表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
第8巻:如月令嬢は『箱庭の秒針を読み違えない』  作者: アリス・リゼル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/29

第3話『時計』 ~section1:レトロな街並みと、絡みつく糸~

 一月十日、土曜日。午後。


 月見坂市という巨大な都市は、決して単一の顔を持つ均質な空間ではない。それは、極限まで最適化された電子の血流が脈打ち、徹底的な舗装と再開発によって無機質に制御された『新市街』と、とうの昔に都市計画の網目から見放され、重力と風化という物理法則のままに沈殿していく『旧市街』という、完全に相反する二つの空間が、いびつな断層を抱えたまま縫い合わされてできた巨大なパッチワークである。


 その二つの世界を明確に分かつ物理的な境界線――都市を東西に分断する巨大な高架下を、一台の艶やかな漆黒の高級車が、一切の排気音を響かせることなく静かに潜り抜けようとしていた。

 月見坂市の経済を根底から支配する如月コンツェルンが、令嬢である如月瑠璃の移動専用にあつらえた最高級のショーファードリブン、マイバッハである。


 車体を覆う漆黒の塗装は、周囲の光を鏡のように反射する極限の平滑性を保っている。先ほどまで分厚い防音ガラスの外を流れていた、ガラス張りの高層ビル群や、空を覆い尽くすデジタルサイネージの暴力的な光の海は、高架の暗がりを抜けた瞬間に幻のように途絶えた。

 代わりにマイバッハの車窓に現れたのは、透水性アスファルトの代わりに敷き詰められた凹凸の激しい石畳と、黒く変色した木造建築や赤煉瓦の洋館が肩を寄せ合うように密集する、セピア色のレトロな街並みであった。


 約三トンに迫る車体の極太のタイヤが、アスファルトから石畳へと乗り上げた瞬間、走行に伴う路面との物理的な摩擦係数と、車体に伝わる振動の周波数は劇的な変化を遂げる。

 しかし、運転席で本革のステアリングを握る最強の専属護衛、黒田のペダルワークに微塵の狂いも生じない。彼は石畳を構成する花崗岩の不規則な凹凸のパターンを視覚情報から瞬時にアナログで計算し、電子制御のエアサスペンションのストロークを補うようにアクセルとブレーキを極限まで繊細に調整した。その結果、後部座席を満たす絶対的な静寂と、水面のように揺るぎない水平状態は、いかなる物理的衝撃にも侵されることなく完璧に保たれていた。


 外界のノイズが完全に遮断された、摂氏二十度に温度管理された快適な密閉空間。

 最高級のナッパレザーが張られた後部座席の中央で、瑠璃は深く腰を下ろしたまま、その気高く美しい身を一切動かすことなく、ただ静かに自身の指先へと視線を注いでいた。


 彼女の深く冷徹なアメジストの瞳は、純白の綿手袋に包まれた右手の指先で摘ままれた、一つの小さな物体にのみ、強烈な焦点(フォーカス)を合わせている。

 それは、先ほどの新市街の外れにある食品サンプル工房において、アクリル製の銀鮭の表面から精密ピンセットを用いて抽出した『古い絹の刺繍糸』を収めた、円筒形の小さなガラスの小瓶(プレパラートケース)であった。

 瑠璃は、車窓から差し込む冬の午後の弱々しい陽光に、そのガラスの小瓶を静かに透かして見つめていた。


 光を透過した無色透明のガラスの奥で、一本の極細の繊維が、まるで重力から解放されたかのようにふわりと浮遊している。

 それは、大量生産された均質な化学染料(アニリン染料)による単調な染色ではない。アルミニウムや鉄のイオンを媒染剤として用い、植物から抽出された天然の色素を繊維の表面に複雑に定着させる『草木染め』特有の、深く、くすんだような藍色(インディゴ)

 そして、蚕の繭から引き出されたフィブロインの結晶体が織りなす、滑らかな三角形の断面構造が光を乱反射して生み出す、真珠のような特有の高貴な光沢。


「大量生産の化学繊維と、デジタルのノイズにあふれたあの新市街には、空間的にも文脈的にも、絶対に存在しないはずの古いモノ」


 瑠璃の薄い唇から、誰に聞かせるでもない、静かで透徹した独白が漏れた。

 あの奇術師は、月見坂市のインフラをハッキングして二人の人間を大型書店の通路で秒単位の計算によって激突させ、意図的にこの絹糸を『次の道標』として残したのだ。

 デジタル検索の網目には決して引っかからない、物質そのものが語る完全なる暗号。

 古い年代の染色法。手作業で紡がれた太めの刺繍糸。

 それらの物理的・アナログな要素が示す座標は、最新鋭のスマートシティである新市街の中には絶対に存在しない。向かうべき場所はただ一つ、都市計画から取り残され、この古き良き時代の残骸が物理的な質量を持って沈殿している――旧市街しかあり得なかった。


