第02話 物言わぬ扉
賢治は赤子のように丸まっていた。
周りは静寂に包まれている。目が覚めた筈なのに自分の息遣い以外に音がしない。
瞼をそっと開けると金属の光沢が見えた。
「な、なんだ?」
少し上半身を起こすと、金属製の何かはトイレの便器である事が判明した。
「何故?」
すると手酷い頭痛が襲って来た。頭を触ろうとすると、手が何かヌルリとした物に触る。
「泥?」
だが、違っていた。酸味の効いた匂いに適当に潰れた飯粒。誰が見ても直ぐ解る。
嘔吐物だ。
「ちっ、俺のゲロかよ」
顔にへばりつく嘔吐物を手で拭い去って立ち上がった。
「うっ…………」
だが、壁に片手を付いてしまった。立ちくらみに襲われたのだ。
身体が鉛にもなったかのように重く、意識がグラグラと揺れている。
「くそっ……」
賢治は目を瞑って静かに数を数え始めた。立ち眩みをやり過ごすのに使う手だ。
気分が落ち着いてきたのでゆっくりと思い出し始めた。
(そうか…… 確か警察に捕まって留置場に入れられたんだよな……)
仲間のドジのせいで窃盗がバレてしまったのだ。
そして、警察の執拗な追跡に会い、逃げ場が無くなって捕まってしまったのだった。
(ツレ選びも重要なポイントだな……)
目が覚めるとドンドン記憶が鮮やかになってきた。
何日目かの拘留期間中で、朝食後に気分が悪くりトイレに駆け込んだのだった。
そこで世界が回るように見えたのが最後で失神したのである。
「んげっ」
髪の毛に付着した嘔吐物はカピカピに乾いてしまっている。
口の中がネチャネチャしている。再度の嘔吐感が襲って来そうであった。
「しょうがねぇな……」
賢治は顔を洗わせて貰おうと思い、留置房の鉄格子の所までいった。トイレに手洗い用の空間はあるが本格的なものではない。留置場据え付けられている洗面場の方が顔を洗いやすいのだ。
「担当さーん」
「……」
「すいませーん、担当さーん」
「……」
「おーい、担当さーん」
「……」
賢治は何度か声を掛けてみた。
留置所には必ず担当の警察官が詰めている。逃走防止もあるが主に自殺防止や喧嘩防止だ。
「…………」
だが返事は無かった。それどころか人の気配もない。
「なんだよ……」
トイレからヘロヘロになって戻ろうとしたが、留置所内が静かになっているのに気が付いた。
留置所の部屋同士でおしゃべりする奴はいない。静かにしろと注意されるのもあるが、大人しく本を読んでいるか寝ている奴が多いからだ。
それでも人が居る気配くらいはするはずだが何も無かった。
「……」
留置房の格子に取り付いて周りの様子を伺った。
「……」
やはり、人の気配が無い。
(ひょっとして運動時間?)
留置所には被疑者の健康維持として、外に出て体操などが出来る時間がある。外と言っても塀に囲まれたベランダみたいな狭い空間だ。
それでも空を見る事が出来る貴重な時間なので、大概の奴は運動場に出て行く。
また、喫煙が許される唯一の時間でもあった。時代の流れなのか取調べ中であろうと自由に喫煙は許されないのだ。
ところが賢治は朝から具合が悪く、朝食を取った後は横になっていたのだ。
「おーい」
留置場の中は静かなままだ。誰からも返事は返って来ない。
「担当さーーーん」
そう言えば嘔吐しそうになってトイレに駆け込んだ時に、監視員の警官が声を掛けてきたのを思い出した。
『大丈夫か?』
金網越しに声を掛けてきた彼を賢治は思い出した。
監視員の警官も居ないのに気が付いた。有り得ない事だ。彼等には脱走防止の他に、被疑者の健康管理や自殺行為阻止の役目があるのだ。
だから、監視員が居ない事は異常に思えた。
「おーい、誰かーー」
もう一度、声を掛けてみた。しかし返事は帰って来なかった。
グウー……
賢治の腹が鳴る。壁に架けられた時計を見ると夕方に近い時間であった。
ここで気が付いたことがあった。
(あれ? 朝から放ったらかしにされているのか??)
