『夢の国のストレイキャット』1
決して晴れる事のない霧が立ち込めた世界から
闇の住人達は越境を始めていた。
怪物を狩る戦士たちが戦い続けていたが
現世は闇に呑まれつつあった……。
1
朝。無感動な目覚め。もう何年も変わらない。
フレッド・クレイヴンはベッドの中で、睡眠の暗闇が終わり、覚醒の時が来たことをしばし確認していた。肉体は、まだ死してはいない。その事実を、淡々と見つめた。六十年、生き永らえた身体。続いた命。病魔は訪れず、天災にも、事故にも巡り合わなかった。フレッドにとって生きることは義務であり、己の役割を果たすための絶対条件だ。今日も目覚めた。古い屋敷の天井はいつもと変わらず、カーテンが閉ざされた窓の向こう側は、まだ日が昇っていないに違いない。いつもと同じだ。今日、いつもと同じ朝を迎えられたことは、フレッドの人生にとって重要な意味を持つはずだった。ベッドを出て、カーテンを開けた。薄明。そして暗がりの庭。鬱蒼とした雰囲気の郊外の森が見えた。
鏡を見る。六十歳にしては異様に老け込んだ、白髪の、髭を蓄えた男が映っている。
まだ生きていられる。
もう少し。役目を果たすまでは。
そういえば、と、思考が移ろう。夢を見なかった。今日という日を迎えるなら、プレッシャーか何か、心の内で意識しているものが影響して、夢でも見そうなものなのに。それとも、そんな若々しい感性はすでに、この老いた肉体から去ってしまったのだろうか。
部屋を出た。
先祖が建築したマナー・ハウスの廊下を歩く。かつてのクレイヴン家の当主が、ここ、アメリカはオハイオ州の田舎に地脈を見出し、その上に建てられたのがこの屋敷だ。フレッドも人生の大半をこの屋敷で過ごした。読書の途中、ふと手を止めて移り行く季節を眺めた少年期の半ば、両親の葬儀を行った青年期の終わり、初めて妻をこの屋敷に招待した中年期の始め、それから――……
フレッドは足を止め、記憶のさざ波が引いていくのを待った。思い出すという行為自体は仕方がないこと。だが、もはや思い出には何の意味もない。
娘の部屋の前に立った。何事もなければ、毎朝様子を見に入るのが通例である。しかし、今日に関しては準備があるので邪魔をしないようにと釘を刺されている。
自分の心が結論らしい結論を出さないうちに、フレッドはドアノブに手を触れていた。だが、それを回して部屋に入ることには、やはり躊躇いがあった。
(パパ――)
その僅かな逡巡も、頭の中に聞こえた声によって打ち切られた。
娘の声だ。
(言っておいたのに。私がベッドの中で死んでいないか心配になった?)
どこか面白がるように、頭の中で娘の声が言う。
いうなれば、テレパシーのようなものだ。クレイヴン家に脈々と受け継がれる特殊な才能を、娘は色濃く発現させていた。
おそらくは、歴代の一族の中でもっとも優れた資質。
「そんな……。つい様子を見にきてしまっただけだよ」
フレッドはドア越しに返事をした。娘と同じような力は、フレッドにはない。
(冗談、冗談)
娘の声がつまらなさそうに言い、
(それで、パパ。今さら決心が揺らいだなんて言わないわよね)
娘の声は焼き菓子のように愛くるしかったが、その言葉はまるで研がれた刃のようだった。
フレッドは即答しなかった。心は決まっていた。揺らぐはずもなかった。
――これは、ドアノブを回すか否かの逡巡と同じだ。
「もちろんだ。今さらそんなことは言わない。ただ、ことの前に、二、三片づけなきゃいけない用事がある。午前中には終わると思うんだが……」
(心配しないで、パパ。私もまだ準備があるし、決行までは起きないから、それまではご自由にどうぞ)
「ありがとう」
今年で十八歳になった娘の言葉には、今や女王のような有無を言わせぬ気配があった。
「始めるのは、今日の十六時からで間違いないかい」
(もちろん。お茶会ですもの。やるのは昼下がりと相場は決まっているわ)
「わかった。それから、今日はティナとナンシーがくる。いつも通りにやってもらって構わないかい」
(それは問題ないわ。今日は特に身綺麗にしたいし)
頷き、柱時計を見る。まだ朝の五時を回ったばかりだ。
「開始前にまたくるよ。それまでおやすみ、コニー」
(おやすみなさい、パパ)
娘が――コンスタンス・クレイヴンが、言った。
(白ウサギみたいに遅刻しないでね。とっても大事なお茶会なんだから)
九時に、ソーシャルワーカーの二人がきた。今日はグレイとトンプソンの日だ。
