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第8巻:如月令嬢は『箱庭の秒針を読み違えない』  作者: アリス・リゼル


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第4話『国旗』 ~section1:境界線と、異物の改札~

 一月十一日、日曜日。午前。


 都市と都市を隔てる境界線とは、決して行政の地図上に引かれた無機質なインクの線などではない。それは、大気中に含まれる微粒子の密度、環境音を構成する周波数帯域、そして空間そのものを支配する物理法則の『解像度』が劇的に変容する、極めて明確な力学的断層である。


 月見坂市の高度に制御されたスマートインフラの末端、市境に位置する巨大なパーキングエリアに漆黒のマイバッハを停めさせた如月瑠璃は、専属護衛の黒田を伴い、そこからあえて時代遅れのローカル線の普通列車に乗り込んだ。


 それは、電子の血流によって秒単位で最適化された無菌状態の仮想空間から、重力と摩擦という原始的な物理現象が支配する現実世界への、明確な次元の降下であった。


 車輪のフランジがレールの湾曲部と激しく擦れ合い、キィィィンという甲高い金属摩擦音を車外に撒き散らす。一定の長さのレールを繋ぎ合わせたジョイント部分を通過するたびに、ガタン、ゴトンという周期的な物理的衝撃が、旧式のコイルバネを介して直接乗客の脊椎を突き上げる。月見坂市を循環する磁気浮上式リニアや、徹底的に防音・防振設計が施された最新鋭の地下鉄では決して味わうことのない、分厚い鋼鉄の塊が運動エネルギーを強引に熱と音へと変換しながら突き進む、暴力的なまでの自己主張。


 車内を満たす空気もまた、完璧な空調設備による無臭のそれではない。座席の起毛織物(モケット)に長年染み付いた無数の乗客たちの汗と皮脂が酸化した匂い、暖房器具から発せられる焦げたような埃の匂いが、冬の乾燥した空気の中で濃密に混ざり合っていた。


 やがて、プシュウゥ、というシリンダー内の圧縮空気の解放音と共に、塗装の剥げかけた列車のドアが左右に開いた。


 瑠璃が漆黒のショートブーツを、プラットホームの劣化したコンクリートへと下ろした瞬間。彼女の極限まで研ぎ澄まされた五感を、圧倒的なまでの『アナログの質量』が包み込んだ。


 隣町、玉永市(たまながし)


 ここは、数十年にわたる風化と劣化の蓄積が、純粋な物質の重みとなって地表に沈殿している、重力の底であった。


 ホームに降り立った瑠璃の鼻腔を真っ先に突いたのは、線路に敷き詰められた木製の古い枕木を腐敗から守るために、高圧で注入されたクレオソート油の強烈な揮発臭である。そこに、車輪とブレーキシューの激しい摩擦によって削り取られた微細な酸化鉄の金属臭、そして、冬の冷たく湿った空気が土とコンクリートの微細なひび割れ(クラック)から引きずり出す、特有の黴と土埃の匂いが重なり合う。


 その煤け、色褪せたセピア色の空間において。ホームに降り立った如月瑠璃の姿は、まるで次元の裂け目から突如として迷い込んできた別世界の貴婦人のように、周囲の空間文脈を完全に破壊するほどの圧倒的な異物感と、息を呑むような気高い美しさを放っていた。


 彼女がこの未知のアナログ迷宮を踏破するために身に纏った日曜日の装いは、一切の妥協も凡庸さも許さない、完璧な物理的武装であった。


 彼女の華奢な体をすっぽりと包み込んでいるのは、深みのあるボルドーのベルベット・ケープである。長い年月をかけて地下のカーヴで熟成された、最高級の赤ワインを思わせるその濃厚で複雑な色彩。それは、シルクの経糸(たていと)を極限の密度でパイル状に織り込み、表面の毛足を熟練の職人の手によって均一に刈り揃えることで生み出された、光学的な奇跡の結晶であった。


