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応挙の女

作者: Phantommaster


 長屋の薄い壁越しに、死に臨んだ気配が伝わってくる。

 途絶えがちな吐息と重苦しい雰囲気。

 死に行く者の衰えた生命力と、それを嘆くまだ生を持つ人間達の嘆きとが、言葉ではなく空気となって、板と土の壁を通り抜けてくる。

 遠くから、濁音の混じった油蝉の鳴き声が届く。南天にさしかかった陽は、燦々とした光を頭上から注ぎ、全身に纏いついた暑気が意識を朦朧とさせた。

 まるで、数年来の猛暑が人の命を殺ぎ落としてゆくかのようだ。

 開ききった板戸の向こうを力無く眺めた岩次郎の眼に、初老の医者の姿が映った。医者は岩次郎の長屋部屋の前を過ぎ去り、隣家の扉の前で立ち止まったようだった。白髪混じりの総髪に見覚えがある。三条通りの町医者源庵だった。その後ろに、薬箱を持った弟子が従っている。小太りの身体に暑気がこたえるのか、しきりに汗を拭いている。

 岩次郎の視界から、源庵の老体が消えた。弟子の方は狭い部屋の中に影を投げかけたまま、居住まい良く立ったその姿勢を崩そうとしない。まだ童顔が抜けきらない表情には、少なからぬ緊張が浮かんでいる。

 死――が近いのかもしれない。

 岩次郎は暑さに乱れた呼吸を整えて耳を澄ませた。壁の向こうの様子を聞き漏らすまいとする。言葉少なく挨拶が交わされたようだった。源庵が招き入れられたのだろう。静かに床を踏む音が聞こえる。源庵が病人の枕頭に移り、そして静寂が訪れた。

 鼓動を確認するかのような静かさが続く。長いような短いような時間が過ぎ、源庵の細々とした声が聞こえてきた。それは最後の宣告のようだった。おそらくはもう助かるまいという。

 源庵の宣告とともに、枕頭に寄る人間達に波紋が伝わった。男の嗚咽が伝わってくる。亭主の矢八のようだった。妻の死。それはすでに覚悟されていた現実だったのであろうが、医者の口から伝えられるのは、やはり特別なものがあるに違いない。

 いや、もしかすると、それは嘆く切っ掛けに与えてるのかもしれない。

 ふと、岩次郎はそう思った。病人が死ぬと分かっていたとしても、一縷の望みがあるうちは嘆くわけにもいかない。表面では力づけようと陽気に振舞うのだが、そうすればするほどに、嘆きは胸の奥に溜まってゆく。医者の言葉は、その辛い芝居から開放するものなのかもしれない。

 そう考えた後、岩次郎は自嘲した。そんなことが分かったからといって、どうなるものでもあるまい。

 しかし――

(人の生などあっけないものだ・・・・・・)

 思考とも独白とも取れないまま小さく呟いて、岩次郎は狭いの部屋の中にただ一畳だけ敷かれている畳の上に寝転んだ。

 ささくれだった畳が汗に濡れた首筋に刺さる。

 不快な感触に眉をしかめた。それと同時に昔の光景が脳裏に去来した。

 十年前。この京都四条奈良物町に出てきたその日、初めて雪江と出会った。岩次郎が十七。まだ、雪江も十八の娘でしかなかった。

 岩次郎は、もともと京の人間ではない。郷里は丹波の亀山である。子供の頃からの好きが高じたとはいえ、単なる手慰みでしかなかった画業で身を立てようと志し、単身京に出てきたのがその歳である。それまではまったくの鄙の暮らししか知らなかった岩次郎にとっては、京という街のすべてが戸惑いの対象だった。

 そんな時、初めて知り合いになった女が雪江だった。

 だが、一体どこが気に入ったのか。歳などさほどに離れているわけでもないのに、雪江はまるで小さい弟の世話でも見るかのように岩次郎に接した。隣家で一人暮らしを始めた若い絵師をからかっては喜んでいたものだ。

 最初は才能を買ってくれているのだろうかと思わないでもなかった。が、そんな自惚れも、修行の中で自分の力量を知るうちにすぐに消え去った。後に京都円山派・四条派の祖円山応挙となる岩次郎であったが、この当時は単に安物の扇子絵を描いているだけの駆け出しの絵師でしかなかった。そして、それは十年経った今でも変わらない。

 ただ、それでも十年京で修行の日々を過ごしてみればわかったことがある。

 つまり、雪江は飛び切りに親切な女だったのだ。

 絵筆一本に寄りかかるようにして、独り京の町の寒気に晒されている。そんな人間を放っておける性格の女ではなかった。でなくては、生来の無愛想な上に容姿も冴えないに貧乏絵師など構おうなどするまずがない。

 もともと岩次郎はさほどに独りを苦にしない性質であった。絵筆さえ握っていれば、それで事足りた。だが、さすがに京で右も左も分からない頃だけに心細さはあった。それだけに雪江の優しさは身に沁みた。

 以来、雪江が婿を取った後も関係は続いている。その雪江がこのような形で逝くことになろうとは。

 雪江が具合が悪いと云い始めたのは、ほんの半月ほど前のことだった。最初の頃は夏風邪をこじらせたのだろうと笑っていた。それが見る間に悪くなってゆき、もともと華奢な身体が酷く病み衰えていった。今は食も細々としか喉を通らず、起き上がる体力も残っていない。おそらくは、もう幾日ももたないであろう。

 岩次郎は寝転がったまま眼を閉じた。

 若くして死ぬ雪江が哀れだった。それに加えて後悔もある。生活の貧苦や絵師として才能に疑問が湧いたとき、黙っていても手を差し伸べてくれるのが雪江だった。だというのに、岩次郎はただ恩を受けるのみで一片たりとも返したことがない。

 再び昔のことが脳裏に浮かんでくる。米を買う金を画具に使ったとき差し入れをしてくれたのも雪江だった。筆を折ろうと思った時に、叱咤したのも雪江だった。だが、どんなときも雪江は常に陽気だった。それが岩次郎には不思議でしかたがなかった。

 漠然と浮かんでは消える思い出は、辛い修行時代と重なってなんともいえない淡い慕情を呼び起こしてゆく。そこには、三十路前で子もないままに逝こうとしている雪江への鎮魂の情も混ざっている。

 何時までも続くぼんやりとした想いを断ち切ろうと、岩次郎は瞼を開けた。

 庇越しに夏の陽射しが眼に眩しく眉を顰める。

 そのとき――ふと、奇妙な引っかかりを感じた。

 どうも、何かを忘れているような気がする。なんであったろうか。思い出すことができない。だが、間違いなく大切なことであったはずだ。

 釈然としない気持ちを抱えながら、岩次郎は寝返りを打った。向いた北側の壁には、西日を避けるように画具が設えられている。文箱の中には、大小の絵筆が並び、絵皿では群青の岩絵具が干上がっている。隣の絵皿からは、膠の脂が微かに饐えた臭いを立ち昇らせている。

