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第8巻:如月令嬢は『箱庭の秒針を読み違えない』  作者: アリス・リゼル


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第2話『文庫』 ~section5:古い絹糸と、旧市街~

 薄暗く、化学塗料の揮発臭と石膏の粉塵が充満する食品サンプル工房。その淀んだ空気の中で、完全に戦意を喪失し、丸椅子の上で力なく項垂れる若い職人の存在は、如月瑠璃の極限まで研ぎ澄まされた意識のネットワークから、すでに完全に削ぎ落とされていた。

 自らの愚鈍さによって最高傑作を失ったという絶対的な物理的結果。それを突きつけられ、ただ絶望という名の浅薄な情動の波間に沈んでいく無力な操り人形。そのような自意識の殻に閉じこもった人間にこれ以上の尋問を重ねたところで、盤面の深淵へと至る新たな物理的情報は一ミクロンたりとも抽出できない。彼は、純白の奇術師が月見坂市という巨大な箱庭のインフラをハッキングし、秒単位の歩行速度と経路を操作するためだけに使い捨てた、単なる一回限りの生きた運搬装置に過ぎなかったのだ。


 瑠璃は、ダークグリーンの最高級ヴァージンウールで仕立てられたAラインコートの裾を優雅に翻し、むせび泣く職人に完全に背を向けた。

 彼女の冷徹で美しいアメジストの瞳は、作業台の上に置かれたあの滑稽な不純物――『アクリル製の銀鮭の切り身』へと再び真っ直ぐに注がれていた。

 職人との無意味な対話はとうに終了している。彼女の知の渇望と物理的観察眼の焦点はすでに、職人が大型書店の通路で衝突した見知らぬ老女という、盤面上に新たに配置された『二つ目の駒』へと完全に移行していた。


 二人の人間が、異なる軌跡を描きながら、特定の座標と特定の時刻において激突するという物理現象。

 質量を持った二つの物体が衝突すれば、そこには必ず運動エネルギーの移動と、表面の摩擦による物質の交換――すなわち、目に見えないミクロの痕跡の転写が発生する。フランスの犯罪学者エドモン・ロカールが提唱した『すべての接触は痕跡を残す』という絶対的な物理的真理。

 あの純白の奇術師が、職人のスマートフォンと書店のデジタルサイネージを同時にハッキングし、秒単位のタイミングを計ってまでこの衝突という事象を強制的に引き起こしたのである。ならば、そこには単に鮭を落とさせるという目的以外に、瑠璃を次なる迷宮へと誘うための物理的な道標が、必ず意図的に付着させられているはずなのだ。


 瑠璃は純白の綿手袋に包まれた右手に再び純銀のルーペを構え、作業台の上のアクリルの鮭へと極限まで顔を近づけた。

 工房の天井から吊り下げられた、埃に塗れた無機質な蛍光灯の光。瑠璃は自身の立ち位置とルーペの角度をミリ単位で微調整し、鮭の表面に塗布された二液性ポリウレタンの分厚いクリア層に当たる光の反射角を意図的に歪ませていく。光の乱反射を利用した、表面構造の極小のイレギュラーの探索である。


 レンズ越しに拡大される、鮭の皮の焦げ目と、身のオレンジ色のグラデーションの境界線。

 職人が素手で乱暴に掴んだことによる皮脂の付着と、微細な摩擦痕。そこからさらに視界を横へと滑らせていく。


(ビンゴじゃ)


 瑠璃の薄い唇が、静かな歓喜の弧を描いた。


 アクリルの鮭の側面。本物のハラスの筋を模して面相筆で描かれた白い塗料のわずかな隆起。そのミクロの凹凸の隙間に、肉眼では絶対に捉えきれないほどの極細の繊維が、静電気と微量な油分によって一本だけ、まるで蜘蛛の糸のように絡みついていたのだ。


 瑠璃はダークグリーンのコートの内ポケットから、銀製の小さな筒を静かに取り出した。

 キャップを外すと、そこから現れたのは、先端が極限まで細く、かつ鋭利に研ぎ澄まされた医療用の非磁性精密ピンセットである。微細な証拠品を採取する際、金属の磁化による反発や吸着を防ぎ、対象物の物理的構造を一切破壊することなく保持するための、完全なるアナログの抽出器具。


 瑠璃は息を完全に止めた。自らの肺から押し出されるわずかな呼気の気流すらも、この極微小な繊維を吹き飛ばしてしまう致命的なノイズとなるからだ。

 ルーペを持つ左手はピタリと静止し、完璧な焦点距離を維持している。純白の手袋をはめた右手の指先が、ピンセットの金属の弾力を極限の繊細さでコントロールする。刃先のようなピンセットの先端が、アクリルの表面に傷一つ付けることなく、その極細の繊維の端を正確に、そして優しく挟み込んだ。

