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【第一話】断罪

 2017年の夏の始まり。まだ朝の光が淡く家の中に入り込む時間帯だった。窓の外には白んだ空が広がり、蝉の声は遠くでかすかに鳴いていたはずだ。けれどその朝は、蝉の声ではなく、母の声が家を引き裂いた。


 「英ちゃんが!」


 甲高く、裂けるような悲鳴だった。普段は落ち着いた声色の母が、全く別人のような声を出している。叫び声が廊下に反響し、壁に吸い込まれては弾き返される。その一瞬で、夢と現実の境界が一気に壊れた。


 俺は反射的に飛び起きた。掛け布団が音を立てて崩れ、心臓の鼓動が耳の奥で爆ぜるように響く。胸の奥の血が逆流していく感覚。頭の奥が熱く、同時に体は氷のように冷たくなる。思考の速度だけが極端に上がり、全身の筋肉が同時に「走れ」と命じてくる。


 母の声の発生源へと向かって廊下を駆けた。家の中の空気が、いつもよりも異様に重い。何かが壊れている、と本能が告げていた。


 扉を開けると、そこに兄がいた。


 時間が止まったように思えた。兄は床に寝転がっていた。しかし、俺はすぐさま兄の異常な状態に気づく。青く変色した唇、舌が唇に挟まれ、顔は血の気を失い蒼白で、足先は青紫に染まっている。兄の胸元に手を当てる。俺は確信した――もう助からない。


 それは言葉ではなく、映像の衝撃としても脳に焼き付いた。頭の奥で「これは現実か」という問いが何度も鳴るが、目の前の光景がその問いを否定し続ける。思考速度が上がりすぎて、逆に何も感じられない。心臓の鼓動だけが現実で、耳の奥でドクンドクンと鳴っている。


 「息子が死んでるんです!早く!」


 背後から父の叫び声が聞こえた。その声は悲鳴とも怒声ともつかない、必死の声だった。父の手は震え、電話を握りつぶすようにして救急に通報している。


 母は兄の足元に崩れ落ち、泣き叫んでいる。だがその声は兄に届かず、空気を掻くばかりだった。声にならない声が漏れ、嗚咽が断続的に部屋を満たしていた。


 俺は呆然と立ち尽くしていた。何もできない自分の足が床に縫い付けられたように動かない。頭の奥では「助けろ」と誰かが命じているのに、体は微動だにしない。兄の身体の輪郭が、いつもの兄と同じ姿に見えてしまう瞬間があり、そのたびに胸が裂けるような痛みが走る。


 世界は何も変わっていないように見えるのに、家の中だけが完全に崩壊している。俺はその不一致に吐き気を覚え、トイレへ駆け込み、空っぽの胃で吐いた。冷たい便座に手をついて、震える指先を見つめる。


 指先には兄の体の冷たさがまだ残っている気がした。あの青い唇、舌を出し、紫の足先。視界に焼き付いたその映像は、瞬きをしても消えなかった。


 時計の針が進む音だけが、かすかな現実として耳に残る。夏の始まりの朝は、もう戻らない。


救急隊が来るまでの十数分間は、永遠のように長かった。外の空はまだ淡く白んでいて、蝉の声も遠くで鳴いていたはずだ。けれど、その音は届かなかった。母の泣き声が頭の中に響き渡り、胸を圧迫する。あの悲鳴――「英ちゃんが!」――は、耳の奥でリピートされ、現実を引き裂く。


 俺はただ立ち尽くしていた。動けなかった。体は震えているのに、足は床に縫い付けられたみたいに重く、手を伸ばすことさえできない。心臓だけが早鐘のように打って、鼓動の一つひとつが頭に響く。頭の中は真っ白なのに、思考だけが異常に早く回転していた。何も考えられないのに、何でも考えているような感覚。


 母は兄の体にすがりつき、「英ちゃん、英ちゃん!」と嗚咽を漏らし続ける。父は玄関に立ったまま、手を震わせて電話を握りしめていた。誰も動かず、僕も動かない。世界の中で、俺だけが時間から切り離されたように感じた。


 そのとき、玄関の外からサイレンの音が徐々に大きくなった。オレンジの制服を着た救急隊員が駆け込む。二人の隊員はテキパキと担架を運び、僕の視界の端で兄の体を慎重に扱う。その手際の良さと冷静さが、逆に現実味を強く突きつける。