 昨夜、片付けをしないままに放っておいたものだ。

 岩次郎は、その光景を苦々しく眺めた。画具の手入れを怠るなど、少なくとも京に上ってきて以来絶えてなかったことである。気分を変えようと、昼間ではなく夜の灯火の元で描いたのも一因であろうが、そんなものは、言い訳でしかない。

 気持ちが荒れている。このような状況で絵が描けるはずもない。

 部屋の隅には、描きかけの下絵が転がっている。手荒く扱ったのか、画紙は半ばで破れている。

 小ぶりの軸物だった。だが、小さいとはいえ岩次郎にとっては初めて来たまともな絵の依頼だった。いままで内職仕事のような扇子絵や眼鏡絵ばかり描いていただけに、気負いもあれば意気込みもある。

 だが、それが空回りしているのか、上手く描くことができない。焦りばかりが先行し、一向に満足の行く構想が湧かなかった。

 絵の依頼が来たのは半月前のことだった。最初は描けると思った。十年筆を養ってきてようやく最近は自分の絵を描けるようになった。それを出せばいい。その考えが浅はかだったのであろうか。

 思えば、雪江は寝込んだのもその頃のはずだ。もしかすると、雪江の陽気な一面で云えば楽天的な励ましがあれば、筆も進んだのだろうか。

 ――いや、そうではあるまい。

 岩次郎は、雪江に寄りかかろうとする思考を否定して、破れた画紙の皺を広げて昨晩描いた下絵を見つめ直した。

 良く描けてはいる。そう思う。だが、それだけでしかない。

 美人画である。画題は依頼元の画商が指定してきたものだった。その先は任され、岩次郎は楊貴妃を選んだ。全くの斬新さを追求するには、まだ自分の力量が足りないと思ったからだ。ただ、格好が唐の王朝のものであるというだけで、肢体や顔については岩次郎が今までに見てきた女を写している。

 岩次郎はもう一度下絵を見た。やはり良い絵ではない。いや、確かに良く描けてはいるのだ。女の身体の均整や目鼻立ちの正確さ。岩次郎が求めている写実的な画法は、縦横に駆使されている。

 だが、絵に訴えるものが無い。表情が平板だからだろう。これは、人というより人体ではないか。

 岩次郎は下絵を丸め、部屋の隅に積んであった書の中から粉本を取り出した。

 岩次郎の師である狩野派の絵師石田幽汀から受け継いだもので、絵の手本となる名画が載っている。岩次郎がまだ幽汀の元で修行していた頃に受けついだものだった。京狩野に限らず全ての狩野の門では、粉本を真似ることが画業を成す唯一の術であると教えていた。古来の狩野の名画を模写していけば、その筆致は自然に気韻を伴うようになると云う。

 忘れかけていた狩野の画訓を思いだしながら、岩次郎は粉本の美濃紙を捲った。絵が現れる度に黴と埃の臭いが立ち昇る。考えてみれば、ここ数年開いたこともなかった。これを師の幽汀が見れば怒るであろう。幽汀は事あるごとに狩野の画訓をお題目のように唱えていたものだ。面倒見のよい温和な師匠ではあるが、こと絵に関しては、旧来の域を出ようとは決してしなかった。

 一枚一枚を見つめながら、岩次郎は粉本を捲っていった。

 だが、最後まで捲ることをせず、岩次郎は厚手の表紙を閉じた。

 藁にも縋るつもりで開いてはみたが、やはり得るものは無かった。なるほど、狩野の筆には力がある。しかし、その姿は物のありのままを捉えていない。それは、岩次郎が求めている絵とは明らかに違っている。

 苛立ちから部屋の隅に手にした粉本を投げ込もうとして、岩次郎は止めた。これでも、初心の頃には随分と世話になったものだ。それに、絵を描いた師の幽汀にも悪い。求める絵が違うとはいえ、人格的には出来た師匠だった。ないがしろにしていいということはない。

 岩次郎は粉本を丁寧に和紙で包んで、画具を入れる行李の底に仕舞った。

 おそらくはもう見ることも無いだろう。

 そう思いつつ、写生帳を手にとった。そこには、ここ数年来岩次郎が絵の対象としてきたものが描きとめられている。

 写生帳を捲る。描かれているものには草木が多い。それに花鳥。特異といえるのは昆虫が多いことだろうか。いずれにしても自然が多く、人臭さがない。

 終わりの頃になってやっと人間の模写が現れた。分量にしてみれば、随分と少ないものである。正確に写された人体は、正面、横、指、舌と細分に描き込まれている。絵師よりも医者が興味を起こしそうな出来栄えであった。

 中には美しいと云われた女の姿もある。だが、やはりそれも単に正確であるだけだ。虫をありのままに写したときの機能美や絶妙な色彩は、人を描いたときにはどのようにしても現れてこなかった。

 写生帳を脇に置いて、岩次郎は天井を見つめた。

 脳裏に仕舞ってあった美しいという女の姿を次々と浮かべてみる。祇園の遊女、評判の茶屋の娘、偶然出会った忍びの公家の妻女。思い出せる限りの女を、そのごく細部まで天井に描き込んでは、納得のゆかないまま消してゆく。

 やがて、最後の一人がいなくなったとき、岩次郎の眼に煤けた天井が現れた。

 その時、岩次郎はふとあることに気がついた。

 それは、奇妙は引っかかりの正体だった。



 画商の小島屋喜平がやってきた時には、すでに夕刻を過ぎていた。

 陽も落ちかけ、昼間の暑さもようやく和らいできている。

 最初の約束では、午過ぎにはやってくるということだった。それが遅れるという知らせを、小島屋の小僧がもたらしたのは、もう約束の刻限を過ぎた頃のことだ。告げられたのは、ただ遅れるというだけの内容で、何時来るとも云われなかったから、岩次郎は外出もせずに待っていた。

 遅参の理由を告げることもせず、喜平は岩次郎の部屋に入ってきた。

 中年を迎え太さを増した身体には、夏の夕暮れといえども辛いらしく、吐く息が荒い。おそらくはそれが約束とおりやってこなかった理由であろう。夕暮れの涼しさが出た頃合を見て岩次郎の元に向かったに違いない。喜平にはそういう不誠実な腹があった。