 無数の微細な繊維が、冬の弱々しい太陽光を複雑な角度で乱反射し、歩みを進めるたびに、光と影のグラデーションがまるで命を持った液体のようになめらかにケープの表面を移動していく。化学繊維を一切混紡していない純度百パーセントのシルクベルベットが持つ、その極めて高い断熱性と防風性は、玉永市の底冷えする容赦のない寒風から、彼女の生体機能を完璧に保護していた。


 そして、そのボルドーのケープの首元を厳格に守るように巻かれているのは、漆黒のミンクファーの付け襟(ティペット)であった。


 最も寒さの厳しい時期に採取された、最高品質の冬毛のみを厳選したその毛皮。表面を覆う刺毛(ガードヘアー)の鋭く硬質な光沢と、その奥に密生する綿毛(アンダーファー)が作り出す空気の層による圧倒的な保温力。それは首の頸動脈を通る熱を一切外部へと逃がさず、同時に彼女の透き通るような白磁の肌と、深く冷徹なアメジストの瞳の美しさを、漆黒の額縁としてこの上なく残酷なまでに際立たせていた。


 さらに、彼女の純白の綿手袋に包まれた右手には、昨日までの装いには存在しなかった、新たなアイテムが握られている。


 熱帯雨林で数百年かけて育ち、水に沈むほどの圧倒的な密度と硬度を持つ黒檀(エボニー)のシャフト。その頂点には、アンティークの精緻な植物紋様の彫金が施された、純銀の握り手(グリップ)が冷たい輝きを放っている。一本の豪奢なステッキである。


 それは、単なる歩行を補助するための装飾品などではない。未知の不純物が散乱するこの雑多な地方都市において、対象物に直接触れることなくその物理的構造(硬度、反発力、重心)を打診し、あるいは自身に接近しようとする無用なノイズから、絶対的なパーソナルスペースを物理的に確保するための、冷徹な延長器(インターフェース)であった。


 瑠璃は、手の中の銀のステッキを軽く握り直し、先端に保護用の金属が被せられた石突きで、ホームのコンクリートをカツン、と強く叩いた。


(間違いないな。発車ベルの高音域の反響と、急行電車の通過によって生じる風切り音が、複雑なカルマン渦の乱気流を生み出す構造体。昨日の夕方、純白の奇術師がテープレコーダーの磁気テープのノイズフロアの底に、あえて意図的に刻み込んだ『環境音』の発生源は、この玉永駅のホームじゃ)


 瑠璃は、銀のステッキの先端をコンクリートに突き立てたまま、ゆっくりと頭上を見上げた。


 そこにあるのは、月見坂市の駅舎のような、採光性と自己洗浄機能に優れたガラスと鋼鉄の無機質なドームではない。昭和初期に建造され、幾度ものツギハギのような補修を経て黒光りする太い木製の柱と、力学的な荷重を分散させるために複雑に組み上げられた、木造トラス構造の屋根であった。


 長年にわたってディーゼル機関車の排気ガスと鉄粉を浴び続けたことで、木材の表面には微細な炭素の煤が深く沈着し、木目を黒く塗り潰している。


 そして、その煤けた木柱の頂部には、現在も現役で稼働している古い真鍮製の半球状ベルゴングと、それを打ち据えるための電磁石のハンマーが、むき出しの絶縁ケーブルと共に設置されていた。


(見事なまでの音響の(アコースティック・)反響箱(チャンバー)じゃ。この複雑に組まれた木造の屋根が、高音域の鋭い反射を適度に吸収し、あのテープに記録されていた特有の柔らかい残響特性を生み出しておった。……あの姿なき指揮者は、昨日、確かにこの場所に立ち、この空気を物理的に震わせて、わしに玉永市への招待状を送りつけてきたというわけか)


 瑠璃の薄い唇が、知的な歓喜に満ちた不敵な弧を描く。


 彼女は視線を正面に戻すと、ボルドーのケープの裾を優雅に翻し、改札口へと向かって規則正しい足取りで歩き始めた。


 カツン、カツンというステッキの硬質な打撃音と、漆黒のショートブーツの踵が鳴らす足音が、木造の屋根の下で心地よいリズムを刻む。数歩後ろには、オーダーメイドのダークスーツに身を包んだ巨躯のボディガード、黒田が、一切の足音を立てずに巨大な影のように随伴している。


