスの片隅で、数人の客の前でしか演奏していなかった……あの、無名のインディーズバンドの、俺のオリジナル曲だったんだよ!」


 明人の叫びが、スタッフルームの狭い空間に反響する。

 それは、確率論や偶然という言葉では到底説明のつかない、絶対的な事象の異常性であった。

 サブスクリプションの配信サービスにも登録されていない、世界中の誰の記憶にも残っていないはずの、挫折した無名のバンドの楽曲。それが、最新鋭のスマートシティの心臓部、巨大な街頭ビジョンから、彼が掃除をしているまさにそのタイミングで、街全体を震わせるほどの大音量で突然再生されたというのだ。


「最初は、自分の頭がおかしくなったのかと思った。でも、違う。重たいベースの音、下手くそなボーカル、そして……俺が死ぬ気で練習して弾いた、あの泥臭いギターソロのメロディ。間違いない、俺たちの音だった」


 空気の振動、すなわち音波という物理的エネルギーが、店舗のLow-E複層ガラスを透過し、明人の鼓膜を激しく震わせる。

 有毛細胞がその振動を電気信号に変換し、聴神経を経由して脳の聴覚野へと伝達される。そしてその信号は、理性や論理を司る前頭葉を完全にバイパスし、記憶と感情の中枢である海馬と扁桃体へとダイレクトに突き刺さった。


「その音を聞いた瞬間……俺の中で、何かが完全に壊れたんだ」


 明人は、自らの胸を強く掻きむしった。


「あの頃の、金はないけど熱気だけで生きてたライブハウスの匂い。ステージの照明の熱さ。全部が、一瞬で頭の中にフラッシュバックしてきた。……それに比べて、今の俺は何だ? 他人に愛想笑いを振りまいて、こんなプラスチックの筒で他人の髪を巻いてるだけの、空っぽの人間じゃないか!」


 過去の輝かしい記憶という極限のノスタルジーと、現在の己の惨めさに対する絶対的な絶望。

 その二つの巨大な情動の波が、明人の脳内で正面衝突を起こし、大脳辺縁系から強烈なストレス信号が全身の中枢神経へと放射された。

 副腎髄質から大量のアドレナリンとノルアドレナリンが血流へと分泌され、心拍数は極限まで跳ね上がり、呼吸は激しく乱れる。交感神経の暴走状態である。


「気がついたら……俺は、ポケットの奥からあの『六弦』を引っ張り出していた。そして、目の前にあったヘアカーラーに……どうしようもない怒りと、悲しみと、過去への未練を全部ぶつけるみたいに、力任せに巻き付けていたんだ。指に弦が食い込んで血が滲んでも、プラスチックがメチャクチャにひしゃげても、どうしても止めることができなかった……。過去の自分を殺したかったのか、今の自分を壊したかったのか、それすらも分からないままに」


 明人の告白が終わると、スタッフルームには再び重く沈鬱な静寂が舞い戻った。

 一人の青年が抱えていた、あまりにも個人的で、生々しく、そして痛ましい挫折のメロディ。

 それが、あの鏡の前に放置されていた『ひしゃげたカーラーとギターの弦』という、物理的な破壊のオブジェクトを生成した、完全なるルーツの正体であった。


 しかし。

 如月瑠璃の極限まで冷徹な論理的思考回路は、明人の涙ながらの感情の吐露に共感して歩みを止めるような、凡庸な機能は持ち合わせていない。

 彼女の脳髄が捉えていたのは、明人の悲劇ではなく、その悲劇を引き起こした『ありえない偶然』の背後に潜む、あまりにも巨大で狂気的な、見えざる物理的介入の軌跡であった。


(この青年は、自分の曲が偶然流れたと思い込んでおる。しかし、そんな天文学的な確率の事象が、自然界で自然発生的に起こるわけがない。デジタルネットワークによって完全に管理統制されている、月見坂市の巨大な街頭ビジョン。その音声制御システムに、強固なファイアウォールを突破して外部から意図的に侵入し、音声データを強制的に書き換えるという、極めて高度なハッキング行為)


 瑠璃の背筋を、再び氷のような冷たい戦慄と、知的な歓喜が駆け抜ける。

 純白の奇術師は。

 ただ単に、この美容室という空間を物理的に休業へと追い込んだだけではない。

 この店舗で働く一人の従業員、明人という青年が『過去に無名のインディーズバンドでギターを弾いており、挫折した現在でも最も太い六弦を捨てられずに持ち歩いている』という、極めて個人的でアナログなルーツの情報を、どこからか完全に特定し、把握していたのだ。


 そして。

 玉永市のインフラを三・二秒遅延させてサラリーマンと老人を激突させたのと同じように。

 この月見坂市のデジタルサイネージをハッキングし、明人の過去の楽曲をピンポイントで、かつ大音量で再生するという『聴覚的な物理的刺激』を引き起こした。

 すべては、明人の脳内の海馬と扁桃体を刺激し、交感神経を意図的に暴走させ、極限のフラストレーションを爆発させて、あの『ひしゃげたカーラーと弦』という不純物を、彼自身の手で物理的に生成させるために。


(人間の情動。ノスタルジー。過去への執着と挫折。……そういった、人間特有の泥臭く不合理な感情の揺らぎすらも、お主は『対象の行動を特定のベクトルへと誘導するための、確実な物理パラメータ』として、完全に数式に組み込んで計算し尽くしておるというのか)


「恐るべき盤面の支配。そして、悪魔的なまでの心理のプロファイリングじゃな」


 瑠璃は、小さく呟きながら、ゆっくりと明人から視線を外した。


 彼女は純銀のステッキを小脇に抱え、スタッフルームの出口へと踵を返す。

 そして、薄暗い廊下を抜けて再びメインフロアへと戻ると、一切の躊躇いなく、表通りに面した巨大なLow-E複層ガラスの窓際へと歩みを進めた。

 瑠璃のアメジストの瞳が、ガラス越しに、冬の冷たい空気が支配する月見坂市新市街のメインストリートを見下ろす。

 その視線の先にあるのは、道路の対面、巨大な商業ビルの壁面に設置された、都市のネットワークに完全に接続されているはずの超大型デジタルサイネージであった。


 現在は、何事もなかったかのように、無音でスマートシティの環境映像を流し続けているその黒い巨大なディスプレイ。

 しかし瑠璃には、そのディスプレイの向こう側から、都市全体の物理法則と人間の情動をチェスの駒のように操る『純白の奇術師』が、冷徹な笑みを浮かべて自分を見下ろしているのが、明確に感じ取れた。


 五つの不純物。

 密室の鏡餅たぬき、書店の鮭、時計店の絹糸、駅の海苔と国旗、そして、美容室のギター弦。

 見えざる天才が用意した、すべての物理パズルのピースは、今ここに完全に出揃った。

 純粋な質量の破壊の果てに、奇術師がいかなる狂気的な真理の結末を用意しているのか。瑠璃の論理の刃は、都市という巨大な盤面を覆い尽くす不可視の糸を、今まさにその根元から切断せんとして、かつてないほどの鋭利な輝きを放ち始めていた。



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