最終話 命
「お命を頂戴したい。」
これ以上の言葉はなかった。
会社としての断固たる意志、行方不明者の安否、家族たちが受け入れなければならない現実。そのすべてを、この一言が表していた。
熊野社長につかみかかっていた老人は両手を離し、床に膝をついた。
「もう助けることができないなら、早く家族のもとへ返してくれ…。頼む…。」
もはや、叫び声も怒鳴り声も起こることはなく、静かにすすり泣く音だけがあちこちから聞こえるだけだった。
そして、熊野社長も何かを覚悟したような表情をしていた。
翌日、炭鉱会社の幹部たちが手分けして、行方不明者の家族宅をまわり、坑内を水没させることへの同意書に印鑑を押してもらうこととなった。
しかし、すべての家族が簡単に印鑑を押してくれるわけではなかった。
ある者は泣き叫び、ある者は怒鳴り散らし、訪ねてきた幹部に湯呑を投げつける者までいた。
それでも必死に頭を下げ同意を求める幹部の姿を前にして、最後には震える手で名前を書き、泣きながら印鑑を押した。
利根の家には副社長の鈴谷が訪ねてきた。
鈴谷は昨日と同じ説明を繰り返していたが、民子は涙ひとつ見せずに聞いていた。
床に頭を擦りつけながら、鈴谷は同意書を民子の前へ差し出した。
それは同意書などではない。
「見殺し承諾書」だ。
民子は黙って名前を書き、そして、印鑑を押した。夫との永遠の別れ、夫の命を差し出すことを受け入れたのだ。
印鑑を押した後、民子は何も言わずに目を閉じた。それが1分か2分か続いたであろうか、ゆっくりと目を開けた民子は鈴谷に声をかけて頭を下げた。
「このたびは、お世話になります。よろしくお願いします。」
この言葉は鈴谷の心に深く突き刺さった。
「ありがとうございます。こちらこそ、ご迷惑をおかけします。」
鈴谷はこう言いながら、あふれそうになる涙を必死にこらえた。
今、自分が泣いてどうする、泣く前にやるべきことがあるはずだ。
すべての者が己の尊厳をかけて戦っていた。
泣き叫ぶ妻たちが大勢いる中、民子だけは必死に涙をこらえ「生」への希望を持とうとしていた。しかし、それが絶たれた今、夫の最期を静かに見守りたい、夫に代わって息子を守らなければならない、その一念だけで何とか踏みとどまっているのだ。
そうは言っても民子も人の子、彼女の目は明らかに泣き腫らした目だ。人前では泣かずとも、夜に子どもが眠りについた後、涙があふれ、声を殺して泣いていたに違いない。
川の水が坑内へ引かれる準備が整った。
献花台に社長、幹部、町長らが花を供えた。
「注水開始。」
指示を出す鈴谷の声とともに、川の水が坑内へ注がれ始め、町の中ではすべてのサイレンが鳴りだした。それだけではない、寺の鐘までもが鳴っている。
地底に残された者たちへの永遠の別れを告げるサイレン、永遠の別れを告げる鐘の音。
すべての町民が仕事の手を休め、黙祷を捧げた。炭住だけではない、役場、商店、工場、学校、そこにいるすべての者が目を閉じていた。
人間だけではない、命を持つすべてのものたち、飼い犬や鳥までもが何かを感じ取ったのか、鳴き声ひとつせず、サイレンと鐘の音だけが響き渡っていた。
坑内はまさに静寂そのものだった。明かりもない、音もしない、そして生命の気配もしない。
息絶えた多くの炭鉱夫たちが横たわっているだけだ。
自分たちが生きていることを知らせようと、最後の力を振り絞って配管を叩こうとしたのか、ハンマーを握ったまま息絶えた者。
熱さに耐えかねたのか、服を脱ぎ捨て裸になっている者。
遺書をしたためた紙を握りしめた者。
そこへ静かに水が流れ込んできた。
地面に突っ伏した利根の顔に水が触れた瞬間、かすかに動いたようにみえた。いや、そんなはずはない、錯覚だったのか。
諦めることなく最後まで戦い抜いた炭鉱夫たちを少しずつ水が吞み込んでいく。炎に追われ灼熱地獄に苦しんだ彼らが待ち望んだ水だ。しかし、今となっては、彼らの無念を洗い流す水となってしまった。
あまりにも残酷な、そして、あまりにも無情な水の流れ。
会社事務所にある社長室へ戻った熊野は、机の引き出しから小瓶を取り出した。
机の上には、新炭鉱の開鉱式典での写真が置いてあった。
そこには、多くの炭鉱夫に囲まれ、真面の笑みを浮かべている彼の姿があった。
どうしてこんなことになってしまったのか、どこで道を間違えたのか、ほかに選択肢はなかったのか…。
コンコン。
鈴谷が社長室のドアをノックしたが、反応はなかった。
不審に思った鈴谷はゆっくりとドアを開けたのだが、そこには変わり果てた熊野の姿があった。
彼は椅子の上で息絶えていた。
「社長…。どうして…、どうしてなんですか。」
机の上には、炭鉱夫たちとともに映った写真と一枚の紙が置かれていた。
そこには、熊野の最後の言葉が記されていた。
「彼らだけを死なせるわけにはいかない。彼らに会って謝らなければならない。鈴谷君、あとのことは頼む。」
「社長、あなたは覚悟を決めていたのですね。お命を頂戴したいと言ったときに、全てを決めていたのですね。」
「しかし、我々には、残された家族のためにやるべきことがあるはずです。石を投げられ、唾を吐きかけられようとも、やるべきことがあるはずです。それなのに、どうして…。」
それから半年後、最後の炭鉱夫が家族のもとへ帰った。
あまりにも遅い、そして無言の帰宅だった。
新炭鉱も復旧されることはなく、閉山することとなった。
鈴谷は残された家族に対しできる限りの補償をしようと、お金の工面や家族の就職先の手配のため、東奔西走する日々が続いた。
夫や父を失った家族は、新たなる仕事や生活の場を求め、ひっそりと町を去っていった。
民子も鈴谷の紹介により、東京で職を得ることができ、一郎を連れて引っ越す準備をしていた。
そこへ、鈴谷が訪ねてきた。
「民子さん、このたびはご迷惑をおかけしました。東京へ行かれてもお元気で。」
「私の方こそ、お世話になりました。それと、鈴谷さんは、これからどうされるのですか。」
「閉山の作業が終わったら、次の仕事を探します。会社には辞表を出しました。」
どこか迷いの吹っ切れたような鈴谷の顔を見て、民子はほんの少しだが安堵感を覚えた。
そして、鈴谷にこんなことを尋ねるのだった。
「閉山すると坑口はどうなるのですか?」
「コンクリートで塞ぐ予定です。」
それを聞いた民子は、鈴谷の顔を見据え、真剣な表情でこう言うのであった。
「コンクリートで塞ぐことだけは、ご勘弁願います。せめて…、空気が…、空気が通るようにしていただけませんか。」
涙声で話す民子に、鈴谷は真剣な眼差しを向けて答えた。
「承知しました。」
それからほどなくして、新炭鉱は閉じられた。
訪れる者もなく山中にたたずむ坑口は、鉄格子により閉鎖されている。
「空気が通るように。」という、せめてもの願いを叶えるために。
「完」
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上郷 葵