 岩次郎は普段使わない来客用の座布団を出して、喜平にすすめた。喜平は礼を云うでもなくその上に胡座をかいた。

「まったく、京の夏の暑さというのはかないませんな」

 挨拶もなく喜平はそう云った。懐紙で汗を拭きながら、部屋の中を見回している。綺麗な場所ではない。だが、喜平はどうとも思ってはいないようだった。一人暮らしの絵師の家などどこも同じようなものなのだろう。

 喜平はつまらなそうに部屋を眺めている。岩次郎もまた愛想を浮かべるでもなく、ただ喜平の前に座っていた。茶でも出せばまだ間も持つのであろうが、生憎の貧乏暮らしのために茶葉など買う余裕はない。たとえあったとしても、男の淹れた茶など喜ばれもしないだろう。

 無言が続くうちに、喜平は部屋の隅にあった下絵を見つけ出した。冷ややかな眼で一瞥し、ふんと小さく鼻を鳴らした。

「しかし、あれですな。岩次郎はんも苦悩なさってるようですな」

 云った言葉には、その内容とは裏腹に岩次郎への労わりなどは欠片ほども込められていなかった。岩次郎は上目遣いに喜平を見上げ、その広い額を眺めた。

「まあ、絵っちゅうもんは、描けるときは描けますし、描けないときはどうしようもないものですわ。心気が揃ったときでないと、筆を動かしたところで、紙の上に絵具を垂らしているだけのことですからな。

 特に一流の絵師なら、それを良く知ってらっしゃる。描くときの勢いは凄いものなんやが、描けないときは絵の具も溶こうとしない。それに、描くものにもやたらと厳しいですからな。前に描いた絵より劣っていようもんなら、破り捨てそうですわ」

 そう云って喜平は、いきなり汗に濡れた首筋を叩いた。ぴしゃりと高い音が響いた。手を離し、喜平は自分の掌を見て顔を顰めた。皺の寄った首筋に小さく血がついている。蚊に吸われたのだろう。

 喜平は、蚊の痕を掻きながら言葉を続けた。

「しかし、そんなものだと分かってはいても、画商泣かせですな。京狩野の師匠方も、土佐派の絵師連も、高名な方になればなるほどに我侭や」

 何を言っているのか。岩次郎は胸の奥で毒づいた。

 喜平は画商とはいえ、やっと表通りに店を出せた程度の新参者でしかない。店の間口などはやっと人間が一人通れるくらいの幅しかなく、使っている小僧も一人きりである。扱っているのも店売りの出来合えのしろものばかりで、京の旦那衆からの注文の絵を仲介するだけの器量などありはしない。ましてや、宮中や公家お抱えの京狩野や土佐派の重鎮と付き合うなどとてもできるはずがなかった。

 ようするに当て付けなのだ。ほんの駆け出しでしかない岩次郎ごときが、締め切りの期日を破ろうなど片腹痛い。遠まわしというには露骨過ぎる言い方でそう云っている。

 だが、岩次郎とて反論はある。そもそも内職仕事ではないのだ。ひと月の約束の半分が過ぎたからといって、絵の半分が出来上がるはずもない。それこそ、喜平の言葉通り、描けるときと描けないときがある。自分でそう云っているくせに、喜平は岩次郎には内職仕事を要求する。

 所詮、この男に絵は解からないのだ。要するに喜平は絵を単なる商品としてしか見ないのである。画商の中には、絵好きが高じて店が流行らない者も多い。喜平は、その点醒めているだけに、新参でありながらそこそこに儲けも出しているのだろう。だが、結局はそこまでで止まる男でしかない。絵を見る眼はこの男にはない。

 そもそも、この依頼についても不可解なところがあった。注文の絵でありながら、岩次郎は未だ注文主の名を聞いていないのだ。これは一体どういう了見なのか。

「ところで小島屋さん」

 岩次郎は思い切って口を開いた。

 喜平が倣岸な態度で顎を逸らし、先を促した。その姿に辟易しながらも、岩次郎は質問を続けた。

「今度の絵ですが、どなたからの注文なんでしょう」

 じろりと喜平の視線が岩次郎に降りかかった。

「それを聞いてどうしようってんですかな」

「絵を描いてくれと云われれば、その主を知りたくなるのも当然でしょう」

「知らなくとも困るわけじゃなし、どうでもよろしかろ」

「そうでしょうか。知っても困るとは思えないんですがね」

「すると」

 喜平は嘗めつけるように岩次郎を睨んだ。

「あんさんはそれを知らないと描けないとでも仰るわけだ。岩次郎はんも、随分と偉い絵師さんにおなりあそばしましたなあ。若手の絵師は、絵さえ描ければそれでいいちゅうのが当たり前のことだと思っとりましたが」

「他人のことは知りませんよ。なにせこの通り、人付き合いなどほとんど知らない独り者ですから。それで、どなたなんですか」

 そう訊くと、喜平の表情は露骨に不機嫌なものに変わった。癇がかったように、こめかみが震えている。

 重い空気が場を支配したが、それでも岩次郎は無言のまま喜平に対峙した。

 ある不安があったからだ。喜平が注文主の名を明かさない理由についてである。もしかすると喜平は、絵を描く人間が岩次郎であると告げていないのではないか。

 そう考えると、いろいろなことに合点がゆく。ひと月という短い期限。やけに仕事を急かす態度。普通、絵を頼むであれば、ある程度の大雑把な期限を決めるにしても、その後構想を得るまではある程度緩やかに待つものだ。喜平のようにきっちり日割りで仕事をさせようなど、あきらかな無理押しである。

 岩次郎の不安は、喜平は頼んでいた絵師が描けなくなった代役に岩次郎を選んだのではないだろうかということだった。たまたま絵の傾向が似ていたのかもしれない。幽汀の元で絵を学んだだけに、狩野風の絵であれば、それなりの量を描いてきている。それらのどれかを見て、岩次郎に白羽の矢を立てたのかもしれない。

 別に、他人の代役が嫌というわけではない。まともな絵の注文であれば、他人の代わりだからといって厭う気はないのだ。しかし、それが相手に伝わっていないのでは、意味がないではないか。絵は孤高を求める芸ではあるが、同時に虚栄の市でもある。絵の良し悪しと世の評判は本来別ものであるとはいえ、絵師には二つを同じものとして求める気持ちがあるのが普通だ。それは当然岩次郎にもある。であるのに、そういったものを召し上げてしまうというのは、少なくとも絵に携わる者のやることではあるまい。