留置所での毎日のスケジュールは規則正しく行なわれていく。そして決まった時間に弁当が配られる。
朝飯を食ってから刑事の取り調べを受け、昼は留置所に戻されて昼飯を食わされる。
そして、再び刑事の取り調べを受けて夕方に留置所に戻され夕飯を食べるを繰り返すのだ。
しかも、配られる弁当は冷えている。食中毒防止の為にわざわざ冷やしているのであった。
だが、タダなので文句は言えない。それが嫌なら本人負担で仕出し弁当を頼むことが出来るがコレも冷えているのだ。
温かい飯を食いたいのならさっさと白状しろって事なのだろう。
「飯、食わせろぉぉぉぉ」
腹を空かせた賢治は鉄格子ごしに怒鳴った。だが、返ってくるのは耳の痛くなるような静寂であった。
(昼飯を抜かされたって事は取り調べも無かったのか?)
今日は刑事の取り調べすらも受けていない事に気が付いた。
(何でやねん……)
裁判を維持出来るだけの証拠が集まれば、事情聴取が無くなる事も有る。
だが、賢治は逮捕されたばかりだ。検察への送致前で裁判官の審問もまだだ。
なので、これ迄のしたくも無かった経験から考えると、連日の取り調べがある筈だった。
(何があったんだ?)
賢治が唖然としている間にも、留置所の中は段々と暗くなっていった。夕暮れ時が近いのだろう。
「あ……」
賢治は初めて室内灯が消えている事に気が付いた。それどころか監視所の灯りも消灯していた。
留置場の照明は二十四時間点灯させているものだ。夜間でさえ若干は暗くなるが完全に消灯はしない。
「何が起きたんだ?」
そんな独り言が出てくる。賢治は自分がとんでもないトラブルに巻き込まれたのを理解したのだった。
事態を確認する必要に迫られているのは分かる。だが、困ったことに賢治は留置場に入れられたままだ。
これまでの経過を考えるに、留置場には扉を開けてくれる人がいないようだ。
つまり、外に出る手段が無い。
(う~ん……このままだと飢え死にしてしまう……)
賢治は鉄格子状の扉の前で途方に暮れてしまった。
(それにしても静かだな……)
金網に指を掛けて揺らしてみた。勿論、金網が外れる事は無い。
いつもなら留置場で騒ぐと、まるでゴリラのような警官たちが集結して来るのだが誰も来ない。
(どうしたもんだか……)
賢治は或ることに気が付く。
引っ張ると少しだけたわむのだ。
(気が進まないんだがな……)
留置場での態度は警察・検察官を通して裁判官に報告される。
判決が出る前に脱走などの揉め事を起こすと、『反省の色無し』とされ裁判官の心象が非常に悪くなってしまう。
当然、判決に悪影響が出てしまうものだ。
だから、大概の被疑者は留置所でも拘置所でも大人しくしているものだ。
裁判とは罪がどうかでは無い。裁判官の考えでどうにでもなるのを賢治は経験上から良く知っているのだった。
それでも賢治は牢から脱出する事にした。誰も来ないのは可怪しいからだ。
切実な問題は何より腹が減っている。
(さて、どうやるかだな……)
留置所から外に通じる扉は当然のごとく施錠されている。しかも、扉は頑丈な鉄格子製だ。手で千切れるような物では無い。
鍵を開けようにも房の内側には鍵穴すらない。
扉は格子状に鉄棒が縦に入っている。だが、映画などで見るような隙間から手を出せるようにはなっていない。
金属製の網が溶接で貼られているのだ。網といっても太さが二ミリ程も有る鉄製の頑丈なやつだ。
食事容器の受け渡し用の口は開いているが、扉のところまで二メートルぐらい離れている。手が届くような距離では無い。
「これを破るしかないのか?」
扉の鉄格子を掴んで揺さぶってみたが、当然のようにビクともしなかった。
この程度なら道具が有ればものの十分で破れる自信はあった。
だが、道具が何も無い。
「うーむ…… 金属疲労で折るしか無いな……」
金網の真ん中辺は溶接が甘くなっているらしく引っ張る事が出来ていた。
つまり、何度か強く引いて押してを繰り返して、溶接されている部分の金属疲労で破ることが出来ると考えたのだ。
通常であれば見張り番の警官が居るので出来ないが、今は誰も居ないので実現性が高そうだ。
穴が空いて手が鍵穴に届けば単純な鍵であればどうにか出来る。
何しろ窃盗で捕まっているのだ。賢治にとっては鍵穴くらい簡単に開けることが出来るのだ。
「何度もやれば溶接している部分が壊れるんじゃねーか?」
そう考えた賢治は金網を引いたり押し込んだりを繰り返す事にした。