「お嬢様。旧市街の中心部、骨董通りへと進入いたしました」


 運転席から、黒田の重厚で静かな声が響いた。


「ここでよい。車を停めよ」


「畏まりました」


 マイバッハは、大正時代に建てられたと思われる古びたレンガ造りの洋館と、黒光りする木造の日本家屋が混在する奇妙な通りの片隅で、石畳の摩擦を完璧に制御しながら音もなく停止した。

 瑠璃は、黒田が外からドアを開けるのを待つという淑女の作法すら放棄し、自らの純白の手袋で重厚なドアハンドルを引いた。

 分厚い気密扉が開かれた瞬間、外界の空気が、車内の無菌状態の空間へと一気に雪崩れ込んでくる。


 瑠璃が漆黒のショートブーツを石畳の上に下ろした瞬間、ブーツの硬質な革の踵が、不規則に並べられた花崗岩の表面を叩き、カツン、という乾いた物理的な打撃音を響かせた。

 それは、彼女がこの巨大なアナログの迷宮へと完全に足を踏み入れたことを知らせる、開戦の合図であった。


 車外に出た瑠璃の五感を、旧市街特有の圧倒的な情報量が瞬時に包み込んだ。

 新市街の無機質なコンクリートと排気ガスの匂いとは、根底から異なる複雑な空気の層。瑠璃は目を閉じ、肺の奥底までその冷たい空気を吸い込み、嗅覚の感度を極限まで引き上げた。

 脳内に流れ込んでくるのは、数十年、あるいは百年という途方もない時間の蓄積が、物質を物理的・化学的に変容させて生み出した、複雑極まりない匂いのオーケストラであった。


 木造建築を構成する木材の細胞壁――セルロースとヘミセルロースが、長年にわたる紫外線と湿度の影響でゆっくりと加水分解を起こし、リグニンが酸化分解されることによって生じる、古い紙やバニラにも似た特有の甘く枯れた匂い。

 どこかの仏具店から漂ってくる、白檀(サンダルウッド)や沈香といった香木に火が点けられた際に発生する、芳香族化合物の深く重い煙の匂い。

 そして、無数の人間たちが歩き、生活し、衣服を擦り合わせることで発生した微細な繊維屑や皮膚の角質が、長い時間をかけて土埃と混ざり合い、建物の隙間に沈殿して形成された、都市の地層とも呼ぶべき『埃の匂い』。


 それらすべてのアナログな匂いの分子が、冬の冷たく乾燥した空気の粒子に乗って、瑠璃の鼻腔を絶え間なく刺激する。


(やはり、空気が重いな。新市街が仮想空間ならば、ここは物質が純粋な質量を持って沈殿する、重力の底じゃ)


 瑠璃はアメジストの瞳を開き、目の前に広がるレトロな街並みを冷ややかに見据えた。


 彼女はデジタルデバイスによる地図アプリも、観光ガイドのデータも一切必要としない。

 彼女の脳内には、都市の発展の歴史と、工芸や染物がどのような水系や日照条件を求めて集落を形成するかという、人文地理学と都市工学の膨大なデータベースが完全に構築されている。

 このコートのポケットに収められた『古い絹の草木染め刺繍糸』。このような特殊なアンティーク素材を専門に扱い、あるいはそれを修繕するための工房が存在するエリアは、水洗いのための古い井戸水脈が地下を走り、かつ直射日光による染料の退色を防ぐために北向きの採光窓を持つ長屋が密集する、旧市街の北東ブロック――『職人町』の一角に限定される。