 「離れてください!」

 「脈がない!」


 声がはっきり聞こえるたびに、心臓が跳ね上がった。母はそれでも兄にしがみつき、父は立ったまま俯く。僕は、ただその光景を見ていた。手を伸ばしたいのに、体は言うことを聞かない。口から声を出したいのに、音にならない。


 ――やっぱり助からないのか。


 目の前の兄は、冷たく、青く、動かない。唇の色、紫色に変わった足先、突き出た舌。視界に焼き付いたその姿は、現実だとわかっていても、信じられなかった。頭の奥では「これは夢だ」と何度も反芻する。だけど体は冷たく硬直し、何もできない。


 救急車のサイレンが外に向かって遠ざかっていくと、夏の光が突然まぶしく感じた。青い空、ゆったりと流れる雲、風に揺れる木々――世界は何も変わらず動いているのに、僕の中だけが崩れ落ちていく。母は玄関に座り込み、嗚咽を続ける。父は無言で立ったまま、ただ俯いている。俺は動けず、ただ立ち尽くす。


 一時間ほどして、祖父母が駆けつけた。母が電話で泣きながら報告した言葉――「英ちゃんが…死んじゃった…」――が、俺の頭に残っていた。祖母の悲鳴、祖父の急ぐ足音、二人が玄関を飛び込む瞬間まで、時間が引き延ばされたようだった。母は祖母に抱きつき、二人で嗚咽する。俺は、周囲の人間の感情と現実感の間で、身体だけが宙に浮いているようだった。


 警察が事情を聴きに来た。制服をきちんと着た警官は、静かな声で淡々と質問を投げかける。その中で警官が「昨夜、不自然なことはありませんでしたか」と訊く。俺は頭の奥で引っかかっていた音を思い出す。夜中、兄の部屋から聞こえた大きな音。何かが倒れたような、夜に鳴るには不自然なあの音を俺は覚えている。


 「……夜中、大きな物音がしました」と答えた。声は震え、震えた声が自分の耳に異様に大きく響いた。母はそれを聞き、また嗚咽する。母も気づいていたのかもしれない。助けられなかったこと、あの夜何もできなかったことが、胸を締め付ける。父は俯いたまま、答える言葉は短かった。


 そして、思い出した。前日の夜。兄がベルトを漁っていたこと。俺は睨みつけ、舌打ちまでした。部屋の隅で何かを探す兄を見て、苛立ちを隠せなかった。あのとき、声をかけなかった。止めようとしなかった。


 胃がひっくり返るように痛み、口から酸っぱいものが込み上げる。手で口元を押さえるが、吐き気は止まらない。トイレに駆け込み、すべて吐き出す。鏡に映った自分の顔は、青ざめ、震えていた。


 ――俺が、殺した。


 何度もその言葉が頭を駆け巡る。救急車に乗せられる兄の姿がフラッシュバックし、母の悲鳴が耳の奥で響き続ける。吐き気、胸の痛み、震え――すべてが俺を現実に縛り付ける。


 警官が去った後も、家の中は沈黙と嗚咽だけが満ちていた。祖父母が到着し、母と抱き合って泣く。祖父は俺に話しかけてきた。しかし、俺はその場に立ち尽くし、何もできず、罪だけを抱きしめたままだった。


 外では蝉が鳴く。夏の匂いが窓から入ってくる。世界は変わらず動いている。だけど、俺の中だけは完全に止まってしまった――兄を殺した罪の中で、動けずに。

昼過ぎ、俺たち家族は警察署の薄暗い待合室に座っていた。外の光は窓から柔らかく差し込んでいるが、室内の空気は重く、時間の流れが異様に遅く感じられた。三人で机を囲んで座ってはいるが、誰も口を開かない。母は一点を見つめたまま、椅子に背を預け、肩を小さく揺らしている。父は手を机の上で組み、指の節を押さえながら、たまに小さく震えている。俺はというと、ただ虚ろに座り、何も考えられず、目の前に置かれた壁の時計をぼんやり見つめていた。


 時間が経つ感覚がおかしい。二時間ほどしか経っていないはずなのに、体は丸一日、いや数日分の疲労を一気に背負ったかのように重く、肩の力が抜けない。心の奥では、兄を救えなかった罪がぐるぐると渦巻いている。吐き気、胸の圧迫感、頭の痛み――身体のあらゆる部分が、この罪悪感に支配されている。


 「兄は……本当に……」


 そんな言葉が、何度も頭の中で繰り返されるが、口には出ない。母の嗚咽も、父の微かな息遣いも、ただ静かに俺の心を押し潰す。何も言えないまま、椅子の背もたれに寄りかかり、手は膝の上で握りしめる。周囲の人間の動きは、すべてスローモーションのように見えた。警察官が書類を手にして歩く足音、コピー機の小さな音、換気扇のかすかな回転音――それらすら現実味がなく、頭の中で何度もリピートされる。


