『夢の国のストレイキャット』4
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清らかな水で満たされた水盆に波紋が広がり、レッドヘレンの町の様子を映し出していた。フレッド・クレイヴンは町中で繰り広げられた二人の魔女の戦いをつぶさに観察していた。
恐ろしい使い手がきたものだ。《鴉の魔女》七ツ森麻來鴉と、《猫の魔女》ファリーザ・ブバスティス。資料によれば、二人ともが第七階梯に至った高位の魔術師。七ツ森麻來鴉のほうは退魔屋なので、おそらくはこちらが、盤石が寄越した計画の妨害者だろう。
それから、ファリーザ・ブバスティス。
こちらは情報が少ない。フレッドがアクセスできる資料では、七ツ森麻來鴉と同じく、若くして第七階梯になったということ、その折、称号として猫の魔女の名を得たことがわかったくらいだ。
だが、以前聞いたことがある。高位階梯者でありながら、現世、異界を問わずに古き時代の遺跡に入り、貴重なアーティファクトを持ち帰る魔女のことを。もし彼女がそうだとしたらその狙いは……
「……盗賊め」
フレッドはベッドのほうへ目をやった。各計器が規則的な音を立て、娘のコニーがベッドの中で眠っている。
その近くにある台座の上に鎮座するのは、クレイヴン家が誇る秘宝――魔術を凝らし、秘儀によって人間の脳の形を特殊なクリスタルで模した魔具、水晶脳髄。
「見せてやれ、コニー。魔女たちを悪夢の世界に――」
それは、子犬ほどの大きさの、蠅のような何かだった。
カフェオレのような薄い茶色の体毛に、濃い茶の三本のラインが入った奇妙な身体を持ち、その目は頭部に四つ、胴体部に二つあった。口には、人体を貫けそうなほどの太く鋭い針があり、ブン、ブンと翅を羽ばたかせながら、麻來鴉たちを観察するかのように、空中で静止している。
「……あんたの使い魔? ずいぶん趣味が悪いねえ」
言いながら、ファリーザが右手を挙げると、茂みの向こうから魔力によって爪や鎧を身に纏った二匹の《武装猫》が飛び出してきた。
「わたしのに見える?」
槍を一回転させて持ち直し、麻來鴉もまた、この奇妙な虫を観察する。使い魔。それは間違いないだろう。だが、誰の? ファリーザのものではない。呪力は感じないから呪術師や怪物由来のものでもない。
ならば――
『本物の魔女って初めて見たけど――』
小鳥の囀りを思わせるかのような、可愛らしい声が、地面に近いあたりから聞こえた。
『案外迫力ないものね。ババヤガみたいなのを想像してたんだけど』
声の主は、まさしく地面の上にいた。武装猫。ファリーザの魔術によって使役される野良猫。その一匹が、ファリーザによって与えられた紫色の魔力を吸収して、黄色い体毛の虎猫から、細身、巻き毛で青い瞳の別種の猫へと変化する。その顔つきはどこか人間らしく、サイズも少し大きいように思えた。
品種の名は、コーニッシュレックス。
「あんたが集めた猫じゃないの?」
蠅への警戒も怠らぬまま、麻來鴉は言い、
「変なのが混じってやがったな」
答えながらも、ファリーザはシストラムを下段に構えた。
『変なのとは失礼ね。侵入者のくせに』
猫――コーニッシュレックスはさも不快だと言いたげな表情で言葉を放つ。
『知っているわよ。凄腕の盗人なんでしょ? 猫の魔女、ファリーザ・ブバスティス。それから――』
猫の青い瞳の視線がファリーザから麻來鴉に移る。
『七ツ森麻來鴉。鴉の魔女。私を止めにきたんでしょ? パパのお友達に言われて』
「ずいぶん物知りだね、お前」
シストラムを片手に持ち替え、ファリーザはどこからともなくカードを取り出す。
「小癪な奴でも、猫を傷つけるわけにはいかないからね。代理に喋らせてないで本人が出てきなよ。コンスタンス・クレイヴン?」
『わお。さすがにわかってるか。そうだよ、私がコンスタンス・クレイヴン。友達はコニーって呼ぶわ。友達なんていないけど』
「はっ。何かと思ったらさびしんぼうのガキか。ガキはガキらしく大人しくしておけよ。あたしはあんたには用がない。目的が済んだらさっさと失せるさ」
『ははは。粋がらないでよ、お嬢さん』
コーニッシュレックスの長い尾が揺れた。途端に、その横にいたもう一匹の武装猫が、ゆら、と体勢を崩した。ファリーザの魔術による武装は解かれ、すやすやと眠っている。茂みの奥でも、がさがさと物音がした。待機させていたほかの武装猫も、おそらくは同様の状態のようだった。
ファリーザの目が、一転して鋭くなった。
「……多少は心得があるようだねえ。何にも知らないガキかと思ったが」