「待機しておれ」


 背後で静かに直立する黒田に短く命じると、瑠璃は一切の迷いがない、規則正しく硬質な足取りで石畳の通りを歩き始めた。

 周囲を歩く少数の観光客や地元の老人たちが、時代錯誤なまでに気高く、息を呑むほど美しい彼女の姿に驚いて道を譲るが、瑠璃は彼らの存在など路傍の石ころ程度にしか認識していない。彼女の『物理的観察眼』は、ただひたすらに、あの絹糸が発する見えないルーツの糸を、物理空間の座標として逆に手繰り寄せていた。


 入り組んだ細い路地を幾つも曲がり、木造の軒先が触れ合いそうなほどに密集したエリアへと足を踏み入れる。

 太陽の光は建物の屋根に遮られ、路地の底は昼間であっても薄暗く、冬の底冷えが石畳から直接這い上がってくる。

 やがて、職人町へと向かっていたはずの瑠璃の足取りが、とある一軒の古い店舗の数メートル前で、不意に速度を落とした。

 その建物の前まで来たとき、瑠璃の優れた聴覚が、これまでの路地裏の静寂を完全に打ち破る、極めて特異で、しかし規則的な『物理的ノイズの集合体』を捉えたのだ。


 チクタク、チクタク、カチ、カチ、カチ……。


 それは単一の音ではない。

 音の発生源、周波数、振幅、そしてリズムが完全にバラバラな、無数の金属音と木材の反響音が、一つの建物の中から絶え間なく溢れ出し、路地の空気を物理的に震わせていた。

 瑠璃は立ち止まり、その音の構造を脳内で瞬時に解体する。

 重力によって引き下げられる分銅の力、あるいは極限まで巻き上げられたゼンマイの復元力。それらの物理的エネルギーを、幾重にも噛み合う歯車群を介して回転運動へと変換し、そのエネルギーが一瞬で放出されるのを防ぐために、アンクルと呼ばれる特殊な金具とガンギ車が一定のリズムで噛み合い、弾かれる際に生じる、極小の打撃音。

 そして、そのリズムをガリレオ・ガリレイが発見した絶対的な物理法則――『振り子の等時性』によって正確に制御する、真鍮製の重い振り子が空気を切り裂く微細な摩擦音。


 無数のアンティーク時計――古びた柱時計や置時計が、電波受信による電子的な同期など一切受けることなく、それぞれが内包する物理法則の限界に従って、独自の『アナログな時間』を刻み続けている音のオーケストラであった。


 瑠璃は、その音の奔流の中心にある、黒光りする太い木製の柱と、細かい格子が嵌め込まれたガラス戸を持つ店舗を見上げた。

 軒先に掛けられた煤けた木製の看板には、金箔の剥げかけた文字で『時宗時計店』と彫り込まれている。

 アンティークの機械式時計の修理と販売を専門とする、旧市街でもひときわ古い歴史を持つ時計屋。


 なぜ、絹糸のルーツを追っていたはずの歩みが、この時計屋の前で止まったのか。

 その答えは、瑠璃の極限の観察眼が、ガラス戸の向こう側に広がる薄暗い店内において、空間の文脈から決定的に逸脱した『強烈な不純物』の存在を、すでに捉えていたからに他ならなかった。


 瑠璃は純白の綿手袋をはめた右手を伸ばし、真鍮製の古びた取っ手を掴んで、重い引き戸をゆっくりと横にスライドさせた。

 ガラガラ、という戸車の摩擦音と共に、店内に充満していた幾重にも重なる秒針の音が、さらに直接的な物理的圧力となって瑠璃の全身を包み込んだ。


 店内は、文字通り『時間が堆積した空間』であった。

 壁という壁を埋め尽くすように掛けられた、オーク材やマホガニー材で装飾された巨大なホールクロック。ガラスケースの中に整然と並べられた、金張りの懐中時計の数々。それらすべてが、チクタクと各々のリズムで秒を刻み、店内の空気は複雑なウェーブ・インターフェランスを引き起こして、独特のうねりを生み出している。

 機械式時計の心臓部を守るための機械油の微かな匂いと、真鍮の金属臭。デジタルの光は一切存在せず、電球色の暖かくも薄暗い照明だけが、歯車の冷たい輝きを頼りなく照らし出している。


 店の奥には修理用の小さな作業机があり、大量の極小の歯車やピンセットが散乱していたが、店主らしき人物の姿はどこにも見当たらなかった。

 だが、瑠璃にとって店主の不在など些末な問題でしかない。

 彼女のアメジストの瞳は、店に入った瞬間から、中央に置かれた低く横長のガラス製ショーケースの上に、まるで何かの祭壇に供えられた生贄のように不自然に放置された『ある物体』に、完全に固定され、釘付けになっていたのだ。