 重力に逆らうようにして、その繊維が鮭の表面から持ち上げられる。


 抽出されたその一本の繊維をピンセットで挟んだまま、瑠璃は蛍光灯の光を背にし、自らの懐中電灯を取り出して、繊維の背後から強烈な白色光を照射した。

 透過光とルーペのレンズによる、繊維の光学的および物理的構造の完全な解体。


(これはポリエステルでも、ナイロンでも、アクリルでもない。植物由来の綿や麻が持つ、特有の捻れや節も存在しない)


 瑠璃の脳内に蓄積された膨大なマテリアルと繊維工学のデータベースが瞬時にその物質の組成を分析し、不要な選択肢を冷徹に切り捨てていく。

 光を透過したその繊維は、表面が驚くほど滑らかでありながら、内部には複雑な層の構造を持っていた。そして何より、ペンライトの光を受けて、まるで極小のプリズムのように真珠を思わせる特有の高貴な光沢を放っている。


(動物性タンパク質繊維。断面が滑らかな三角形を形成し、それが光を乱反射させることで特有の光沢を生み出す構造。蚕の繭から引き出された、フィブロインの結晶体。すなわち絹じゃな)


 瑠璃は、その繊維の正体を絶対的な真理として特定した。

 しかし、単なる絹糸ではない。瑠璃の観察眼は、その絹糸の表面にこびりついている色彩のルーツへとさらに深く潜行していく。


 現代の絹糸の多くは、大量生産とコスト削減のため、合成染料によって均一に、そして短時間で染め上げられている。化学染料で染められた繊維は、レンズで拡大しても顔料の粒子が完全に繊維の内部まで浸透しきっており、表面に不純物の層を持たない。

 だが、ピンセットの先端に挟まれたこの絹糸の色。深く、くすんだような独特の藍色の表面には、微細な色素の粒子が繊維の表面に不均一に凝集している様子が確かに見て取れた。


(化学合成された染料ではない。植物から抽出された天然色素を用い、アルミニウムや鉄のイオンを媒染剤として繊維の表面に色素を定着させる、極めて古い年代の伝統的な草木染めによって染められた、アンティークの絹糸)


 瑠璃は目を細め、その繊維の撚りの甘さを確認した。


(手作業で紡がれた太めの刺繍糸じゃな)


 古い年代の染色法で染められた、絹の刺繍糸。

 その物理的情報の意味するものを、瑠璃の明晰な頭脳は瞬時に弾き出した。

 この月見坂市新市街は、徹底的な都市計画によって建設された、ガラスとコンクリートと電子ネットワークから成るスマートシティである。街を行き交う人々の衣服は、そのほとんどが化学繊維であり、仮に天然素材であったとしても、現代の化学染料で均一に染められた工業製品ばかりである。

 そのような、大量生産の化学繊維とデジタルデバイスにあふれた無機質な新市街の巨大書店において、天然染料の手染めによる古い絹の刺繍糸などというものは、空間の文脈から完全に逸脱した、ありえない不純物の極みであった。


(職人がぶつかったという、古いちゃんちゃんこを着た小柄な老女。あの純白の奇術師は、その老女の衣服にあらかじめこの古い絹の刺繍糸を仕込み、激しい物理的衝突の瞬間に、アクリルの鮭の表面にこの繊維が転写されるよう、極めて精密な運動量と摩擦係数の計算を行っていたというわけか)


 瑠璃はピンセットの先の繊維を見つめたまま、静かに、しかし体の底から沸き立つような歓喜の笑みを浮かべた。


 見事な物理的誘導である。

 もしこの鮭がただ書店に放置されていただけであれば、ルーツの追跡はあの愚鈍な職人の工房で完全に途絶えていた。しかし奇術師は書店での衝突という物理的接触を意図的に引き起こすことで、鮭の表面に次の座標を示す微小な繊維を付着させたのだ。それは、瑠璃の持つ極限の物理的観察眼と、ルーペを用いた徹底的なアナログ鑑定でしか絶対に発見できない不可視のメッセージ。

 デジタル検索の網目には決して引っかからない、物質そのものが語る完全なる暗号であった。


 古い絹糸。伝統的な染色法。手作業の刺繍。

 それらのアナログな要素が示す座標は、この最新鋭のスマートシティである新市街の中には絶対に存在しない。向かうべき場所はただ一つ。月見坂市の東側、再開発の波を免れ、大正や昭和の古い建築物と昔ながらの職人たちの工房が密集し、時間が止まったかのようなレトロな景観を今に残すエリア。

 すなわち、旧市街である。


(すべてが計算し尽くされた、完璧な迷宮への招待状。デジタルの海に潜む怪物が、あえて極限のアナログ手段を用いてわしを導くか。面白い)


 瑠璃はピンセットで挟んだ絹の刺繍糸を、コートのポケットから取り出した小さなガラス製のプレパラートケースへと慎重に収め、コルクの栓を固く閉じた。これが奇術師の喉元へと迫るための、次なる絶対的な物理的道標となる。

