明日は、自殺する。
今日、自殺する。
全てが嫌になった。こんな箱庭のような高校生活ですら、人間関係という物がいかに煩わしい事か、俺は理解してしまった。努力はした。入学して一年間、人の言葉の裏を読み、したくもない作り笑いを浮かべて、陰キャとリア充の間の中途半端な位置でフラフラしていたが、それにも、もううんざりだ。だって考えてみろよ、これから先、大学、社会、職場と、この嘘と欺瞞に満ちた関係が、否が応でもついて回るのだ。それが、年を追うごとに膨れ上がって、あと五十年近く続くのかと思うと眩暈がする。
日数にして一万八千二百五十日、俺が定年で孤独になれるまでの時間。この事実に絶望を感じない人間がいるだろうか。
あぁ……引きこもりになれるだけの精神力があればなぁとも思ったが、やはり親の目が厳しいというか、人間の哀れみのこもった、あの視線が俺は嫌いだ、ならもう死ぬしかないという事だ。
□
そんなわけで、俺の計画は完璧だった。
この退屈で、糞ったれで、しみったれた六時限目の古典の授業が終わって、もう全く無関心な有象無象が教室から居なくなり下校した後、どこぞの馬鹿教師が煙草を吸うためだけに使用している校舎の屋上まで駆け上がり、あの邪魔な金網をよじ登って、縁から夕陽に向かって飛び込む。
窓辺の席から見える向かいの屋上は、五月の弛緩した日差しをうけて鈍く輝いている。この時期は自殺が多いんだけっなぁ、自分がそういう立場になって初めて、妙に納得してしまった。こんな良い天気で高いところに上ったら、誰だって飛び降りてみるだろう。イケる気がするもんな。もしかしたら全然痛くないかもしれないし。
このカリカリとノートにペンを走らせる規則正しい耳障りな音が終るのが楽しみだ。
□
屋上に着くまでは、我ながら上手くいった。
道のりで、大学受験を控え死んだような顔をした三年生には奇跡的に合わなかったし、小高い丘の上に建てられた校舎の屋上は、夕陽に沈む町を隅々まで見渡せて、これから死のうというのに気分が良い。
唯一の問題があるとすれば、屋上に先客がいたこと。
後ろ姿からでも、分かる。
――北村沙座美、とびっきりのヤバい奴。
学業優秀、才色兼備、品行方正の完璧超人。四月にクラスメイトとなってからの一ヵ月で、教室の全てを……いや、こいつは一学年から全てを掌握していた。整った顔に柔和な笑顔で教師からも生徒からも信頼され、愛されて、欠けた部分がない。全てに好かれていると言っていい。
無論、俺も嫌いではないが、その一切が規格外な存在だからなのか、俺には同じ人間に思えなかった。
そんな怪物が、何故か俺より先に縁に立ち、黒い長髪を靡かせながら、夕陽を眺めていた。
異常事態だが、この無常優紀には、もう他人が何を考えているかなど、気にする余裕はないし、するつもりもない。まして相手が、あの完璧超人。俺に何が分かるって話だ。
そういう訳なので、俺は当初の計画通り、北村を無視してづけづけと金網をよじ登り縁に並び立つことにした。ガチャガチャと俺が聞き苦しい音をたてている間も、北村は一瞥もくれずに佇んでいる。本当に生きているのか、こいつは? 冷たい目線も相まって氷の彫像の様に見える。
――気まずい沈黙。
なのだろうか?相手に認識すらされて無いのだが。
しかしまぁ、とっとと飛び降りればそれまでなのだが、いざ縁に立ち最後の瞬間、と思うと無駄に思考が回ってしまう。
それも全て、北村の存在が原因だ。そもそもなんで、屋上にいる? 高校生活において屋上なんて煙草吹かすか……いや、俺は吹かさないが。あとは、自殺するかの二択の場所だぞ? まぁ、北村は煙草なんて吸わなそうだしなぁ……ん? つまり、消去法で北村も自殺するためにここにいるって事か? これは俺のほうが、悪い事をしたのかもしれない。まさか自殺日が被ってしまうとは……。ここは日本人らしく、北村が先に飛び降りるまで待つべきか?