 強い反感を込めて、岩次郎は喜平の顔を見つめた。

 視線を受けて、喜平の顔が紅潮を始めた。瞳に怒気が浮かんでいる。

「いいかい、岩次郎はん。

 わたしは、あんさんが無用に気にかけんようにと思って、注文主のことを伏せてるんやで。わざわざ絵を描いてくれ云うくらいやから、当然大店の旦那衆や。眼も肥えてるわ。そんな方々の名を知ってみい、なんの積み重ねもないあんさんなんか、恐れ多くて筆を持つことも出来なくなるわ。

 それをなんや。こっちの親心も知らんと、注文主の名を教えろだなんて、いったいどの口がそんなこと言い出すんや。

 まったく、最近の若い絵師なんぞというのは、ろくに修行もしないくせに態度ばかりはいっぱしの文人気取りや。それでもって、二言目には描けない描けない。そのくせ女遊びだけはこまめにしおる。何が、これも修行の一環や。阿呆なこと云うなちゅうんじゃ」

 最後の方は、岩次郎への罵言ではないようだった。おそらくは、岩次郎に仕事を回した張本人の所業であろう。

 喜平は肩をいからせている。怒気がおさまらないようだった。

「いいかね、岩次郎はん」

 そう云って、喜平はいきなり立ち上がった。

「下らんことに興味もっとらんと、さっさと絵を仕上げることや。締め切り守らんのは、もっと大物になってからにしとき」

 そう吐き捨てて、喜平は土間に行って草履を履いた。

 一瞬止めようと思ったが、岩次郎はやめた。喜平の云うことを受け入れるわけではないが、喜平が注文主の名を明かさないからといって、描けない理由にはならないだろうと思ったからだ。それに、贋作を描けといわれたわけでもない。岩次郎は岩次郎の絵を描けばいいだけのことだ。

 立ちかけた腰を再び降ろして、岩次郎は遠ざかってゆく喜平の後ろ姿を見送った。疲労が湧き上がってくる。小さくなった喜平の姿が視界から消えたとき、後ろを向いて絵筆を手にした。穂先を整え、文箱に仕舞い込む。

 ろくに反論もせず喜平を行かせたのには、もう一つ理由があった。

 先ほどから、隣家から沈んだ気配が伝わってきている。それは、時を追うごとに重さを増してきている。

 雪江の容体が悪くなってきているのだ。

 おそらく、明日まで持つまい。

 そして、あの奇妙な引っかかりの正体。

 岩次郎は筆先を眺めながら思った。人が――描けるだろうか。



 板戸を開けて中に入ると、部屋の中は疲労が充満していた。

 中央には雪江が寝かされ、その周囲に母親のお松と亭主の矢八、それに看病を手伝っている長屋の女房が座っている。

 確か親戚達も来ていたはずだがここにはいない。狭い部屋の中に全員は入りきらないのだろう。おそらくは、長屋の他の部屋で待機しているのに違いない。

 目礼をして草履を脱ぐと、項垂れていた矢八が岩次郎を見上げて深々頭を下げた。端によって岩次郎のために畳を開ける。その心労にやつれた様子がやけに不憫だった。普段であれば、丁寧な挨拶が来るだけに、無言の姿がその憔悴を表しているように思えた。

 岩次郎は雪江の枕頭に座った。足を整えて正座をし、雪江の顔を見つめた。血の気が無く、微動だにしない。それに、息をしているのか不安になるほどに静かだった。

 岩次郎は紫がかった唇に目を凝らした。微かに空気が動いているようだった。息はあるようだった。だが、それも頻繁でない。このような息の薄さで、人は生きてゆけるのだろうか。いや、やはり無理なのだろう。だから、死に近づいていっている。

 震えてこそはいないが血色を失った雪江は、寒そうにしているように見える。だが布団は胸より下にかけられているのみだった。病み衰えた胸には、布団の重みですら耐えられないのだろう。

 雪江の指先に触れてみた。酷く冷たかった。岩次郎は知らずの内に脈を追っていた。力弱くはあるが、まだかろうじて鼓動が感じ取れた。

 声をかけようかと思って、岩次郎は躊躇った。云ったとしても聞こえないであろうし、仮にその声が雪江に届いたとしても、応えさせること自体が雪江の負担になると思ったからだった。

 結局、岩次郎はただ雪江の顔をただ見つめた。陽気さが取り得の女が、今は対照的なまでに静かさを纏っている。それは、やけに眼に新鮮に写る。

 岩次郎は少なからぬ罪悪感を抱いていた。雪江に対する後悔の念もあるが、ことここに至ってあることを云い出さねばいけなかったからだ。

 思考が躊躇いを湛えているうちに、岩次郎は無意識のうちに文箱を弄んでいることに気がついた。中には、絵筆が入っている。懐中には写生帳が忍ばせてある。

 もう一度、雪江の顔を見た。表情はない。だが、それが岩次郎に決意させた。

 相変わらず項垂れる矢八に向き、口を開こうとした時――お松の声がした。

「岩次郎はん、それはいけませんわ」

 雪江を挟んで正面からお松は鋭い視線で岩次郎を射続けている。眉間に寄った皺と整然と伸ばした背筋が、岩次郎への非難をあらわしていた。

「岩次郎はん」

 もう一度お松は岩次郎の名を呼んだ。

「あんさんがいい絵描きになろうと必死なのは、ここ十年隣に住んでてようわかっているつもりでおりやす。正直、ここまで真っ直ぐに打ち込むとは想いもせんかったですわ。最初は、単に地面に足を着けて地道に働くことが根性がないだけだと。そうとばっかり考えとりました。絵がどうのこうのいうのは、その言い訳だとね。そこは、手前の眼鏡違いやった。いずれ謝らなくちゃいかんと思っとりました」

 お松は努めて冷静な口調であろうとしていたが、膝の上では雪江の布団の端を指が白くなるまで強く握り締めている。

「だが、これは違います。いけませんわ。絵師である前に、人としてやっちゃいけないことは押さえて貰わないと困ります。

 人間が一人死にそうなんや。それを絵の種にするなんぞ、まっとうに生きている者のするこっちゃありゃしません」

「ですが、これは・・・・・・」

「聞きとうありません。八十九十の大往生やない。娘はまだ三十前や。子供だってまだ諦める歳でもない。不憫な娘や。なのに、その死に顔描くなんぞ・・・・・・」

 お松は語尾を濁らせた。岩次郎はもう一度口を開きかけたが、声にするまでには至らなかった。それが、お松にどういう感情を呼び起こしたのか。微妙な湿っぽさを含ませて、お松は云った。

「これで、娘に会えるのも最後や。聞こえんでもいい、優しい言葉をかけてやってくれやす。雪江は、あんさんの事を憎くは思っとらんかった。一人っ子やったから、姉にでもなったつもりやったんでしょう。あんさんの面倒見るのが楽しくってしょうなかったようですわ。だから――最後くらいはきちんと送ってやってくれやす」