 日曜日の午前ということもあり、ホームには部活に向かうジャージ姿の高校生や、大きな買い物袋を提げた地元の老人たちがまばらに存在していた。しかし彼らは皆、この煤けたアナログな駅舎に突如として降臨した、ボルドーと漆黒の貴婦人が放つ圧倒的なオーラに完全に気圧され、まるで神聖な儀式を邪魔してはならないかのように道を譲り、遠巻きに畏怖の視線を送ることしかできなかった。


 瑠璃は、そのような凡人たちの情動の揺らぎや好奇の視線など、空間の不要なノイズとして完全にシャットアウトしている。彼女のアメジストの瞳は、ただひたすらに、純白の奇術師がこのアナログの迷宮の入り口に用意したであろう『次なる不純物』の気配を、高性能なレーダーのように探索し続けていた。


 ホームの端にある階段を下り、薄暗い地下通路へと足を踏み入れる。


 蛍光灯のいくつかが寿命を迎え、数ヘルツの不快な明滅を起こしている。通路の壁面は結露によって濡れ、地下特有の淀んだ気流が、瑠璃のケープを微かに揺らした。


 地下通路を抜け、地上階にある改札口のコンコースへと向かう。


 そこは、月見坂市の完全自動化されたシームレスなフラッパーゲートとは異なり、古い磁気切符の投入口を持つ分厚い自動改札機と、駅員が直接立って切符に鋏を入れるための有人改札ボックスが混在する、過渡期の遺物のような空間であった。


 瑠璃の歩みが、三台並んだ自動改札機から数メートルの位置で、ピタリと停止した。


(ほう。出迎えの品としては、随分と滑稽で、かつ極めて物理的な皮肉に満ちた不純物を用意したものじゃな)


 瑠璃は、銀のステッキを左手に持ち替え、純白の綿手袋に包まれた右手をそっと自身の顎に添えた。


 彼女の視線の先。三台並んだ自動改札機のうち、一番右側の通路に設置された一台が、通行不可を知らせる赤いLEDランプを激しく点滅させていた。液晶ディスプレイには『故障中』という無機質な文字が明滅し、進行を阻む遮断扉(フラップドア)が固く閉じられている。


 だが、問題は機械の内部のシステムエラーや、ソフトウェアのバグではない。


 その改札機の上面、交通系ICカードをタッチするための、青く発光する平滑な読み取り部(RFIDリーダー)の真上に。空間の文脈を完全に無視した『異物』が、あからさまな自己主張をもって貼り付けられていたのだ。


「黒田。そこから動くな。わし一人で確認する」


「……畏まりました」


 瑠璃は黒田をその場に待機させ、故障を知らせる赤いランプが不吉に点滅する改札機へと、ゆっくりと歩み寄った。


 改札機の強化プラスチックの表面。そこに付着していたのは、縦横わずか数センチメートルほどの、薄汚れた『紙切れ』であった。


 パルプ繊維の荒い、安価な白い画用紙の切れ端。そこに、赤い水彩絵の具、あるいは安物のフェルトペンで、不器用に歪んだ円が描かれている。さらに、その紙の四辺はハサミやカッターで直線的に切られたのではなく、何者かの手によって乱暴に引きちぎられたような、不規則で毛羽立った繊維の断面を晒していた。


(子供が図工の時間に作ったような、ちぎれた紙の『日の丸(国旗)』じゃな)


 非接触型ICカードに内蔵されたアンテナと電磁誘導を起こし、情報を読み取るための高度な電子デバイスの表面。そこに、子供の落書きのようなちぎれた日の丸の紙切れが貼り付けられているという、強烈なまでの情報の落差。


