20.末路
「――りす、衣梨朱! 衣梨朱、起きなさい!」
「うん……?」
母親の声と共に揺さぶられ、衣梨朱は目を覚ました。
「……あれ?」
床で寝ていることに気付いて、衣梨朱は首をかしげる。なぜこんなところで寝ていたんだっけ。
「衣梨朱、これどういうこと?」
まだ頭が働かない娘へ、母親が通帳を突きつける。二つ折りの少し丈夫な紙束には、様々な金額の収支が乗っていた。その最後の行には、五千万円の引き出しが記録されていた。残高は百円も残っていない。
「あー……」
しまった、もうバレた。衣梨朱は覚醒した頭で言い訳を考えようとして、母の後ろにいる存在に気付いた。
にこやかにこちらを見下ろすスーツの男たち。それがなぜか、鬼の形相の母よりもずっと恐ろしく見えた。
「雨宮さん、いかがしましたか?」
スーツ姿の一人が問いかける。母親が血の気が引いた顔で彼らを見やる。
「い、いえ」
それだけ答えて、自分の身を守るように娘を前に押しやる。
「依頼主が起きたので、あとの説明は本人の口からお願いします」
「えっ、お母さん?」
振り返るが、母の目はもう衣梨朱を見ていない。なんで、と続けて問う前に、両手で顔を挟むようにして前を向かされた。
「では、雨宮衣梨朱さん。契約履行後の残り五千万、お支払いをお願いします」
息がかかるほどの距離にある笑顔。お面のようなそれを前に、衣梨朱はヒッと喉を鳴らした。顔を両手で挟まれているから逃げられない。
「そ、れは……おかあ、さんが……」
「そんな大金、銀行でも貸してくれないわ。サラ金でかき集めたところで到底届かない額よ」
後ろから母親が答える。
「なんて馬鹿なことをしたの」
心の底から軽蔑した声だった。母親からそんな声を聞くのが信じられなくて、衣梨朱は正面を向かされたまま呟く。
「なんで……? お母さん、いつも助けてくれたじゃん」
「それはあんたたちの行動がカネで解決できたからよ。それでいい気になったあれに、何度もカネを渡す羽目になって……! なんでそこまでこだわるの?」
「だって……だって、許せなかった」
「なにが」
「あいつが、死刑囚が。お姉ちゃんをこんなにして、うちの家族を滅茶苦茶にして、あいつだけ幸せに暮らしているなんて……!」
「滅茶苦茶にしたのはあんたたちでしょう⁉ あんなの放っておいてもどの道死ぬんだから適当なところで切り上げておけばよかったのよ!」
「なんで⁉ みんなもやってたんだよ⁉ あいつがいつ死ぬかで賭けてたのに!」
「そのみんなって誰よ⁉ あんたたちが脅して参加させたんでしょう⁉」
「みんなはみんなだよ! ノリノリだったんだから!」
「雨宮さん」
静かにスーツ姿の男が呼びかける。掻き消されてしまいそうなほど静かで平坦な声に、親子が黙る。
「互いに罵り合うのはいつでもできますよ。我々としては後払い金をちゃんとお支払いいただければ、それでいいんです」
「…………」
「お支払いが今できないのであれば、方法はいかがします?」
分割ではなく、方法。その言葉に、どこかうすら寒いものを感じた。
「……今回のことは、この子の独断です」
後ろの母親が言った。
「お母さん?」
「うちには娘が二人います。まだ若い子です。頑張り次第では立派に働いてくれるでしょう」
「お母さん、なに言ってるの?」
なにかが、崩れる。最後に衣梨朱を守っていたなにかが。それを感じて振り向こうとしたが、顔を挟む両手がそれを許さなかった。現実からの逃避を許してくれなかった。
「そうですか」
男がにこやかに頷く。
「はい。ですから……」
「しかし、お母様もまだお若いですよね」
「えっ」
「我々の知り合いには、そうした嗜好をお持ちの方にも人気の店があります。三つも仕事を掛け持ちするより、よほど効率的に稼げますよ」
「な……」
母親が絶句する。
隣で姉の悲鳴が聞こえた。
「なに、誰⁉ やだ!」
どっすん、ばったんと騒がしい。ああ、壊れてしまう。
日常が。守ってくれた家が。家族が。
――未来が。
「さあ、ご案内しますよ。安心してください。旦那様にも、我々が最適な仕事をご紹介しますから」
男に手を引かれ、衣梨朱は立たされる。母親の手は別のスーツの男が取った。
三人がかりで部屋から引きずり出された姉は醜く太っていた。
「……あは」
ああ、そうだ。これは夢なんだ。姉が見ているのと同じ悪夢なんだ。
衣梨朱は一人、笑った。
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