「変わったことはありません。すみませんが、今日もよろしくお願いします。私は仕事があるのでしばらく部屋にいますが、何かあれば――」
普段から伝える内容は変わらない。二人は頷いて、コニーの部屋に向かった。
執務室と呼ばれる屋敷の一室で、パソコンに向かって仕事をした。何種類かの薬物の製造と販売が、今のクレイヴン家の主な収入源である。薬物には異界より入手した植物が使用されており、強力な幻覚作用、催眠作用、脳機能の一時的な拡張といった効能がある。フレッドには娘ほどの才能はないが、それでもクレイヴン家当主を名乗る程度には腕がある。
フレッド・クレイヴンは第三階梯の魔術師である。クレイヴン家は特定の神に信仰を持たないが、催眠や精神魔術の分野によって発展した。フレッドは先祖からの研究を引き継ぎ、いくつかの論文を発表し、研究書も数冊出版した。その研究書は今なお精神魔術の分野における必読書として認知されている。
表向き、フレッド・クレイヴンはこれら研究にまつわる印税や特許料によって生計を立てていることになっている。事実の一部ではある。だが、人の道から外れた望みを叶えるためにはさらに金がいる。
手配を済ませると、フレッドは執務室を出た。今日のお茶会のために、最後の確認をしておく必要があった。
地下階へと向かう廊下の途中で、ソーシャルワーカーのグレイとすれ違ったので、娘の様子について尋ねた。
「今日はお部屋に入っていませんの?」
「……何だか憚られてね」
素直に答えるほかなかった。グレイは頷いて、
「いつもと変わりありませんわ。どころか、いつもより何だか髪も顔色も艶々として見えます」
「それはよかった」
「近頃、お医者様は何て?」
さりげない風を装って、今度はグレイが逆に訊いてきた。以前のソーシャルワーカーに代わって、彼女がここにくるようになってから、まだひと月ほどだ。
「一時的に衰弱の傾向が見られたが、今はまた回復している。大丈夫だ」
これは事実だ。フレッドは魔術師であって医者ではない。いかに娘が超常の力を扱うといえど、彼女の健康状態については医者に診てもらうしかなかった。
回復傾向にある、というのも事実である。ただしそれは、以前と同じような容態に戻る、ということではない。一度弱った花は、二度と咲き誇ることはない。いずれ、花は地に落ちる。
グレイは神妙な顔をしてフレッドの話を聞いていた。
「こんなこと言ってはいけないのかもしれないのですけど、コニーは時々微笑んでいるんですの。何だか、とっても楽しそうで……」
グレイが庭を見たので、つられてフレッドも窓の外に目をやった。本格的な夏に入る前の日差しが眩しかった。野兎がどこからともなく現れて、草を食んでいるのが見えた。
「きっと夢を見ているんですのね。素敵な、楽しい夢を」
「ああ、きっと」
フレッドは頷いて、言った。
「夢の世界は、コニーにとって庭のようなものだからね」
野兎の姿が、茂みの奥へと消える。
――搬出入用のエレベーターで地下の大広間へ向かい、最後の確認をした。
諸々済ませるべきことを終えて、フレッドは外に出た。十時半を少し過ぎていた。
オハイオ州の片隅にある、ここレッドヘレンは人口八千人ほどの小さな町である。歴史は古く、その成り立ちは一八〇三年の州昇格よりも前であるという。当時の魔術師たちがここの地脈をどう捉えていたかは知らないが、少なくともこの地に居ついた魔術師一族はクレイヴン家だけのはずだった。
いつものカフェで持ち帰り用のコーヒーを買った。
店主のマイケルとは長年の付き合いで、いつものように世間話になった。政治への不満や、数週間前に起きた飛行機事故について自説を言ってのけたのち、やはり何気ない風で、コニーの様子はどうかとマイケルは訊いてきた。フレッドは、変わりないと答えた。
「きっと良くなる」
マイケルはそう言った。
「神は、彼女を見捨てたりなんかしない」
デリケートな話題でも、恐れず神の救済を口にするような男で、フレッドはそれが、マイケルの善き人柄によるものだと知っていた。フレッドは礼を言ってその場を去った。
コーヒーを片手に町の外れにある池までの道を進んだ。途中、クリスに声をかけられた。この町に古くから住む八十過ぎの老婆である。
「インターネットで見たのよ。奇跡を起こす脳外科医だって」
言って、クリスはウェブサイトの一面をそのままプリントアウトしたらしい紙を押し付けてきた。
