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第8巻:如月令嬢は『箱庭の秒針を読み違えない』  作者: アリス・リゼル


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プロローグ:『疑惑』

 一月八日、木曜日。身を切るような寒波が月見坂市を覆い尽くした早朝のことである。


 如月学園高等部、その最上階に位置する校長室には、暖房の熱気とは全く異なる、息苦しいほどの緊迫感が充満していた。

 分厚いマホガニーの執務机を囲むように立つ数名の教師たちは、皆一様に顔を青ざめさせ、口を真一文字に結んでいる。その中心で、学園長である大河内高治(おおこうち たかじ)は、怒りで顔を朱に染め上げ、微かに肩を震わせていた。


 大河内の鋭い視線の先、机の中央には、白木の三方の上に鎮座する一つの物体があった。


 それは本来、新春を祝うための神聖な供え物であるはずだった。如月学園の最大の出資者であり、月見坂市の経済を牛耳る如月コンツェルン社長――如月彰から年末に直接贈られた、由緒正しき見事な二段の鏡餅。

 しかし今、大河内の目の前にあるそれは、原型こそ留めているものの、あまりにも滑稽で、かつ悪意に満ちた異物へと変貌を遂げていた。


 純白の餅の側面には、茶色いフェルト生地で作られた短い手足が、ご丁寧にも太い糸で直接縫い付けられている。背面に回れば丸みを帯びた尻尾までが接着されており、頂点に乗っているはずの橙の代わりには、和紙で作られた奇妙な編み笠が被せられていた。

 誰がどう見ても、それは『鏡餅を胴体に見立てたたぬきの人形』であった。


「……誰だ。一体誰が、このようなふざけた真似を」


 大河内の野太い声が、静まり返った校長室に低く響き渡る。

 如月コンツェルンからの贈り物に対する、これ以上ないほどの侮辱行為。大河内にとって、それは己の首を物理的に絞められることと同義であった。


 教頭がハンカチで額の汗を拭いながら、震える声で報告を上げる。


「学園長、それが……全く手がかりが掴めないのです。昨夜、最後にこの部屋を出た警備員は、間違いなく鏡餅が通常の状態であったと証言しております。そして今朝、清掃員が部屋に入るまで、この扉の電子ロックは施錠されたままでした」


「窓はどうなっている」


「すべて内側からクレセント錠が下りております。防犯カメラの映像も確認しましたが、昨夜から今朝にかけて、この校長室前の廊下を通った不審な人物は一人も映っておりませんでした」


 完全なる密室。

 何者かが、誰の目にも触れず、鍵のかかった校長室に侵入し、如月家から贈られた神聖な鏡餅にフェルトの手足を縫い付けるという、異常極まりない工作を行って消え去ったのだ。

 まるで魔法か幽霊の仕業のようだが、大河内も教師たちも、そのような非科学的な言い訳が通用するとは思っていない。これは明らかに、学園の警備システムを熟知し、防犯カメラの死角を正確に計算し尽くした、極めて狡猾な人間の手による物理的な犯行であった。


「外部からの侵入者か、あるいは警備の目を誤魔化せる内部の者か。いずれにせよ、完璧な計画を立てた犯罪者の仕業だ。警察を呼ぶか、あるいは如月コンツェルンの調査部門に……」


 大河内がそこまで口走った時、数学教師の長谷部優(はせべ まさる)が一歩前に出て、静かに言葉を挟んだ。


「学園長、疑いたくはないですが……生徒によるイタズラである可能性は考えられませんか?」


 長谷部の言葉に、大河内は鋭く目を細める。


「生徒だと? この厳重なセキュリティを破り、足跡一つ残さずに密室を作り上げるような真似が、ただの高校生にできるというのか」


「分かりません。しかし、このフェルトの縫い付け方や、たぬきに見立てるという発想そのものが、どうにもプロの犯罪者や怨恨によるものとは思えないのです。どこかゲーム感覚のような、不気味なほどの軽薄さを感じます」


 長谷部の指摘に、校長室は再び重い沈黙に包まれた。

 大河内は忌々しげに『鏡餅のたぬき』を睨みつける。その茶色いフェルトの手足は、まるでこの状況を嘲笑っているかのように、間の抜けた角度で張り付いていた。


「明日の朝、臨時の全校集会を開く。もしこれが学園内の者の犯行であれば、絶対に逃がしはしない」


 大河内の宣言が、冷え切った部屋の空気をさらに凍てつかせた。


**


 翌一月九日、金曜日。

 暖房設備があるとはいえ、広大な体育館の床からは底冷えするような寒気が這い上がり、整列する生徒たちの口からは白い息が絶え間なく吐き出されていた。


 臨時の全校集会。

 突如として招集された生徒たちの間には、不満と戸惑いのざわめきが広がっている。さらに列を見渡せば、ぽつぽつと不自然な空席が目立っていた。新春の厳しい寒波と共に、月見坂市ではインフルエンザが猛威を振るっており、如月学園でも少なからぬ生徒が流行り病に屈して欠席を余儀なくされているのだ。