 やがて、死亡確認の手続きが終わった。警察官の低く丁寧な声が耳に届く。


 「お悔やみ申し上げます」


 その一言で、俺の中の何かが決壊した。息が一気に吸えなくなる。胸が締め付けられ、胃がひっくり返る。心の奥底で、初めて認めた。「ああ、本当に死んだんだ」と。頭ではずっと理解していたつもりだった。救急隊が来たとき、警察の現場で、祖父母が駆けつけたとき――それでもどこかで、現実を否定したかった。だけど、この言葉で、避けられない現実が確定した。その際に告げられたのは、兄はベルトで自殺を試みたものの一度失敗し、充電ケーブルを使用したとのことだ。あの大きな音はおそらく失敗したときのものだろう。もし音の正体を確認しに行ってれば、もし舌打ちしていなければ、もしもあの時、あの言葉を言っていなければ、そして、二回も兄に死ぬ覚悟をさせた。その確たる事実が、俺の心に薄暗い暗雲を立ち込める。


 母は涙を拭うこともできず、手で顔を覆ったまま震えている。父は天井を見上げるが、目は虚ろで、指先は微かに震えている。俺も同じく、呆然と椅子に座ったまま、体の力が抜けない。周囲の声、空気、光のすべてが、鋭い針のように心を刺す。


 警察署を出た後、タクシーに乗った。車内の狭い空間は、さらに息苦しく感じられた。外を流れる景色は、夏の強い光に包まれているのに、俺の視界は霞み、色彩を失っていた。タクシーの振動、エアコンの冷気、シートの硬さ――すべてが現実感を増幅させる。母は静かに座り、肩を震わせ、父はうつむいたまま窓の外を見ている。俺は、外の景色に目をやろうとするが、視線が定まらず、何も見えない。


 葬儀場に着くと、受付の静けさと空気の重さが、さらに俺の心を圧迫した。時間は午後六時頃だった。係の人が、式の取り決めや必要事項を説明してくれるが、頭に入らない。言葉は耳に届くが、内容が理解できない。母と父が淡々と対応する横で、俺は椅子に座り、手を握りしめたまま、呼吸だけを繰り返す。結局、葬儀は家族葬となることが決まった。


 葬儀の準備を進める間、俺の中では兄の顔、手、声――あらゆるものがフラッシュバックとして浮かんでは消えた。あの夜のベルトの音、舌打ちした自分の声、兄が自分を避けるようにしていた視線……。そのすべてが、罪として胸に突き刺さる。何をしても取り返せない現実。助けられなかった自分の無力。避けられなかった死の重み。


 家族葬の取り決めが終わり、家に戻るタクシーの中でも、頭の中は整理がつかない。何も考えられないのに、何もかもを思い出してしまう。母の涙、父の震え、自分の震え、兄の冷たさ、あの朝の声――すべてが渦巻き、胸を圧迫し続ける。


 その日の夜、布団に入っても眠れなかった。目を閉じると、兄の顔が浮かぶ。泣いた顔、怒った顔、無力で苛立っていた自分に向けた視線――あまりにも生々しく、俺の目を閉じることさえ許さない。心臓は早鐘のように打ち、手足は冷たい汗で濡れていた。


 時計の針は進むが、時間は止まったままのように感じる。兄はもうこの世界にいない。その現実を、俺はどうしても受け入れられなかった。あの日の自分の舌打ち、無関心、無力さ……すべてが、胸の奥でぐるぐると絡み合い、吐き出すことも消すこともできない。俺は布団の中で、ただ震えながら、兄がいなくなった夏の夜を過ごした。


 葬式の日取りが決まるまでの一週間は、まるで現実感のない時間だった。兄が死んでから、もう何日経ったのかさえ曖昧で、朝が来ても夜が来ても、俺はひたすら時間に流されていた。

 その一週間、俺たち家族はほとんど毎日のように、兄の元へ足を運んだ。冷たく管理された空気の中、無機質な金属台に横たわる兄の遺体を前に立つたび、俺の中に「現実」という言葉だけがやたら大きく響く。何度見ても、何度触れても、まだ信じられなかった。