「この人にコニーを任せればいいのよ。彼女の身に起こったことは不幸だけれど、世の中は無慈悲なことばかりではないわ」
フレッドは丁重に礼を言ってプリントを受け取った。クリスがこのようにコニーの治療について意見を言うのは初めてではない。
それからエミリーに会った。彼女はフレッドの妻の友人で、ちょうど墓参りの帰りだと言った。
フレッドは、やはり礼を言った。
池の近くにあるベンチに腰を下ろし、ようやくひと息つく。
スマートフォンの電話帳を見る。ずっと電話をしようと思っていた相手の番号を探した。
ずいぶん前に登録した番号だ。もう使われていないかもしれない。
しかし、今の心境を話すのには、昔の友人が一番だ。友人と呼べる人物はそうはいないにしても。
番号を押して、かけた。コールが長い。十回くらい。
コールが途切れた。
『……フレッド・クレイヴン?』
電話の相手が言った。懐かしい声だった。相手が話しているのは日本語だが、魔力によって言語野が発達しているため、言葉の壁を越えて会話ができる。
「そうだ。盤石――盤石大僧正?」
『久しぶりだ。今、日本が何時かわかっているか? 深夜の零時を回ったところだ』
「君なら、夜遅くでも写経に勤しんでいるかと思ってね」
『覚えていないかもしれないが、フレッド。君と私は十も離れている。この歳で夜更かしは辛いものだ』
盤石大僧正――日本に住まう高僧はかつてと変わらない口調でそう言った。
『……しかし、電話がある気はしていた』
相変わらずの霊感だ。日本から一〇〇〇〇キロ以上離れた場所の、たった一人の人物の行動を無意識のうちに感じ取るのは尋常のことではない。
「ああ、ずっと連絡しようと思っていた」
『最後に話したのは五年……いや、八年前だったか』
「そのくらいだ」
『君は、魔術の道に戻ったと言っていた』
盤石の声が、まるで嵐の前の静けさのように感じられた。
『今も研究を続けているな?』
「……ああ、そうだ」
脳裏に浮かぶのは、娘の部屋の中だ。暗い部屋。日の光が入らぬようにカーテンが閉ざされた部屋。
「娘のためだ」
『コニー……』
盤石は見えているのだろうか。古き友には。
コニーの、今のあの姿が。
『強力な気を感じる。とても強い感情も――』
盤石の声が、確信めいた響きを持った。
『君の背後から、私を見ている。コニーか。それが』
――何を見たというのか。電話先の古き友は。
フレッドの背後に、娘の――コニーの念が見えるとでもいうのか。
「君に伝えたかったのは――」
フレッドは、内心の戦慄を断ち切るかのように声を出した。
「私は、決めたということだ。娘のために、私の持てる魔術の全てを使おうと」
盤石は、僅かの間沈黙した。
『――馬鹿なことを考えているのなら、よせ。友よ』
窘めるように、盤石は言った。
『君は、その背後の悪意を解き放つつもりか。世界中に害意をばら撒くつもりか。それが娘のためになると思っているのか、友よ』
「娘の人生は奪われたんだ、盤石」
それは、長い年月の間、フレッドの心に積もっていた言葉だった。
「十年間もだ。肉体は動けず、剥き出しの心だけが夢と現実を彷徨う娘の世界を、君は理解できまい。たとえ魔力がその身に流れようとも、娘が我々と同じように目覚めることはなかった。あの子の肉体は遠からず限界がくる。ならばその前に、私は娘にしてやれる全てのことをしてやりたい」
『それがほかの善き人々を犠牲にするとしてもか』
盤石の言葉は、思った以上にフレッドの心を切り付けた。
いや、覚悟はした。心は決めた。
あとは実行するだけだ。
「犠牲というほどグロテスクではない。人々には夢の中の蝶になってもらうだけだ。各々が望む夢の中を、ひらひらと飛び回ってもらうだけだ」
『蝶の姿こそまことに、とでも言うつもりか。君や、君の娘が何を企てているにしろ、聞いた以上は阻ませてもらうぞ。私には手段がある』
どこか、安堵したような気持ちが、フレッドの中にあった。
「……ああ、やるがいい。友よ」
フレッドは言った。これ以上振り向かぬように。
「だが私の娘は私以上に強力だ。君がくるにせよ、代理を寄越すにせよ、覚悟するがいい。娘は必ず、己の望みを叶えるぞ」
『それが親として君ができることか。頼むから思い直してくれ。今ならまだ間に合う』
「もう決めたんだ。友よ、どうか阻めるものなら阻んでみせろ。運命は私の家族に過酷な定めを齎した。我らが人の道を外れたとして、裁けるものなら裁いてみせろ」