 そして瑠璃は、作業台の上に置かれたアクリルの鮭を、まるで道端に落ちている石ころでも見るかのような冷ややかな視線で見下ろした。

 素材は暴かれ、足跡は読み解かれ、次の道標の抽出も完了した。すべてのルーツが論理的に解明された今、この精巧な食品サンプルは、瑠璃にとってもはや何の価値も持たないただの『抜け殻』に過ぎない。


「ルーツの解明は済んだ。そのような抜け殻に、もはや如月が興味を抱く価値はない。拾うがよい」

 瑠璃は振り返ることなく、氷のように冷酷な声で背後の職人へと言い放った。


「え……? そ、それじゃあ、この鮭は……」


 職人は驚愕に顔を上げ、作業台の上に無傷で残された自らの最高傑作を見つめた。


「せいぜい、己の盲信を悔いながら、二度と画面の青い線などに踊らされぬよう、その目と足で現実の空間を歩くことじゃな」


 絶対的な論理の忠告だけを残し、瑠璃は工房の重い鉄扉へと向かって漆黒の編み上げブーツの踵を返した。


「あ、ありがとう……! 本当に、ありがとう……!」


 背後で職人が鮭を両手で抱きしめ、涙声で感謝の言葉を叫んでいたが、瑠璃の歩みは一ミリたりとも止まることはない。バタンという鈍い金属音が、職人との完全な断絶を宣言した。


 赤錆の浮いた外階段を、硬質な足音を響かせて下りていく。

 建物の外は冬の陽が完全に傾き、月見坂市の空は血のような深い赤色から、すべてを飲み込むような濃紺の夕闇へと変貌を遂げようとしていた。冷たく乾いた寒風が、プラタナスの枯葉を路地裏のアスファルトで虚しく転がしている。


 階段を下りきった歩道の縁石には、完璧な平行を保ったまま、艶やかな漆黒のマイバッハが静かに待機していた。瑠璃の足音が近づくのと完全に同時に、運転席の分厚いドアが開き、巨躯のボディガードである黒田が一切の足音を立てずに滑り出てきた。彼は主の帰還に対し、安堵も疑問も表情に出すことなく、ただ完璧な所作で後部座席の重厚なドアを開け放った。


「お疲れ様でした、お嬢様」


 黒田の低く重みのある声が、冬の夕暮れの冷気に溶け込む。

 瑠璃は純白のアスコットタイの結び目をわずかに正し、外界の冷気を完全に遮断した快適な車内へと、その気高く美しい身を優雅に滑り込ませた。


 ドアが閉ざされ、分厚い防音ガラスが月見坂市のすべてのノイズを遮断する。最高級のナッパレザーのシートに深く腰を下ろした瑠璃は、コートのポケットの上から、あの絹糸が収められたガラス管の確かな硬さを確認した。


「黒田、車を東へ向けよ。新市街を抜け、旧市街へ向かうのじゃ」


 ルームミラー越しに、瑠璃の深く冷徹なアメジストの瞳が運転席の黒田の視線を真っ直ぐに射抜いた。


「畏まりました」


 黒田は、主がまたしても帰宅という選択肢を放棄し、今度は市の反対側にある古く入り組んだ街並みへと向かう命令を下したことに対し、心の奥底で泣き崩れながらも、表面上は微塵の動揺も見せずに短く応じた。

 彼には、瑠璃がなぜそこへ向かうのか、いかなる論理的飛躍があったのかは全く理解できない。だが、この孤高の令嬢が明確な目的地を口にした時、そこには必ず、宇宙の真理にも等しい絶対的な物理的根拠が存在することだけは、長年の経験から痛いほどに熟知していた。


(あの純白の奇術師が配置した二つ目の駒が残した、このアンティークの絹糸。そのルーツを辿り、見えざる盤面の奥底へと踏み込むぞ)


 瑠璃の脳内で紡がれたその思考は、かつて自分を打ち負かしたあの天才的な頭脳に対する明確な宣戦布告であった。相手がすべてを計算し尽くし、自分を旧市街へと誘導していることは百も承知である。あえてその完璧な誘導に乗り、相手の用意した迷宮の最深部へと自ら足を踏み入れる。それこそが、究極の物理的観察眼を持つ者のみに許された、最も傲慢で美しい反撃の始まりなのだ。


 巨大なV型十二気筒エンジンが一切の振動を感じさせることなく、重厚なマイバッハの車体を静かに前へと押し出した。

 最新鋭の高層ビル群とデジタルサイネージが放つ無機質な光の海を背にし、漆黒の高級車は、時間が止まったかのようなレトロでアナログな街並みが広がる旧市街へと向けて、夕闇に染まる月見坂市の大通りを滑るように走り出していく。


 車内の絶対的な静寂の中、瑠璃のアメジストの瞳はこれから始まるであろう未知の物理パズルへの渇望によって、氷のように冷たく、そして恐ろしいほどの美しさで妖しく輝き続けていた。



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