 反論することも出来ず、岩次郎は俯いた。黙って雪江の顔をみる。何か声をかけようと考えてみるが、浮かんでくるものは、実などどこにも詰まっていない他愛のないものばかりであった。

 とはいえ、特別な言葉などはいらないのだということは岩次郎にも分かっている。他愛のない内容でも湿っぽく口に出せば良い。そうすれば場も収まるし、一部であろうと真意がこもっていれば死んでゆく者への手向けにもなる。それは分かってはいるのだが、岩次郎には何故かできない。

 因果なものだ――。

 岩次郎は吐きたくなるような胸糞の悪さを覚えながら、畳を睨みつけた。他人がごくあっさりと割り切れることを、岩次郎はどうしても飲み込めないないのである。この性質ゆえに、岩次郎は絵師を目指した。絵を描くことが好きだったというのは、大きな理由ではあるが、動機の半ばを超えはしない。絵師であれば、他人がどうでもいいと思うことに拘ったとしても多少なりとも赦される。その想いが、岩次郎の絵師であることの奥底を固めている。

 岩次郎は雪江の顔を見た。青白い。凛呼とした凄惨さがある。死に際というというのは全ての人間が強い真摯さを湛えるのであろうか。

 ふと――岩次郎は自分が絵師の眼になっていることに気づいた。

 岩次郎の両眼は、雪江の細部まで見ようと瞳孔を光らせている。心の内にやけに研ぎ澄まされた塊が育ってゆく。そう感じたとき、何か影のようなものが見えた。

「岩次郎はん!」

 お松の甲高い声が響いた。

 その叫びで岩次郎は初めて自分が筆を握っていることに気が付いた。無意識のうちに、雪江の顔を写し取ろうとしていたのだろう。

 お松が睨みつけているのも岩次郎の顔ではなく、指先の絵筆だった。でありながらも、岩次郎は指を開こうとしなかった。さっき見た影。あれに接してしまっては、もう戻れないということは分かっていた。

「描かせてもらえませんか」

 やけに落ち着きながら、岩次郎は云った。 

 お松は怒気を浮かべて岩次郎を睨みつけている。

「あんさんっていうひとは・・・・・・・」

「お松さん。これは、約束だったんですよ。昔、まだ京に来たばかりの頃、雪江に絵を描いてくれって頼まれました。自分の姿を描いてくれってね。あの頃はまだ、そんな腕は無かった。だから、いずれ描くって云ったんです」

「つまり、何かい! 今なら、腕が上がって約束守れるっていうんかい。

 馬鹿な!

 そりゃ、娘がそう頼んだのも確かやろ。あんたの腕が上がったっていうのも事実や。頃合が来たから描くっていうんも、筋が通っとる。

 だがな、そんなの口実や。あんた、ようするに描きたいんや。それだけや。描けないで苦しんどるところに、たまたま娘の死に顔見て描ける気になった。だから、描こうとしているだけやないか。

 絵師がどんな大層なもんか知らんけど、そんなこと赦せるわけがなか。それじゃあ雪江があんまりにも可哀想や。あんたは、苦悩の末に絵が残るやろうがな、雪江は何も残さずに死んでゆくんやぞ。その姿を写して例え良い絵が出来たって、そんなのまともな絵やない。人の道から外れた外道の絵や!」

 人の表情だ――。

 岩次郎はそう思った。お松の怒気。岩次郎にたたき付ける感情の端々が、皺の増した五十路の顔に漲っている。

 これが写せれば、人を描くなど難しいことではないのだ。岩次郎はやけに冷静になって思った。そのまま雪江の姿を見る。お松と打って変わって、こちらは人の表情など消し去っているかのように微動だにしない。

 二つの顔を見比べながら、岩次郎は不思議になった。どうして、自分は雪江の方を描きたいのであろうか。自分でもそれが理解できない。

 そうしているうちに、お松の怒気は頂点に達したようだった。

 勢いよく立ち上がって、岩次郎を見下ろした。

 どうするだろうか。

 そう思ったとき、岩次郎の隣から静かだが力強い声が響いてきた。

「義母さん。ここは、岩次郎さんに描いてもらいましょう」

 云ったのは、矢八だった。お松が吃驚したように眼を見開いた。闇から鬼でも出てきたような顔をしている。

 矢八の憔悴は相変わらずであるが、その態度からは、先刻とは違いなにか重々しい威厳のようなものが伝わってくる。

「ここは、岩次郎さんに任せることにします。今夜は、お隣に泊めて貰いましょう」

「い、いったい何を言うんだい・・・・・・。そんな、私達が出てゆくなんて、どうして。

 な、分かるだろ。絵なんて必要ないんや。家族で見送ってやればいいんだよ。それが、一番いいんや。な、分かるやろ」

 噛んで含めるようにお松は云った。矢八は、普段はお松を立てているが、ここ一番では決して意見を変えない。ましてや、こんな場である。矢八の重みが、お松をうろたえさせている。

「義母さん。岩次郎さんの腹の底がどうであろうとかまやしないんですよ。雪江は描いて欲しかったんだ。だったら、願いを叶えてやらなくちゃいけません」

 威圧されたようにお松が項垂れた。

 岩次郎は、矢八に向かって頭を下げた。矢八はそれに気づいた様子もなく、ただ、逝こうとしている妻を見つめている。

 岩次郎は姿勢を正して、雪江に向かった。絵皿を出して水を差し、絵具を溶かす。

 良い絵を描くことだ。それが、矢八への礼であり、照への手向けでもある。


 4


 今宵が新月であったとは。

 岩次郎は、格子の入った窓から外を見つめた。

 昏い夜だ。月がないということが、これだけの闇を作り上げている。見えるものといえば、青白い凶星の輝きのみでしかない。

 だが、夜がこれほどに深いものであったとは。

 岩次郎は微かな恐怖を覚えながら、灯火に照らされた雪江の姿を見た。

 息はまだある。しかし、その息づかいはゆっくりと、それでいながら確実に弱くなってきている。先刻まではまだ病人としての態を示していた雪江の姿は、今はもうすでに半ば以上死者の領域に踏み込んでいた。

 それでありながら――岩次郎は描くことができないでいる。

 矢八達が去り、雪江と二人きりになったものの、いざ画紙を前にした時にわけのわからない不安に襲われた。描こうとする意思が強くありながら、いざ雪江の姿を写し取ろうとすると、とたんに躊躇いが脳裏に飛来する。そんなことが延々と続いている。