 瑠璃は、周囲のアンティーク時計が放つ圧倒的な時間の圧力に微塵も怯むことなく、靴底の響きすらも完全にコントロールした優雅な歩みで、そのショーケースの前へと進み出た。


「なるほど。空間の文脈破壊も、ここまで来ればもはや芸術の域じゃな」


 瑠璃の薄い唇から、氷のように冷たく、しかし知的な歓喜に満ちた呟きが漏れた。


 彼女の目の前、古びた真鍮の懐中時計が並ぶショーケースのガラス天板の上に置かれていたのは、このレトロな時計店において、絶対に、何があっても存在するはずのない異物であった。


 それは、『最新式のデジタル腕時計』である。


 内蔵されたアンテナで標準電波を受信し、あるいはGPS衛星からの時刻情報をミリ秒単位で同期する、完全なるデジタル技術の結晶。ケースの素材は外部からの物理的衝撃を極限まで吸収する漆黒のポリカーボネート樹脂であり、液晶画面の周囲には無機質な赤い文字でモード表示が印字されている。

 ゼンマイの張力と歯車の比率、そして重力という純粋な物理法則の連鎖だけで相対的な時を刻むアンティーク時計の群れの中に、ネットワークを通じて外部から絶対的な電子時刻を強制される最新のデジタルデバイスが置かれているという、強烈なまでの『哲学的な矛盾』と『空間的異物感』。


 だが、瑠璃を真に戦慄させ、同時に彼女の脳髄を沸騰させたのは、そのデジタル腕時計の存在そのものではない。

 その腕時計の無機質な黒いポリウレタン製のバンドの部分に、異常なまでの執着と物理的力学をもって『絡みついているモノ』の姿であった。


 デジタル時計のバンドに、深い藍色の糸が、まるで獲物を捕食した毒蜘蛛の巣のように、幾重にも、幾重にも、執拗に巻き付けられている。

 その糸は、先ほど瑠璃がアクリルの鮭から抽出し、今まさにポケットの小瓶に収められているあの糸と、太さ、撚り方、そして草木染めによる藍色の色素の不均一な凝集具合に至るまで、完全に同一のマテリアルであった。


『古い絹の刺繍糸』。


 それが、無機質な黒いポリウレタンバンドに対し、異常なまでの張力(テンション)をもって固く縛り付けられている。

 絹糸の細い繊維が、自らの引張強度の限界まで引き伸ばされ、弾力のあるポリウレタンの表面に深く食い込み、明らかな物理的陥没を生じさせているのが、肉眼でもはっきりと見て取れた。

 それは単に糸が絡まったというような偶然の産物ではない。明確な殺意にも似た強い意図を持った何者かが、途方もない物理的腕力を用いて、最新式のデジタル時計を『縛り上げ』、完全に封じ込めようとした暴力的な痕跡であった。


「最新のデジタルインフラを象徴する無機質な黒いデバイスに、手作業で染め上げられた古い絹糸が、異常な張力で物理的に食い込み、縛り上げている……」


 瑠璃は、無数のアンティーク時計の秒針の音が降り注ぐ中、その異様な光景を冷ややかに見下ろした。

 校長室の密室に置かれた、フェルトを縫い付けられた『鏡餅のたぬき』。

 大型書店の新作ミステリー文庫に挟み込まれた、『アクリルの鮭』。

 そして今、旧市街のアンティーク時計店に放置された、絹糸に縛り上げられた『最新のデジタル腕時計』。


 すべては、あの純白の奇術師が、月見坂市という巨大な箱庭の上で展開している、完璧に計算し尽くされた物理パズルの盤面。

 人間の歩行速度も情動すらもパラメータとして組み込み、瑠璃をこの場所へと寸分の狂いもなく誘導してみせた、見えざる天才からの三度目の招待状。


(見事な不純物じゃ)


 瑠璃は、アメジストの瞳の奥で、見えない宿敵に対する烈火のごとき闘志の炎を静かに燃え上がらせた。

 そして、純白の綿手袋に包まれた右手をゆっくりと持ち上げ、その滑稽で、美しく、そして謎に満ちた不純物の塊へと、静かに、しかし一切の躊躇いなくその指先を伸ばしていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