『こんなのは嗜みでしょ。ねえ、もっとすごいことはできないの? 猫の魔女さん?』
「あたしがやったらあんたを頭から潰しちまうからねえ。そういうのは――」
黒い影が風を伴って、コーニッシュレックスの背後に回っていた。
『っ!?』
「鴉のに任せる」
空中で回転するルーン・ストーンに気付いたコーニッシュレックスが発条のある脚で素早く飛び去ろうとしたその瞬間、麻來鴉は指を鳴らしていた。
「〝茨〟!」
ルーン・ストーンがターコイズブルーに光り、放出された茨が檻のように形成され、コーニッシュレックスを取り囲んだ。
「わたしはあんたの部下じゃない。ファリーザ」
着地した麻來鴉はすかさず苛ついた声で言った。
「この状況で仕掛けたのはそっちだろ。隙を作ってやったんだよ」
ファリーザがシストラムを地面に突き刺し(アスファルトに罅が入った)腕組みを淡々と言い返す。
「まあ、いいわ。コンスタンス・クレイヴン? 悪いけど捕まえさせてもらう。一応説明しておくけど、あなたを捕まえているその茨はどこまでも生え続けるし、わたしの意思でギュって縮めることもできるからね。変な抵抗はしないように――……?」
説明の途中から茨が枯れ始めていた。言葉が終わる頃には、茨は見るも無残に枯れ果て、ルーン・ストーンがぽとりと地面に落ちた。捕まえていたはずのコーニッシュレックスは、今や虎かライオンくらいの大きさになっていた。
「おい」
ファリーザがぶっきらぼうに言った。
「ちょっと麻來鴉!」
「何やってんの、まじで!」
ヨミチとオボロが続けて文句を言った。
「いや、そんなはずは……いや、ていうか何で二人とも!」
『これが噂のルーン魔術ね。指パッチンで即発動はいい感じね。まあ、私の魔術ほどじゃないけど』
言いながら、コーニッシュレックスの身体はどんどん大きくなっていく。五メートル……十メートル……。
「やば……オボロ、ヨミチ!」
言いながら、麻來鴉は素早く後方へ跳び、オボロ、ヨミチ、そして十文字のほうへと近付く。だが、そのすぐ後ろに、巨大化したコーニッシュレックスの前脚が迫っていた。
「げっ!」
跳ぶ。建物の屋根へ。前脚はぎりぎりのところで狙いを外し、アスファルトに叩きつけられた。衝撃で、マンホールの蓋が吹っ飛ぶ。
「おいおいおい……」
十文字の血の気が引いた。
『私の魔術はもっとスケールが大きいよ! ちょっと遊んでくれる!?』
巨大な猫が、跳ねる。しなやかな動きで郵便局の屋上に降り立ち、隣の建物の屋根にいる麻來鴉めがけて、すかさず跳ぶ。前脚の爪が伸び、麻來鴉のマントを掠める。
「うおっ!?」
屋根から屋根へ。跳びながらルーン・ストーンを取り出し、放る。屋根瓦に跳ね返ったルーン・ストーンが勢いよく回転する。
「水よ、弾ける球となれ!」
指を鳴らす。魔力がストーンに通い、〝水〟のルーンが発動。大きな水球を形作り――
『バアン!』
弾んだ声で巨大猫が言うと、水球がパッ、と弾けて飛散した。
「何で!?」
屋根から地面へ。同時に、違和感に気付いた。
羽音。あの大きな蠅の出す羽音。それが身の回りから聞こえる。見れば、数が増えていた。大きな針を持った茶色の蠅。それが、そこかしこの通りから出てくる。麻來鴉の周囲に四体、ファリーザの周囲に三体。
十文字たちのところに、三体。
「あー、これはちょっと面倒くさいねえ」
シストラムを地面から引き抜き、ファリーザが言った。
「仕方ないけど、ここはいったん退かせてもらうよ。鴉の、決着はまた今度で」
『逃がすと思う? 猫の魔女も鴉の魔女もその魔力は豊潤。連れていってあげる。私のお茶会に』
「はっ。ちょっと魔術ができるくらいのガキが調子に乗んなよ。こんな蠅どもで取り囲んだくらいで、あたしを捕まえられたと思ってんなら――」
ファリーザの赤紫の魔力がひと際強く揺らめいた。
『かかりなさい! フライ・クライ!』
コーニッシュレックスの号令で、一斉に蠅たちが動いた。
「舐めすぎだ、クソガキ!」
シストラムの一振りが、ファリーザの周囲の蠅を一気に蹴散らす。同時に、麻來鴉は十文字たちの元へと駆けた。猛スピードでこちらへ突っ込んでくる蠅の針を躱し、槍を振るって叩き落す。妙な手応えだ。当たっているのに、まるでそこに何もないかのような――……
「麻來鴉!」
ヨミチの声。オボロが十文字を掴んで逃げている。蠅どもはヨミチがルーンのツルハシを振るって撃破しているが、すぐそこに巨大なコーニッシュレックスが迫っている。
「この!」
跳躍。地面を滑りながらヨミチの前へ。巨大な猫の前へ。槍を構える。使うべきルーン。シゲルはすでに再使用可能だ。まずはこの場を――!