 深い焦慮が岩次郎を襲いはじめていた。どうして描けないのかが分からない。

 ――この場で描けないはずなどないではないか。

 岩次郎の胸にやり場のない怒りがこみ上げてくる。理不尽な。なぜ、描ける状況にありながら、自分の指は動こうとしない。

 岩次郎は瞳を閉じた。

 遠くから、夜の虫の声が聞こえてきた。その細い音色に身を委ね、夜の闇に自分を溶け込ませる。そうすることで、ようやく落ち着きを取り戻してきた。

 眼を開けて深く息を吸い込み、岩次郎は灯火を寄せた。雪江の顔を照らす。炎の紅がほのかに雪江の肌に血色を取り戻させたように思わせた。

 岩次郎は雪江の頬に触れた。脈が感じられなかった。それでも、慎重に探ってみる。微かな、本当に微かな響きが伝わってきた。人が生きるには、あまりにも弱い鼓動が死に対して最後の抵抗を試みている。

 人が死ぬ寸前というものは、こういうものなのか。黄泉路からの呼び声に応えた人間は次第に人であることから、一つの物に近づいてゆく。魂が半ば抜けた人の身体は、半分は生き物ではなく、石や土と変わらないものでしかない。

 では、人が死んだ後、その魂は天に上ってゆくのかそれとも地に沈んでゆくのか。今まで考えたこともない人の命の行方に関する疑問が、岩次郎の胸裏を満たした。

 岩次郎は縋るように絵筆を取った。

 そうしたところで、描けないことに変わりはない。だが、そうしなければ何かが吹き飛んでしまいそうだった。このどこか異様な状況の中で、絵師として大切なものを失ってしまうわけにはいかない。

 悪寒にも似た脅えに震えながら、岩次郎は顔をあげて格子窓を見た。

 そこにはいつの間にか蝉の幼虫がとまっていた。死んだかのように動かず、灯火の明かりに身を委ねている。小さく割れた背が羽化の直前であることを示していた。

 思考に膜がかかったような茫洋とした感覚を覚えながら、岩次郎は羽化の様子を眺めていた。時間の流れが計れなくなっている。長いのか短いのか分からない時が過ぎ、蝉は次第に姿を顕にしてゆく。初めは塊のようだった羽根が伸び、青と碧に透き通った身体を覆ってゆく。

 今まで多くの虫を描いてきた岩次郎であったが、いま改めて新鮮さを覚えた。これが、命が生まれるときの美しさなのだろうか。

 だが、岩次郎はすぐに違うと思った。蝉は長い年月土の中で生き、その最後に地上に出てくる。これは、蝉が死に入った瞬間なのだ。生から死へ移る狭間の時間が、このような美しさを現出させる。だからこそ、最後の刻が昇華される。

 では、人はどうなのか。

 岩次郎は、雪江を見た。

 蒼く透き通った肌。それはもう人のものとはかけ離れている。生と死の狭間に差し掛かった、幽玄とした静けさがここにはある。

 どうやら、人といえどもその最後には命を昇華させるものらしい。永遠のない泡沫な生の主であるということは、人もまた変わりはしない。

 ふと――岩次郎の指先から命の感触が消えた。

 雪江が静かにその気配を失ってゆく。一人の女が人間であることの因果から解放された瞬間だった。後には、ただ遺体のみが横たわっている。

 雪江の身体からは急速に体温が失われていった。

 それを確認しながら、岩次郎はゆっくりと手を離した。

 岩次郎は、灯火を寄せて雪江の顔を詳細に照らし上げた。穏やかな死に顔に朱が注ぐ。火明かりに浮かんだ表情がだんだんと固まってゆく。

 少しずつ何かが変わってゆくようだった。それは、岩次郎の心の中にも宿っていた。

 雪江の顔には、死の直後から凛とした静寂さを伴いながら、高貴さにも似た冷たい冴えを湛え初めていた。

 岩次郎は、画紙に一線を描いた。

 だが、次を一線を加える前に、岩次郎は無理矢理絵筆を置いた。

 岩次郎自身の魂が凝縮したように右腕に集まっている。それは、今まで絵師としての培ってきたすべてであるように思えた。

 今なら、間違いなく描けるだろう。いや、描きたいのだ。

 だが――

 岩次郎は、必死に自分を押さえながら雪江の姿を見つめた。

 この時は短い。ほんの些細な時間が過ぎれば、雪江はもう単なる薄汚い死体に変わってゆくだろう。画紙に筆を這わせている時間などない。

(だから、今は見ろ)

 岩次郎は自分に命じた。魂の中に、この絵を焼き付けるのだ。

 夜とともに、岩次郎は雪江を見つめつづけた。

 時だけが流れてゆく。



 お松が岩次郎を睨みつけている。 

 その眼が微かに涙ぐんでいる。

 口を開きかけたが、何も言わないまま、お松は部屋を出て行った。後ろ姿からは憎しみまで高まった怒りが浮かんでいる。

 暫くすると、隣の部屋から甲高い声が響いてきた。お松の声だった。

「なにが・・・・・・! なにが、描かせてくれや!」

 癇の入った声が届く。岩次郎に対する怨嗟や蔑み、自分自身に対する後悔といったものが混ざり合って煙のように立ち昇っているかのようだ。

「いったい、如何いう了見なんや。もう初七日も過ぎたってのに、まだ描こうともしないんやで。描かせてくれっていうから、娘の死に水取らせたんやないか。それを腕が追いつかなくって描けないってんならまだしも、一度も紙を広げないなんて、薄情なんてもんやないやないか!」

 岩次郎の部屋との境の壁に、何かが投げつけられた。がしゃりという割れた音がしたところを見ると、陶器のようだった。もう一つ同じ音が続いた。

 お松の怒りは、日に日に増してきている。

 無理もない。雪江が死んで、もう十日目だ。それだけの日数が経過していながら、岩次郎は未だ雪江の絵に取り掛かっていない。

 お松にしてみれば、朝には雪江の絵が出来上がっているのだと思っていたのだろう。雪江が死んだ翌日、棺桶に入れた娘を見送った後、岩次郎はお松に絵を見せてくれと云われた。当然の要求ではあったが、岩次郎は首を横に振った。お松は怪訝な顔をしたのを覚えている。

 最初はその程度だった。岩次郎の絵よりも、娘の死の方が衝撃であったろうし、通夜や葬式の中では絵などに構っている余裕もない。

 だが、雪江が土に埋まり、僧侶に初七日の経を唱えてもらってからは、岩次郎に対する怒りが頭をもたげてきたようだった。

「私が馬鹿やった・・・・・・。あんな男、さっさと追い出してしまえばよかったんや。そうすれば、雪江やってあんな人でなしに看取られて死ぬこともなかったってのに・・・・・・」