 遺体安置所に入るとき、俺の体は毎回かすかに震えていた。白い蛍光灯の光が冷えた空気に滲んで、部屋全体が淡い青色を帯びて見える。兄の頬や唇は、あの日見たときと同じ色をしていた。冷たく、乾いた皮膚の上に、もう何の温もりもない。俺の指先がそっと触れるたび、あの日の朝の衝撃が蘇ってきて、胸の奥で強く締めつけられる。


 ある日、兄の学校の担任と校長が、知らせを受けてやって来た。俺は最初、そのことを聞いたときから心のどこかで身構えていた。兄が通っていた学校は、普通の全日制高校じゃなく、公立の特別支援学校だったから、教師たちの反応も複雑だろうと感じていたからだ。

 俺たち家族と二人の教師は、安置所の前に立ち、無言で白い扉を見つめていた。誰もすぐには扉を開けようとしない。重い沈黙の中、俺はただ兄の名が書かれた札を見つめながら、胸の奥で「これは現実だ」と何度も繰り返した。


 扉が開かれ、冷気が足元から流れ込んでくる。担任の先生は、静かに兄の遺体に近づき、そっとその頬に手を添えた。その瞬間、先生の肩が震え、涙が零れ落ちるのを俺は見た。普段は柔らかい笑顔の先生が、こんな表情をするのを俺は初めて見た。言葉は一切なかった。ただ、先生の手の動きがすべてを物語っていた。

 校長は少し離れた位置で、まるで何かを飲み込むように唇を噛み、ぼうぜんと立ち尽くしていた。背筋の伸びた人だったが、そのときは、どこか小さく、頼りなく見えた。


 兄は発達障害を抱えていた。普通の全日制の高校ではなく、公立の特別支援学校に通っていた。けれど、兄は軽度知的障害の中でも比較的軽く、受験を通して入学していた。俺は子どもの頃から、兄が人並みに思考できないことは知っていた。でも同時に、兄には「自分で考える力」が確かにあった。だからこそ、その力が裏目に出たのだろう。

 「自殺」という手段を自ら選び取ることも、兄にはできてしまったのだ。俺はその事実を何度頭の中で繰り返しても、胸が締めつけられるばかりだった。考えれば考えるほど、そこに自分の姿が映し出されているようで怖くなった。


 葬儀の日は、空がやけに白かった。真夏のはずなのに、強い陽射しの奥に薄い雲が重なって、どこか冬の朝のような冷たさを感じさせた。。

 僧侶の読経の声が響くたび、俺の胸の奥に空洞が広がっていった。兄の名前が呼ばれるたび、その空洞は深くなり、息をするのが苦しくなった。母はずっと泣いていて、父は静かにうつむいたままだった。どこかで冷静にその場を眺めている自分もいた。心の一部だけが、現実から切り離されたように。


 葬儀が終わると、世界が少しだけ静かになったように感じた。香典袋の音もしなくなり、家には妙な空白が残った。兄のいない家の中は、家具の配置も壁の色も何ひとつ変わっていないのに、全く別の場所のように見えた。


 葬儀が終わって、俺は初めての登校日を迎えた。家を出るとき、母は「無理しないでね」とだけ言った。父は何も言わなかった。ただ、俺の背中を一度だけ軽く叩いた。

 俺の頭の中は、学校のことよりも、兄のことについてでいっぱいだった。新崎や和利とは少し連絡を取り合っていたが、兄については濁していた。家内の不幸とは言ったものの、まさか兄が亡くなったとは夢にも思わないだろう。それに、友人に変な心配もかけたくない。学校に着けば、誰も何も言わないかもしれない。先生は、俺にどんな顔をするだろう。もしかしたら、いつも通りの日常が待ってるかもしれない。そんなことばかりが頭を巡って、心ここにあらずだった。


 普段通りの通学路を歩きながら、俺は何度も深呼吸をした。けれど、胸の奥のざらついた感覚は消えなかった。信号の色なんて見ていなかった。頭の中では、兄の遺体に触れた担任の涙が、何度も何度もリプレイされていた。

 気づけば、赤信号の横断歩道に足を踏み出していた。目の前の景色がゆっくりと動き、車の音が遠くで響くように感じた瞬間、バイクの影が俺の視界を横切った。


 衝撃が来るよりも先に、兄の顔が脳裏に浮かんだ。俺は、罪の意識を持っていたものの、自分には償う覚悟がなかった。いつしか風化して、普段通りの日常に戻れると思っていた。あの日の朝の蒼白な顔と、葬儀で見た穏やかな顔が、ひとつに混ざっていく。胸の奥で「ごめん」という声が響いた気がした。

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