『〝兎の穴へ落っこちて〟』
巨大な猫が、にやりと笑った。
突如として麻來鴉の足元に黒い穴が開き――
「嘘――」
重力に逆らえず、まるで吸い込まれるかのように、麻來鴉は穴の中へと落下した。
「そんな、麻來鴉!」
十文字は思わず足を止めた。蠅どもは皆、ヨミチが片付けたようだが、巨大な猫は未だすぐそこにいる。
そして、麻來鴉は、たった今地面の下にまで落ちてしまった。
『これで鴉の魔女は私の手の中』
巨大なコーニッシュレックスは女の子の声で言った。
『猫の魔女のほうは……おや、逃げたみたいね。まあ、いいや。これから捕まえれば。で、あなたたちは――』
猫の目でありながら人間的な風情を感じさせる、大きな青い瞳が十文字たちを見た。
『――うん。あなたたちもまあいいや。どうせもう、この町からは逃げられないんだし。魔力の量も、鴉の魔女ほどじゃないでしょ』
「麻來鴉をどうするつもり?」
ヨミチが、ツルハシを構えたまま問う。巨大な猫の目が少し大きく見開かれた。
『すごい。ほんとによく喋るなあ。正体は人間じゃなさそうなのに。いいなあ。うちの使い魔は喋れないから』
「どうでもいい。麻來鴉をどこへやったの?」
『鴉の魔女さんはお茶会に招待させてもらったよ。私を止めにきたらしいけど、残念。彼女はもうすぐ私の養分になるの』
「意味がわかんないね。麻來鴉はどこだ」
剣の切っ先を突きつけて、オボロが言った。
巨大な猫は、余裕の笑みを浮かべる。
『いいことを教えてあげる。脅しは実力の離れた相手には通じないの。あなたたちのルーンはもう見切ったわ。主が敵わない以上、使い魔のあなたたちが私に勝てる道理はない。そうでしょ?』
話し続ける巨大な猫の周囲が、ぐにゃり、ぐにゃりと歪んでいく。街灯、消火栓、ポスト、建物。すべての景色が歪曲していく。猫自体も、もはや生き物の形ではない奇怪な景色の一部と化す。魚眼レンズで撮られた写真のように、全ての線が曲がり、歪んでいく。
――悪夢だ。十文字は反射的にそう思った。肉体が実存する感覚と認識できる世界との乖離。夢。まさにこれは――
ゴーン、と。
どこからともなく鐘の音が聞こえた。
はっとして、十文字は辺りの景色を見回した。
元に、戻っている。今の今まで歪んでいた町の景色が、ここに訪れた時と変わらない、普通の町並みに戻っている。オボロとヨミチも戸惑っている様子だった。
巨大な猫は、いない。すでにその姿は三人の目の前から消え失せている。
『さて。私は用があるからこれで失礼させてもらうわ。鴉の魔女を探すなら好きにすればいいけれど、どのみち、自由時間はあまりないわよ。頑張ってね』
声――巨大な猫の声だけがどこからか聞こえた。オボロもヨミチも、周囲を警戒している様子だったが、これ以上は追い切れないと判断したようだった。
十文字は腕時計を見た。ぴったり九時ちょうど。
まずいことになった。
「……さて、これはやばいね」
ヨミチがおもむろに口を開いた。
「とにかく、麻來鴉を探さないと。てか、なんか異様に眠い……」
顔を擦りながら、オボロが続けて言う。
「オボロも? アタシも何だかちょっとやばいかも」
言いながら、ヨミチはへなへなと地面に腰を下ろしてしまう。
「おいおい。二人ともしっかりしろ」
言って、十文字は持ってきた鞄を開けた。とにかく、今この二人に倒れられたらまずい。何か、元気の出るものがあったはずだ。
ふと、もう一度周囲を見回す。町に入って一時間足らずで、すでに激戦だ。魔術の激突で焦げた跡が残るアスファルト。麻來鴉が吹っ飛ばされて突き破ったショーウィンドウ。アスファルトに入った罅。
そして肝心の麻來鴉は敵の手に落ちている……。
「……ん?」
何か、違和感があった。だが、すぐにその正体がわからなかった。
罅の入ったアスファルト。割れて飛び散ったショーウィンドウ。マンホールの蓋――
「どうしたの、十文字さん」
ヨミチが、眠そうな目を擦りながら言った。
「いや……」
あのマンホールの蓋――
突如として睡魔に襲われている二人。
夢。
「『I don’t want to sleep』……」
眠りたくない。
「……もしかして、そういうことか?」