「そうそう簡単に描けるものではないのでしょう」

 矢八の声だった。お松とは対照的に、矢八は一度も岩次郎を責めることはなかった。だた、一度だけよろしくお願いしますと頭を下げただけだった。

 そんな矢八の態度が、お松の感情を逆撫でしたようだった。

「あんたのせいやで! 私は反対したんや。なのに、変に落ち着いてあんな男に雪江を任せおって。このままじゃ、雪江の後生に障るわ!」

 再び壁に向かって何かが投げつけられた。陶器ではなく、もっと重い物のようだった。壁土が埃とともに、床に落ちた。

 その時、板戸が開いた。入ってきたのは、画商の喜平だった。

「なんやしらんが、愁嘆場のようですな」

 壁に眼を遣りながら、喜平はそう云った。岩次郎を小馬鹿にしたように肩を竦め、そのまま部屋の中に上がり込み、なんの断りもなく部屋の隅にある画紙を広げた。

「案の定、何も描いておらんようですな」

 岩次郎はその言葉を無視した。

 喜平は大声を出そうとするように、大きく息を吸ったが、そのまま唾でも吐くように手にした画紙を放りなげた。

「なんでも、聞くところじゃあ、あんさん隣の女房の死に顔を描こうとしたらしいじゃないですか」

「ああ」

「いいですな。余裕があって。期日の迫ったうちの注文よりも、お遊びの絵ですか」

「遊びじゃないさ」

「じゃあ、その絵がうちの注文の絵になるってことですかな」

「・・・・・・」

 岩次郎は無言で答えた。描き上げた雪江の絵をどうするかは、考えていなかった。手元に置くか。

 岩次郎の態度を喜平は肯定に取ったらしい。それでも喜平は不機嫌そうに眼を細めた。言い訳だと思ったのだろう。

「まあ、美人絵だったら元の女が誰でもかまいませんがな。でも、そっちの方も仕上がっているようには見えませんな」

「描いてないから、当然だろうさ」

「ふん。じゃあ、残り五日で描けると仰るわけかい」

「描けるときは描ける。一晩でもな。あんたもそう云っていたろう?」

「なるほど、そう仰るほどに岩次郎はんも偉くなったってことですな。ほんの半月足らずの間に。まったく、凄いことですわ」

 嫌味を多分に含めながら、喜平は云った。

「とにかく、そんなに偉い師匠のこった。絵は仕上げてくれると信じましょ。もしこれで出来あがらなかったら、本格的にあんさんも本物の絵師や。そんな偉い人に、扇子の絵なんか描かせるわけいきませんからな。内職仕事の注文は、無かったことにしてもらうことになりましょうな」

 喜平は立ちあがった。腹の狭い男だ。岩次郎はそう思った。こんなことだから、喜平の周りには絵師が集まってこないのだ。

 肩を怒らせながら、喜平は部屋を出て行った。いつの間にか、隣家の騒動も収まっていた。お松が出て行ったからだろう。どこかに岩次郎の悪口を言いに出かけたのだ。

 喜平と入れ違うように、矢八が部屋の前を通りかかった。岩次郎に気づくと、小さく会釈をして去っていった。眼で返事を返して、岩次郎は寝転がった。

 天井が見える。

 隅の暗がりに、蜘蛛が巣を作っている。一昨日から棲みついた蜘蛛だった。巣が完成するのは早かったが、それ以来獲物がかかった様子はない。

 あの蜘蛛のように、岩次郎の胸に何かが巣食ったようだった。 

 雪江が死んだあの晩から、耐え難いまでにこみ上げてくる感情がある。

 これを恋というのであれば、そうなのだろう。

 脳裏に刻み付けた雪江の姿が常に岩次郎を責め苛むのだ。

 考えてみれば――

 岩次郎は今まで女を美しいと思ったことなどなかった。そして、女を好きになったこともない。ごく淡白な想いのみがあるだけだった。それは、生前の雪江に対しても同じだった。世話にはなった。肉親に接するような和みもある。感謝の念の深いが、かといって男として好いたわけではない。

 だが、今は焦がれている。もうどうしようもないほどに。

 それが、雪江を描かない理由だった。

 描けないのではなく、岩次郎は描かないでいるのだ。あの晩の雪江の姿は、細部に至るまで再現できる。岩次郎がここ十年間必死に培ってきた写生の腕が、この絵に関しては極端に研ぎ澄まされた形で存在していた。その力を発揮すれば、絵が出来あがる。

 だが、それに岩次郎自身が耐えられるだろうか。

 恐怖があるのだ。

 雪江の姿を再現させたときどうなるのか。

 おそらく描き始めれば、画紙の上にはあのときの雪江のすがたがそのままに写し出されてゆくことだろう。当然ながらそれが出来る自負もある。

 そうだ。思いだせる。あのわずかな時を――

 死の直後美しさはほんのわずかだった。雪江の顔は凄とした美しさを失い、黄ばんだ死体になっていった。まるで、羽化直後の透き通った蝉が、油色の羽根に固まってゆくかのようであった。岩次郎は、その仔細を深くみつづけていた。

 刹那の刻といういうのは、狭間に危ういほどに人を惹きつける力を孕んでいる。岩次郎は、その美しさに触れてしまった。

 それを描く。岩次郎の筆によって画紙の上に再現されてゆく雪江の死の姿。

 そして――どうなる。

 悪寒が走った。また、あの恐怖だ。

 駄目だ。覚えすぎているのだ。あの姿を・・・・・・

 岩次郎は怖い。描き出してしまえば、その絵は命を持つのではないか。人の死の姿を描けば、それは永遠の輪廻から離れて現世と隠り世の間をさまよいはじめるのでないか。そうすれば、雪江は自分の手の届かないところに行ってしまう。永遠に。

 愚かしいといえば、これほど馬鹿な考えもないだろう。

 絵は絵だ。命を持つはずがない。それはわかっている。岩次郎の理性はなんどもそれを告げてきている。

 だが、自分の腕がそれを赦してはくれなかった。他者から学ぶことを止め、自分自身の納得する技量を磨き、どうやら何かを掴めるようになった。それを叩き付ければ、あるいは何かが起こるかもしれない。しかも、描くのは人である。岩次郎が初めてまともに人間を描くのだ。

 唇の先を歯で刻みながら、岩次郎は天井を見つめた。ひどく細部までが見れる。自分の眼はどこか強く覚醒してしまっている。

 頭が重い。吐き気がこみ上げる。天井板の木目に酔ったような感覚だった。

 岩次郎は無理やり瞼を閉じた。遠くから蝉の声が流れてきた。


 