電話を切った。心臓が早鐘を打っていた。
コーヒーをひと口飲み、忌々しくなって道端にぶちまけた。自分は告解がしたかったのだと、その時になって気が付いた。
時間が迫っていた。ソーシャルワーカーの二人はすでに帰してある。
娘の部屋の前に立った。ドアノブに手をかけ、回す。
遮光性の強いカーテンによって、部屋の中は昼間でありながら暗がりだった。部屋は広いが私物は少ない。娘はベッドにいる。ベッドの中に。目を閉じ、点滴を打たれ、機械を装着されている。ベッドに備え付けられた医療機器が娘の脳波や心拍数を測っている。
十年前に、フレッドが家を少し留守にしたのが、全ての原因だ。
あの日、フレッドは妻と娘を残して、出かけた。行き先は確か隣町だった。妻はフレッドより二十歳若く、コニーはまだ八歳だった。
フレッドが帰った時、家の中は静かだった。声をかけたが、返事がない。でも玄関から食卓のある大広間、そこからキッチンまではすぐだった。途中、窓ガラスが派手に割られているのを見て、急いで走った。
キッチンで、赤い液体が床に広がっているのが見えた。そのすぐ近くに妻の頭が見えた。床に横たわっていた。
二十秒後に、フレッドは娘も見つける。妻の近くにいた。意識がなかった。大声を出して叫んでいたのをあとから思い出す。二人の返事がない。救急車を呼んだ。
妻は戻らなかった。
犯人は、今もまだ見つかっていない。
「……コニー」
ベッドの上で目を閉じたままの娘。あの日から十年。娘の身体は成長を続けた。一族が誇る魔術の才も発現させた。女性の髪には魔力が宿るという古の言葉の通り、母親譲りの黒髪が今日もまた伸びている。だが、肉体は――たとえ魔力や医療の力によって延命させたとしても、現実に目覚めぬ肉体は、食事も摂れなければ、歩くことも叶わない。十年間、眠り続ける娘の身体は、緩やかに死へと近付いている。その歩みは、おそらくはフレッドのそれよりも速いのだ。
「時間だ。コニー」
フレッドは娘に告げた。
その呼びかけに応えるかのように、ぞわり、と、異様な気配が部屋に現れたことがわかった。
(起きているわ、パパ)
ああ、見よ。
部屋の中に入り込む光を遮るためのカーテンに、黒い人影が映っている。少女の影が。
(用事は済んだ? 心残りはない?)
娘の声は、やはりどこか楽しげだった。
いや、不思議ではない。彼女にとっては、今日という日こそがこの世への復讐を果たす悲願成就の日なのだから。
「ああ、全て片付いたよ」
言いながら、フレッドは各計器の電源ケーブルを抜き、ベッドのキャスターロックを解除する。
(地下、寒かったらいやよ?)
「今の時期は暑いくらいさ」
ベッドを押し、移動を始める。年齢よりも老いた身体には少し重いが、不満は言わない。
搬出入用エレベーターに乗り、娘とともに地下の大広間へと降りる。
大広間の床や壁には、かつて先祖が刻んだ魔法陣が今も残っており、その中央にはちょうどベッドが置けるだけのスペースと、電化製品を繋げるようにしたカーバッテリー、そして布がかけられた台座があった。
(いよいよね。楽しみだわ。この日のために練り上げたとっておきの魔術、思う存分使ってやるんだから)
ベッドを台座の近くで固定すると、コニーが弾んだ声で言った。フレッドは手早くカーバッテリーと各計器を繋ぎ、画面を見て電源が確保されたことを確認した。
こうした時、普通の夫は妻の顔が頭を過ぎるものだろうか。だが、すでに十年間、妻はフレッドの心の中にいる。今さら、妻に許しを乞おうとは思わなかった。彼女は理解してくれる。フレッドの心も、コニーの心も。
(始めましょ、パパ。この世で生を謳歌する人間ども、皆私の養分にしてやる)
「ああ、そうだ。コニー。全員〝お茶会〟に招待してやろう」
台座にかけられた布を剥ぎ取る。
台座の上に鎮座しているのは、ガラスケースに入った複雑にして緻密な水晶細工――
(これこそは魔術の粋。救済の極致――)
コニーが、呪文を唱える。この水晶細工を起動するために、コニーの魔術に合わせて調整した呪文である。
「現より夢を住処に。永久の理想郷に。肉体は死すとも魂を楽土に留めん――」
フレッドが呪文の後半を引き取る。身体に残された魔力が震えながら水晶細工に注がれていく。
「《水晶脳髄》。我らの秘宝」
ガラスケースの中で、一切が水晶によって作られた、人間の脳を精巧に模した造形物が虹色に煌めき始める。大広間の魔法陣に魔力の燐光が走った。