――あぁ、やはり死ぬ直前まで他人の事を考えなければならないとは、やっぱ人生は糞だわ。
「五月蠅いのだけど……」
流石は怪物、俺の思考すら、顔も見ずに読み取る事が出来るのか! 俺にもそんな能力があれば良かったなぁ! ……いやダメだな、相手の本心が分かるなんて俺にとっては、ただの恐怖でしかない。高校デビューの根暗糞陰キャオタクと思われてそうだ。実際そうだけど。
「根暗糞陰キャオタクの無常君、五月蠅い」
「あっ、はい」
どうしよう。あの、北村に全て聞かれていた。
いやいいか、飛び降りれば。いざさらば。五月はもう日が長い、まだ太陽は沈まない。
「ちょい待ち!死ぬ前に私の話を聞きなさい。いや、聞け」
女子に、腕を掴まれたのは母親を除けば君が初めてだよ、という言葉を口から漏らしたら離されそうなのでやめました。……手が熱いな。手汗か?北村にも体温があった事に驚きだ。
「その、ちょいちょい気持ち悪い思考を漏らすの、やめて貰えるかしら……。とりあえず、屋上に戻りなさい」
金網をよじ登る北村、あっパンツ見えそう。
「あなた、本当に死ぬ気あるの?」
ゴミを見るように、金網の上から文字通り見下された。
「今は八割位かな。美少女のパンツで元気出てきた」
俺は、もう死ぬ気でいたから、あの北村にだって何でも口走れるのだ。今怖いものは飛行機くらいかな。特攻野郎なのだ。
しかし、二割も生きる気力を取り戻せるなんて凄いよな、美少女のパンツ。次回は是非、無機物に生まれたいと思っていたところだし、パンツで決定。
北村の「安っい命ね」という呟きが心を抉ったぜ。
□
――不味い。
屋上の中心に戻り冷静になって見れば、夕焼けの放課後に女子と二人っきりというシチュエーション。
金網に寄りかかって隣同士。
恋の予感がする! しかし、悲しいかな俺にそんな感情求められて困る、一番分からないものだ。
「……あなたには、何も求めてないから。とにかく、今から私の話を心を空にして聞きなさい。そしてまるで塹壕の中で同じ釜の飯を食べ合って生き残った戦友のように相槌うつのよ」
金網を軋ませて、その勢いで俺の横から正面に移動した北村の目つきはやたら鋭い。というか怖い、顔が近い。胸も近い。自殺するよりドキドキするんですが。
鬼気迫るというか、ここまで言われたら付き合うしか無い。目線を合わせて無言の肯定。
「同じクラスのエリカって、化粧の濃い女がいるわよね」
「南野エリカ?」
イケイケな感じの、如何にも高校内の上澄みって感じのグループの女。北村とは完全にタイプが違うが、仲良さそうに毎日喋っているのを見かけた事がある。
「そうそれよ。毎日毎日聞いても無い、学校内の恋バナ連発で、サッカー部のスカした安藤とかいうのが私に告白してきたのを……もちろん振ったわ。それを内心気に喰わないと思っていて、私が南野の本命の安村にもしかして気があるんじゃないかとか、糞どうでもいい事を聞き出そうとしてくる南野ってマジでウザいわよね?」
絶句した。あの、柔和な笑顔は全て噓だったのだ。
でも良かったよ。怪物の北村なんて、存在しないのだ。
「相槌は?」
近いよ。
「糞ですね!」
心を無にしろ。
「そう、糞ね。あと取り巻きの沢尻と菊池。あの二人も最悪。机の近くで囀らないで欲しいわ。私を利用した示威行為ね。はぁ、どいつこいつも上辺を取り繕って話しかけてくるか、勝手に壁を作るかの二択で、最低の人間関係だわ」
これが人間の闇か。ぶっちぎりで、校内人間力最高の北村ですら、もう、絶望しているのならすぐ飛び降りるしかない。けど、俺とは決定的に違うんだよなぁ。
「でもお前は、美人だし頭もいいし、全てを持ってるんだから正直にやってみればいいだけじゃないか?」
「無常君……」
相変わらず、近い顔から同情とも憐みともとれない表情。
わっ……分からない。北村という生物が。