 月齢はすでに十六夜を迎えている。

 あの晩の新月の闇は、今は爛熟とした赤みがかった月光に変わっている。

 夏の月。風の音すらない夜の闇の中に、だた静寂のみが漂っている。

 床に画紙を広げ、岩次郎はその白い表面に映る蒼い月の光を眺めた。

 こみ上げてくる冷たい塊のような情熱を押さえて心気を溜める。

 文箱の中から絵筆を取り出し、その穂先を整える。画紙に文鎮を這わせ、微かな皺をも見つけ出しては伸ばす。

 絵皿に上に群青の岩絵具を置いて膠を継ぎ足した。

 ゆっくりと丹念に絵の具を溶いてゆく。

 次に絵具の量を変え、淡い青を作り出した。それから紺と紫。床に並んだ絵皿には、次々と冷たい色彩が出来上がってゆく。

 最後に一つ、紅を作った。

 その絵皿を床に置く。陶器の高い響きが夜に沁みてゆく。

 画紙に向く。白い。下絵すらない。

 当然だろう。下手に下絵など描いてしまえば、自分の内の蓄えられているものが散ってしまうに違いない。

 機会は一度。

 その時を今宵と決めた。今、長年育ててきた絵師としての魂魄を注ぎ込む。

 細筆を取った。

 墨に筆に含ませる。黒が闇に溶け込む。

 輪郭の一線を描いた。

 もう後に戻ることはできない。



 絵を見るなり、喜平はひどく困ったような表情を浮かべた。

 この男にしては珍しく答に窮している。何度か口を開きかけては、そのたびに躊躇している。ただ、眼は絵から離れようはしなかった。

「なんと云いますか、だいぶ意表を突かれましたな」

 愚にもつかない感想を云いながら、喜平は一息ついた。

「まあ、本当に一晩で描きあげたってのも、驚きなんやけど」

 喜平は昨日も岩次郎に絵の催促に来ていた。いや、催促というより単に嫌味を云いに来たのだ。なのに翌日には、絵が出来上がっていた。岩次郎が一晩で描いたからだが、それが喜平には信じられない様子だった。

 だが、岩次郎にしてみれば、喜平のために描いたのではない。というより、喜平の注文などもう眼中に無かった。たまたま、喜平の注文の最終日だっただけである。

 喜平が見ているのは、当然雪江の姿である。

 やっと出来上がった。その想いが強い。

 壁に寄りかかる。徹夜と昂ぶったまま精神のため、極端に疲れていた。

 喜平はまだ、凝っと絵を見ている。そして、難しい顔をして鈍く唸った。

「しかし、まさか美人画に幽霊を描かれるとは思いもしませんでしたわ」

「女だよ。幽霊じゃない」

 岩次郎は即座に否定した。だが、喜平は納得がいかないようだった。

「でも、幽霊でしょう。経帷子を着ているし、血の気ってもんがまったくないじゃありませんか。どう工夫したかって、生きている女には見えまんわ」

「そんなことは分かっているよ」

「だいいち、足がありませんわ。これで、幽霊じゃないってのは・・・・・・」

 そこまで言って、喜平は口を閉じた。

 岩次郎が話を聞かずに、外を眺めているのに気が付いたからだろう。過ぎかけた盛夏の陽射しは、だいぶ和らいできている。

「しかし、どうしましょうかなあ・・・・・・」

 ひどく悩みながら、喜平は呟いた。

「何がだ?」

「いえ、この絵ですが、さすがに美人画というには無理があると思いましてな」

「なんだ、そのことか」

 岩次郎は気の無い返事を返した。まだ、勘違いしている。だが、岩次郎は否定しなかった。それでもいいかと思ったからだ。最初は、自分の手元に置いておこうと考えていたのだが、こうして描きあげてみるとどちらでもいい気分になっている。

「で、どうする。別に持っていっても構わないし、今度の話はご破算にしてもいい」

 岩次郎は云った。喜平は、ばつが悪そうに愛想笑いを浮かべた。

「さすがに、今回は注文と違いすぎますからな。もうしわけありませんが」

「ああ、わかった」

「すみませんな。せっかく描いてもらったのに」

「だから、わかった」

 どうでもいいのだ。あれほど執着していた依頼であるが、今はもう本当にどうでもよくなっていた。

 そもそも、岩次郎には人は描けない。いや、生きている人間はと云った方がいいか。

 生きた人間というのは、やたらと表情を変化させ、その心の内を表に現してゆく。それを写し取ることが、岩次郎にはできない。というか、好きではない。好きではないだけに、上手くもならないだろう。

 それがわかってしまったのだ。

 死の直後の女に恋焦がれるのであるから、生きている人間など描けるはずもないのだ。技術で補える部分はあろうが、所詮はそこまでしかいかないだろう。

「まあ、そう気い悪くなさらんでくださいな」

「そんなことは無いさ」

「いや、今回は実のところ、今他の師匠の代役をお願いしていたんですわ。

 そういう事情がありましてな、さすがに向こうさんの意向と違いすぎるものは収められませんのです。申し訳ないですが、そこんとこ汲んでくださいな」

「注文と違うくらいは理解している。美人を描いたが、生きている人間じゃないからな。普通の人間は死体になんか興味はないさ」

「いや、本当に申し訳ない。この通りですわ」

 やけに喜平が絡んでくる。岩次郎は怪訝に思った。

 喜平が一つ咳払いをして、言葉を改めた。

「で話は変わりますが、一つ相談ですわ。幽霊画っていうことで、こういうのを幾つか描いてみるっていう気はありませんかな?

 この種のものが好きな旦那衆も結構多いですからな。この絵も、喜びそうな方を知っておりますよ。そこに持っていけば――

 どうでしょ? 評判になること請け合いですよ。今までの幽霊画なんか、この絵に比べれば、どうってことありませんわ。

 特に、この足のないところがなんとも迫力がありますわ。

 なんというか、今にも虚空に消えてしまいそうで・・・・・・」

 馬鹿なことを言うな。

 岩次郎をそう心の中で毒づいた。

 逆だ。

 消えてしまっては困るではないか。岩次郎が雪江の足を描かなかったのは、絵の中から逃げ出させないためだ。下手に足など描いてしまったら、命を得た時、どこへでも歩いていってしまう。

 そんなことも分からないのか。岩次郎はそう言いたかったが止めた。狂人と思われるだけだろうし、だいいち喜平ごときに教えてやるのも業腹だ。

「どうです、師匠。幽霊画で売り出すっていうのも、悪くないと思いますがね」

 勝手に皮算用をする喜平を、岩次郎は横目で睨みつけた。

「これは美人画だ。幽霊画じゃない」

 岩次郎は絵を軸に巻きつけて、眼を閉じて合掌した。

 遠くから法師蝉が晩夏を告げていた。



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