14、母の秘密(1)
「だめだ、だめだ、全然なってない! そんなんで飛べると思ってんのか!」
「だからコツを教えてって言ってんじゃん!」
「だから背中に翼を生やせって言ってんだろうが!」
「生やせるかあ!」
バシッ! 今の今まで大事に抱えていたラグビーボールを投げ捨てた。もう嫌だ。今必要なのはボールではなく、翼を授けてくれる某エナジードリンクだ。
千尋丸と秘密の飛行訓練を始めて一週間が経つ。アドバイスをすると息巻いていた飛翔のプロは、教える事に関してはてんで素人だった。「名選手が名監督になれるとは限らない」、野球中継を観ながらぼやいていた父方の祖父の言葉が今ならわかる。
千尋丸が訓練場所として選んだのは、当然の如く天野の領地の外で、背の高い杉の木立に囲まれた、一呼吸ごとに肺が洗われるような清浄な場所だった。若干の傾斜はあるが、木と木の間隔が広く土もやわらかで良い香りがする。時折小鳥のさえずりや枝葉のざわめきが聞こえるくらいで、とても静かだ。千尋丸の低く艶のある声はそこに何の違和感もなく馴染んでいるが、羽菜の声は発するたびに弾かれるような妙な感じがある。
羽菜はその場にしゃがみ込んで頬杖をついた。三メートル先に転がったラグビーボール。千尋丸が羽菜用にと贈ってくれたものである。こんなもの、いったいどこで手に入れたのか。盗んだ物でなければよいのだが。
最初は定番の箒だった。それも千尋丸自らが調達してきた代物だったが、期待を裏切りピクリとも反応しなかった。
次はしめ縄を渡された。縄を持ったまま途方に暮れる羽菜に、天狗は「頭に巻け」としかつめらしく命令した。髪が傷むことを気にしながらなんとか巻き終わり、指示を仰ごうと師に目をやれば、命じた本人は取り繕った真面目な顔をヒクヒク痙攣させて――爆笑が響き渡るのと羽菜が縄を地面に叩きつけるのとは同時であった。
翌日は大豆を一袋渡された。『天尻神社祈祷済み大豆』――毎年節分の頃になると付近のスーパーに並ぶやつだ。なぜ豆にしたのかと問えば、「昨日のお前、鬼みたいな顔してたから」と返された。その場ですべて鳥の餌にしてやった。
次の日もそのまた次の日も、千尋丸は理解不能な物を持ってきては羽菜を怒らせた。
敬語なんて初日にとれた。怖さも完全に消え去った。この天狗はとにかく暇なだけなのだ。羽菜がここにいる間中、徹底的に羽菜で遊び尽くそうと考えている、ただそれだけだ。
――拝啓、お母さん。あなたの初恋相手はやばい奴ですね。
なんとこの天狗、母の初恋を奪ったらしい。
千尋丸と出会った日の晩のこと、羽菜は母の秘密を聞き出すことに成功した。
夕食後、水音しか聞こえてこない台所をひょっこり覗くと、母が一人で大量の食器を洗っていた。
「風花おばさんは?」
母はこちらを向くと桃色のほっぺを山なりにした。夕食時に飲んだビールでほろ酔いのようだ。
「お、手伝いに来た! 我が娘ながら感心、感心」
「めっちゃ酔ってんじゃん。明日ちゃんと一人で帰れるの?」
「一晩寝ればケロリよ。電車とバスだし、らくちんらくちん」
「ホームから落ちないでね」
「可愛げがなーい。反抗期かなー」
――酔っ払いめ!
「心配してあげてるのに。どっちが可愛げないんだか」
「ねえ、せっかく来たんなら食器拭いてよ。風花ったら、おばあちゃんに呼ばれて出て行ったきり戻ってこないの」
使い込まれたシンクの中には大小様々な食器がまだ何枚も積み重なっている。母がスポンジに洗剤を足すのを横目で見つつ、羽菜はそばにかけてあった布巾を取った。
「あら、珍しい。ずいぶん素直に手伝ってくれるのね」
「いつもそうじゃないみたいな言い方、やめてもらえます?」
「いつもだったら一言二言文句をつけるでしょ」
それには返さず、羽菜は水切り籠に伏せられた味噌汁椀を一個取って水気を拭った。
「それで、風花に用事?」
「ううん。ちょっとお母さんに聞きたいことがあって。別に大したことじゃないんだけど……」
「何よ」
うまいこと天狗の話に持ち込めるだろうか。内心ドキドキしながら、できるだけさりげなさを装った。
「昼間さあ……ちょっと聞いちゃったんだけど。あたしの名前のさ、お父さんと二人だけの秘密って……何?」
「ああ……」
母は考える素振りを見せたが、手応えのある反応を返した。
「誰にも言うなって言われたんだけどねー。でも当事者のあんたにならいいかもしれない。ていうか、そりゃ知りたいと思うわよねぇ」
「うん、知りたい」
「内緒って約束できる? わりと本気で」
「できます、できます! わりと本気で!」
力強く点頭する娘を確認すると、母は手の洗剤を流して蛇口を閉め、念入りに台所の入り口付近を確認してからまた戻ってきて、泡だらけのスポンジを持った。
「まずね、秘密の相手はお父さんではありません」
「は? ……浮気相手? やば」
「違う! あーあ、言うのやめよっかなー」
「ごめんなさい! 聞きます、黙って聞きます! もう口を挟みません!」
母はスポンジをにぎにぎして泡を増やしながら、ちょっと声を潜めて言った。
「天狗」
「へ?」
「烏天狗なの。その相手」
よし! 思わずにんまりしそうになって頬の内側を噛む。怪しまれてはいけない。なるべく自然に驚かなければ。
「ええー! すごくない? やっぱりいるんだね。どんなだった?」
棒読みみたいになった。そうだった、小学校の舞台発表会で村人Aを演じた自分だ、女優の才なんて欠片もなかった。
隣の母の動きが止まった。
――やっちゃった。勘づかれた?
おそるおそる窺うと、今度は羽菜が停止した。
四十四歳の母の目が少女のように輝いている。泡々の両手を胸の前に組み、夢見る乙女のポーズをとっている。頬は薔薇色で――いやこれは酒気か。
見てはいけないものを見た。羽菜がスーッと目をそらして食器拭きを再開すると、母は枝についた桃の蕾を揺らすそよ風みたいな吐息を漏らし、会話だけを再開させた。
「もうね、もうね……すっごく! イケメンだった!」
次回は17時10分に投稿します。




