41、烏珠彦(2)
「花は独特の空気を纏った娘だった。強かった……。戦った時、俺の風が彼女の味方について、俺は困惑と共に興奮した。神に愛されし娘、魔を払う巫女。その神聖さに惹かれ、俺は時間を作っては彼女に会いに行った。
じきに俺は彼女の苦しみを取り除いてやりたいと思うようになった。勇敢のように見えて無謀、思いやりあふれるようで自己犠牲的。俺は若い彼女がその尋常ならざる能力ゆえに、心の裡に人生の諦念と寂寥感を抱えていることが不憫でならなかった。それで通う頻度を増やしたのだが……、仲間に、彼女に入れ込みすぎていると言われてな。お山の守りをおろそかにしたつもりはないが、自然坊や他の天狗には眉をひそめられたな……。それで千尋丸が来るようになった」
くくっと烏珠は喉を鳴らした。
「俺の見張りのために寄越されたはずだが、千尋丸まで彼女に惹かれた。あいつめ、自分のカラスが花を気に入ってしまったとかなんとか言い訳しよって……小癪なことだ。だが花は千尋丸を気に入った。俺はあいつを憎んだよ。あいつを視界に映すのも嫌になっていった。恐ろしいものだ、一人の娘のために、兄弟のように育ったあいつを……」
烏珠はふうーと長く息を吐いた。紫色が歪んだ。
「俺はお山と一つになることが決まっていた。それで……俺は花の同情を引こうと、彼女にそのことを話したのだ。離ればなれになるその直前まで、彼女を独り占めしたかった。しかしそれが……まさかあんな……」
烏珠は壊れてしまいそうなほど震えながら左腕を持ち上げ、骨張った手で顔を覆った。隠しきれず晒された肌を月の雫が伝い落ちていった。
「皮肉なものだ。結局、最後までそばにいたのは千尋丸だ。俺は牢の中で悔いた。己を呪った。牢から出された後は千尋丸を糾弾したが……それは間違っているとわかっていた。すべて俺が悪いのだ。取り返しが……つかない。許されたくて……せめて彼女の妹の助けになろうと考えた。
みつは深く傷ついていたが、彼女もまた強い女子だった。花の最後の願いでみつは天野の地に屋敷をもらった。成長して婿を取り、娘を産んだ。彼女はその時、俺に言った。
『私はこれから椛と名乗り、子孫の娘たちには姉の力の源である〈花〉の一字を授け、普通の生を送らせる。魔女が神のように扱われたり、人の戦に駆り出されたりしないよう、存在を秘す。これは子孫にも隠し、もしそれを暴こうとする者が現れた時は、烏珠、あなたが阻止してほしい。罪滅ぼしをしたいと言うのなら、天野の魔女を守ってほしい』」
やわらかな風が羽菜の短い髪を揺らした。優しい風だった。
「俺は俺の風に命じ、魔女に関するすべてを見張ってきた。だが二百年ほど前、御神体に問題が生じ……洞窟への道が開かなくなり、俺は……俺こそが道を開き、花と同じ場所で眠りにつくことを願った。そちらに詰めることが増え、天野をおろそかにした。その結果がこれだ。お山を鎮めるためでなく、人の女を求めて入山しようなど、お山が許すわけもなかろうに……。千尋丸にはそれで幾度も叱られた。天狗本来の心を取り戻せと……。だが此度ばかりは、俺もあいつにもの申してやりたいと思っている」
烏珠は顔から腕をどかし、羽菜を見た。
「あいつは中途半端にお前を巻き込み、お前の心をかき乱したろう。それでもまだ心惹かれるのか」
「……」
「おい、お前はどう思――」
「お前って言わないで」
「貴様」
「きっ……さまは、いいや。なんか新鮮」
羽菜は考えた。浮かぶ言葉や気持ちは断片的で、混ぜご飯の中から具材をすべて見つけ出して調理法を答えろと言われたみたいだと思った。答えるのに少々時間が必要だった。
――頭の中を整理しろ。
花梨のためにも、瑞希おばさんを連れて帰りたい。だけど一人で? 残してきた花梨と六花は無事なのだろうか。千里と薄墨は二人をどうしただろう。それを確認するにはまず屋敷に戻るべきだ。けれどそれでは振り出しになる。するとやはり御神体に向かって、千尋丸と直接話をすべき――。
違う、と羽菜は唇を噛んだ。
――違う、あたしはいろいろ理屈をつけて御神体に行きたがってる。あたしは千尋丸にむかついてるんだ。だってなんで話してくれなかったの? ふつうにあたしに説明して、協力を仰げばいいじゃない。そしたら誰も傷つかずに済んだんじゃないの? あたしじゃなくて瑞希おばさんを選んだのはあたしに対する裏切りだし、あたしは性格が悪いから、巻き込まれただけのおばさんにもめちゃくちゃ嫉妬しちゃってる。だって二人で御神体に粘ってたって、何? だめならいったんおばさんを帰して、あたしのことを呼んでくれてもいいんじゃない? ……あ、屋敷で待ってろってそういうこと? 本当は出番あった? ううん、たぶんないでしょ、絶対ないでしょ!
羽菜の表情をじっと観察していたらしい――目が合うと、烏珠はふんとそっぽを向いた。
「天野の魔女はどいつもこいつも向こう見ずで気が強い。そういう血だな」
風が横から羽菜を押した。
「行け。俺は動けぬ。風で案内はしてやるから、自力で飛べ」
「あのう、ご存知かと思いますが、あたしは飛べなくてですね……」
烏珠はもぞもぞ動いて左半身を持ち上げ、大儀そうに腰の後ろの帯に挿した長い棒を引き抜いた。
「あっ、花梨のステッキ?」
「あの娘に伝えておけ。相手に物を渡す時は力加減を考えろ、と」
烏珠は小さく笑った。
「まったく……。天野の魔女を見ている時は、退屈だけはしなかったな……」
「そりゃどうも……」
羽菜は両手に持ったステッキを見て途方に暮れた。
「でもさ、あたしまた暴走しちゃうだろうし。烏珠が動けないのはわかるんだけど、そこをなんとか、もうちょっとだけ頑張ってもらえないかなあ、なんて。……あれ、烏珠? ……烏珠?」
いつの間にか目を閉じた烏珠の、真珠のように白い面を照らす月の光が、よりいっそう強さを増した気がする。
どこからともなく、黒いアゲハ蝶や大きな青い蝶が集まってきて、烏珠の体や顔や、黒い絹のような髪にひらひら止まった。――動かなくなった胸の上で、蝶は安らかに止まり続けた。
音はなく色だけが賑やかなその光景に、肌が粟立った。
「……え? うそ、うそうそうそ! い、今ふつうにしゃべってたじゃん! 待ってよ、天狗って死ぬ? 死なないよね? ねえ烏珠! 烏珠!」
揺さぶれば蝶は一斉に空へと舞ったが、花びらのようにひらりひらりと戻ってくると、微笑みさえ浮かべているように見える烏天狗に接吻をした。
次回は明日、8月8日(木)7時10分投稿です。
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