「美人で、頭の良いのは事実だから良いとしても、あとのアドバイスは、控えめに言って糞ね。無常君には分からないでしょうけど、私みたいなこの世界の上澄みは、否が応でも、人間関係に組み込まれてしまうのよ。 ほっとかれないからね。 それでも、言いたい事を言えば良いと思うでしょ? でも、実力の圧倒的な人間に否定されたら、逃げ道が無いからなのかしらね。厄介な敵になってしまうか、悪くて不登校――」
「最悪、自殺ね」
最後の言葉には、妙に感情がこもっていたように思う。
もう徐々に日が陰る。何となく夜には自殺がしたくない。完全に負けたって、気分になるから。やるなら昼と夜の間の、中途半端な、夕闇が良い。
「北村は、優しいんだな。俺はもう本質的に人間が嫌いだからさ。そんなに、他人を考えて生きている事がなんか羨ましい」
心にも無い事だ。羨ましくなんか、ない。
屋上に居たのは、やっぱり自殺するつもりだったんだろう。
でも、北村はまだ生きていたほうが良い気がする。少なくとも、俺よりは。
長い沈黙。こんなに真面目な顔で、人間と対峙した事は無い。普通なら気恥ずかしい。
どちらも、目を逸らさないこの時間は、俺も北村も真剣だと分かる。俺は、そう思う。
□
先に動き出したのは北村だった。視線を外して、扉の方に振り返る。
もう僅かな光を浴びて輝く黒髪が綺麗だと思った。
「……私は、相槌をうつだけと言ったのだけど、今日は特別に、許してあげるわ」
ゆっ、許された。
「本音で喋ってスッキリした。……ありがと」
振り向いた北村は、あの柔和な笑顔では無かった。
言葉は全く、ぶっきらぼうで教室より目つきが悪くて微妙に瞳が潤んでいて。
「まだまだ、吐き出したい話題はあるのだけど、今日はお開きね」
今日は。
「明日もあるの!?」
聞いてませんよ、北村さん。
「当然でしょ? 人間の感情はね、毎日毎日掃きだめの汚物のように溜まっていくものなのよ?排泄しなければならないの」
例えが汚過ぎる。そして、俺は便所か。
「あと……」
少しうつむいた、北村の表情は見えない。
「明日からは、名前で呼びなさい。その方が、より没入感を得られるから。心を込めてね、設定は親友なのだから」
あの例えなら、戦友の間違いでは?と言いかけて止めた。声色が真剣だったから。
「沙座美」
「美人な、を付けなさい」
「……美人な沙座美」
真顔以外で呼ぶと殴られそうなので、努めて平静を装い名前を呼んでみる。
「……良い。そんな感じで頼むわ。じゃあね、明日もまた屋上で」
ガバッと髪をかき上げて、手をあげて屋上から去っていく後ろ姿は、自信に満ちていた。
……やっぱり、北村は分からないな。
あーあ、すっかり日が暮れた。今から死ぬのも間抜けすぎる。……俺も帰るか。
□
校舎内には、もう殆ど生徒は残っていなかった。自習室にこもってる奴らくらいかな。玄関から外に出れば、グラウンドでは、投光器に照らし出された運動部達が、己の鬱屈とした感情を発散するかのように激しく動き回っている。……これは、俺の偏見かな。
――すっかり、現実に戻ってきてしまった。
だけど、俺の駅に向かう足取りは軽い。
久しぶりに、人間の本心を覗いたからだ、みんな、実は辛いのかもな。俺は北村と、本音で話せるあの時間が続く内は自殺をやめようと思う。でも、きっと関係は一時的な物だろうし。別に、死のうとしている俺を救おうとした訳じゃなく、感情の捌け口を求めただけなのも分かってる。いつかは、終わる。
しかし、本当に北村は屋上に来るのだろうか?
もし来たとしても、それはどのくらい続くのだろうか? 数日で終わるかもしれない。
……まぁ寿命みたいなもんか。
屋上に誰も来なくなったら、自殺する事にしよう。
少なくとも、一人くらい救えたら、俺の人間関係は合格だ。
とりあえず、覚悟は決めておこうかな。
明日は、自殺する覚悟を。