 列の最後尾。周囲の生徒たちが寒さに肩をすくめる中、一人だけ背筋を完璧に伸ばし、静かに佇む少女がいた。

 如月瑠璃(きさらぎ るり)である。

 艶やかな黒髪のロングストレートを揺らし、深く澄んだアメジストの瞳を壇上に向けている彼女は、普段であればこのような無意味な集会には適当な理由をつけて決して参加しない。しかし今朝は、大河内校長から直々に『如月コンツェルンに関わる重大な事態』という名目で呼び出されたため、渋々ながら足を運んでいた。


 瑠璃の頭の片隅に、ふと一人の少年の顔が過る。

 朔光太郎(さく こうたろう)――サクタロウ。

 年始早々にその流行り病に屈し、現在自室の布団の中で伏せっているであろう、貧弱でデジタル機器に依存しがちな助手のことだ。高熱でうなされているであろう下僕の不在に、瑠璃は一切の同情を抱かなかった。むしろ、彼女にとってはこの状況は好都合とさえ言えた。


 サクタロウがいれば、すぐにスマートフォンやタブレットを取り出し、無粋な検索音を立てて安直な情報に飛びつこうとする。しかし、真実は常に目の前の物理的な事象の中にこそ宿るのだ。騒がしい凡人の反応も、デジタル機器のノイズもない。完全なる静寂の中で、己の五感だけを頼りに思考に没頭できる。孤高の探求者である彼女にとって、今は極めて純度の高い時間が約束されていた。


「静粛に」


 マイクを通した大河内校長の声が、体育館の空気を震わせた。

 壇上に立った大河内の表情は、昨日にも増して険しい。彼は演台の上に、恭しく、しかし怒りを込めた手つきで一つの物体を置いた。


 白木の三方に乗った、フェルトの手足を持つ異形の餅。


「これは、昨日早朝、校長室に置かれていたものである」


 大河内の声が体育館に響き渡ると同時に、生徒たちの間から波のようなざわめきが起こった。無理もない。厳格な校長が、真顔で奇妙なたぬきの人形のようなものを掲げているのだ。


「一昨日までは、如月コンツェルンより賜った由緒ある普通の鏡餅であった。それが、一晩の間にこのような姿に貶められた。防犯カメラにも映らず、鍵のかかった部屋でだ。こんなくだらないイタズラをした者は、ただちに名乗り出なさい。隠し通せるなどと、ゆめゆめ思わぬことだ」


 大河内の怒号が響く中、生徒たちのざわめきは恐怖と好奇心の入り混じったものへと変わっていく。誰がこんな馬鹿げたことを。どうやって密室の校長室で。


 だが、列の最後尾に立つ瑠璃の反応は、周囲の凡人たちとは全く異なっていた。

 彼女の深い紫の瞳は、壇上に置かれた『鏡餅のたぬき』に完全に釘付けになっていた。怒りでも、困惑でもない。そこにあるのは、純粋で底知れぬ探求の炎だった。


(……なるほど)


 瑠璃の視力は、遠く離れた壇上の不純物を正確に捉えていた。

 ただのイタズラにしては、構成要素が奇妙すぎる。餅という有機物に、安価なフェルトという無機質な繊維を直接縫い付けるという物理的矛盾。そして、何よりも大河内が口にした『密室』という状況。

 人間の感情や悪戯心だけでは、防犯カメラの死角と物理的な鍵の構造を同時に突破することはできない。あの奇妙なたぬきの背後には、極めて論理的で、冷徹な計算を巡らせる何者かの「意図」が、明確な質量を持って存在している。


 決してそこに存在するはずのない、ありえない場所にある、ありえないモノ。

 その不純物がどこから来て、誰の手を経て、どのような物理的法則と緻密な計画によってそこに配置されたのか。


 瑠璃の美しく整った口元が、微かに弧を描いた。

 退屈な冬の始まりに、これ以上ないほど極上の謎が投げ込まれたのだ。周囲の生徒たちの動揺など、もはや彼女の意識の端にも引っかからない。彼女の頭の中ではすでに、純白の手袋と銀のルーペを用いた、完全なる単独での『鑑定』が幕を開けようとしていた。



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