 だが、瑠璃の脳髄を真に沸騰させたのは、その国旗の拙い絵柄ではない。


 その紙切れが、一体『いかなる物理的接着手段』を用いて、この垂直に近い傾斜を持つIC読み取り部に強固に張り付いているのかという、接着物質の構造であった。


 瑠璃は、改札機の上に上半身をわずかに傾け、その日の丸の紙切れの裏側――読み取り部との接点へと顔を限界まで近づけた。


 セロハンテープのポリプロピレンフィルムの光沢や、合成樹脂系の接着剤がはみ出した痕跡は一切ない。


 紙切れの裏側とプラスチックの間に挟まり、両者を強固に結合させていたのは、黒緑色をした薄く脆い、繊維状のシートの破片であった。


(紅藻類ウシケノリ科のアマノリ。それを細かく刻み、簀子(すのこ)の上に薄く抄いて熱風で乾燥させた海産物。すなわち、朝食の食卓に並ぶ『乾燥海苔』じゃな)


 瑠璃の極限の物理的観察眼が、その物質の組成と接着のメカニズムを瞬時に解体し、論理的な数式へと変換していく。


 海苔を構成する細胞壁には、ポルフィランと呼ばれる水溶性の食物繊維が大量に含まれている。パリパリに乾燥した海苔に、人間の唾液や空気中の水分がわずかに付着すると、このポルフィランが水分を吸収して急激に膨潤し、強烈な粘性を持った天然の高分子接着剤へと変質する。


 そして、水分が再び空気中へと蒸発していく乾燥の過程で、多糖類の分子がプラスチックの平滑な表面と、紙のセルロース繊維の間で複雑な水素結合の架橋を形成し、信じられないほど強固に固着するのだ。


 高度な暗号化通信を行い、ゲートの開閉をミリ秒単位で制御する最新のデジタル機器。


 その心臓部である読み取りアンテナの真上に。唾液と乾燥海苔という、あまりにも原始的で、有機的で、馬鹿馬鹿しいほどにアナログな粘着力を用いて、ちぎれた日の丸が貼り付けられている。


 システムがエラーを起こし、故障ランプを点灯させた物理的要因は極めて明白であった。


 この海苔に含まれる水分と微量のミネラルが、ICリーダーが発する微弱な電磁波に対して誘電損、あるいはアンテナのインピーダンスの不整合を引き起こし、通信の同調を完全に狂わせたのだ。


 たった数センチの画用紙の切れ端と、一枚の乾燥海苔。


 そんな極限までチープで身近なアナログ物質の組み合わせによって、数百万円はするであろう自動改札機のデジタル制御が完全に沈黙させられ、その機能を封殺されている。


(最新のデジタルインフラを、唾液と海苔とちぎれた紙切れという有機物の干渉で機能停止に追い込む。……純白の奇術師よ。お主がこのアナログな地方都市の入り口に仕掛けた盤面は、最高に滑稽で、かつ最高に理にかなった見事な物理トリックじゃな)


 これまでの『鏡餅のたぬき』や『文庫本の鮭』と完全に同じ文脈である。


 一見すると、常識を欠いた狂人や子供の無意味な悪戯にしか見えないこの異常な光景も、あの見えざる天才がこの玉永市という新たな箱庭に配置した、完璧な計算に基づく『最初の駒』に他ならない。


 ちぎれた国旗。乾燥海苔。


 これらの不純物がいかなるルーツを持ち、玉永市のどこから来て、誰の手によって、どのような情動を伴ってこの改札機に貼り付けられたのか。


「……面白い。このあまりにもアナログで無意味に見える不純物の裏側に、お主がいかなる数式を隠し持っているのか。わしの観察眼で、分子のレベルまで完全に暴き出してやろうではないか」


 瑠璃の薄い唇から、抑えきれない知の歓喜と闘志が漏れた。


 彼女は、ボルドーのベルベット・ケープの下から純白の綿手袋に包まれた右手を滑り出させ、深いコートのポケットへと入れた。


 そして、彼女の絶対的な武器である、アンティークの彫金が施された『純銀のルーペ』を、静かに、しかし流れるような研ぎ澄まされた所作で引き抜いた。


 改札機の赤いLEDランプが不吉に明滅し、エラーの警告音が鳴り響く中。孤高の令嬢による、管轄外の都市・玉永市における極限のアナログ鑑定の幕が、今、完全に切って落とされたのである。



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