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天国からの手紙

作者: 由利 紫苑

学生時代に書き上げた短編小説です。


気に入っていただけたら幸いです。

天国からの手紙





「突然のお手紙申し訳ございません。あなたの手紙を受け取ってから数日間、考えた末、あなたに手紙を書きます。手紙を人に書くという経験がほとんどないため、どのように書けばいいのかわかりませんが、それでも手紙を書こうと思いました。あなたは今どうしていますか?御迷惑でなければ、お返事をいただけたらと思います。

二月二十五日」




 その手紙が最初に届いたのは春の中頃であった。大学を卒業し、就職してから一年が経過しようとしていた。差出人の名前に心当たりはまったくなかったが、手紙が届いた理由は分かった。

五年前、当時県内でも有数の進学校に通っていた私は、進路で父と言い争いになった。父は医者であった。当然私も医者になるよう進路を選んでいたのだが、受験の数日前に進路を変えた。父はそれに激怒し、以来口を利いていない。大学に入学してから、実家に帰ることは一度もなかった。父との連絡は完全に途絶え、学費もバイトをして自分で稼いだ。私には世間一般が想像する、華やかな大学生活とは無縁で、印象に残るような出来事はほとんどなかった。何か目標を持つでもなく、ただバイトに明け暮れて時を過ごした。大学を卒業し、印刷会社に就職してからも目標など特になく、日々を浪費していた。

就職してから最初の夏、私は上司と共に出張で幼少期を過ごした県へ赴いた。フェリーで海を渡る際、かつて住んでいた街が見えた。学校の校舎が山のふもとに見え、父が働く病院も見えた。私は無性に故郷が恋しくなった。父母と会いたくなった。しかし、今の私にはどうすることもできなかった。今さら父と会って何を言えばいいのか分からない。だから私は手紙を書いた。住所と氏名、「手紙をください」という文章を付け加え、空のペットボトルにそれを入れ、海に投げ込んだ。それが父や母に届くはずもなかったが、自分の書いた手紙があの街に届くように願った。

驚いたことに、あれから一か月も経たぬうちに手紙が届いた。まず目に留まったのは、「敦賀市」であった。故郷とも言うべき街の名前から、山の風景や街並み、空気の味までも想い出すことができた。差出人の名前を見ると、「八雲楓」とあった。当然聞き覚えのない名前である。

名前から読み取れるのは、相手が女性であること。文字、文体から読み取れるのは、おばさんではなく、若い女性のようである。私は再度手紙を読み返すと、心を決めた。玄関のドアを勢いよく開けると、近くのコンビニに向かって歩きだした。

コンビニで便箋と封筒を購入した。私が受け取ったあの手紙のような、かわいらしい便箋も封筒も、残念ながら近くのコンビニには売っていなかった。もし次回があるなら、デパートなどの文房具コーナーを見て回り、もう少し華やかな便箋と封筒を買おうと思った。

自宅にもどり、いざ真新しい便箋を目の前にすると、何から書けばいいのか分からなくなる。思い返してみると、私は手紙を書く経験がほとんどないことに気づいた。それでも書いてみようと思い、ペンを手に取り文字を綴り始める。




「お手紙ありがとうございました。私は元気に日々を送っています。充実しているとは言い難いですが、毎日忙しくそれすら考える余裕もないほどです。私にとっては幸いです。こちらはだんだんと暖かくなってきました。そろそろ桜の蕾も開きそうです。そちらはどうですか?よろしければ、またお手紙をいただけたらうれしいです。

三月六日」




短い文を書き終わると、一息吐いて読み返した。どこかぎこちなく、歪であったが書きたいことは書くことができた。返事が来るかどうかわからなかったが、知らない女性と文通するのに、少し不思議な気持ちになった。



 

一週間と二日後、二通目の手紙が届いた。



「お手紙ありがとうございます。こちらも少しずつですが、ポカポカと暖かくなってきました。桜もそろそろ咲くそうなのですが、私のいる所からは見ることができません。それが少し残念です。それでも、暖かい風と太陽の光が降り注ぐ春は、四季の中で一番好きです。あなたが四季の中で一番好きなのはどの季節ですか?お返事お待ちしております。

三月一十日」

 



 前回考え手いたとおり、デパートへ便箋と封筒を買いに出かけた。休日にデパートへ行くというのは、これまでには無かった事である。文房具コーナーには多数の便箋や封筒があったが、受け取った便箋が春を現した華やかなものであったため、私も春らしい便箋にしようと思った。便箋を選ぶのは初めてのことである。前回使った真っ白い紙に、ただ黒い線が引かれただけのものではなく、全体的に薄いピンク基調で四隅に桜が咲いているものを選んだ。

 帰り道、桜の木の下を通ると目の前を花びらが横切った。何気なしに桜を見上げると、よい考えが浮かんだ。




「私の一番好きな季節は冬です。粉雪で覆われた地面と、降り注ぐ雪を照らすライトの光がとても美しく、幻想的で見飽きることがないからです。幼いころは、よく雪だるまやかまくらを父と作りました。

 ところで、桜の花もう咲いているようです。今日、家の近くを歩いていると、桜の花びらが舞い降りてきました。その光景は冬の空から舞い降りる粉雪のようでもありました。私も春がこれまで以上に好きになりました。手を伸ばせば桜の花びらを取ることができました。そこで、桜の花びらを同封しておきます。本当はピンクの花びらを送りたかったのですが、私の家の近くにあるのは、白色の桜しかありませんでした。気にいってもらえると嬉しいです。

三月一十六日」




「桜の花びらありがとうございます。とても嬉しかったです。綺麗な色の花びらから、春を感じることができました。私は散歩の最中に見つけたタンポポを押し花にして同封しておきます。私はタンポポが大好きです。太陽をイメージする形と、明るい色、そして精一杯生きているしぐさがかわいいです。

 タンポポの花言葉を知っていますか?タンポポの花言葉は『真心の愛』です。

 桜の花言葉を知っていますか?あなたが贈ってくれた桜の種類を調べてみると、ヤマザクラでした。ヤマザクラの花言葉は『あなたにほほえむ』です。まるで優しいあなたを現しているようでした。

 これからもお手紙楽しみにしています。

三月二十二日」




 次第に手紙の枚数も増えていった。今では日記のように日常の出来事を綴り、お互いのことをよく知ることができた。

 彼女からの手紙は、ほとんど外の世界のことが書かれていないことに気がついた。書かれることもあったが、そこから読み取れる景色は常に同じ風景であるように思えた。

 私は彼女からの手紙を何度も読み返した。会社でミスしたとき、疲れて家に帰ったとき、彼女からの手紙が私を癒してくれた。気がついたときには、彼女からの手紙は私の生活の一部になっていた。




「お元気ですか?私は少し風邪を拗らせています。季節はずれで、軽い風邪ですが念のため安静にしています。

最近、私は生け花を始めました。きっかけはあなたに送った押し花です。花は人を元気にします。それを知ったから、私は生け花をしてみようと思いました。まだまだよくわからないけれど、花の匂いを吸い、鮮やかな色彩を見ていると、心が休まる気がします。今は春なので、菫を生けてみました。一番良い出来の花を送ります。お部屋に飾ってみてください。

四月十三日」




「生け花ありがとうございました。飾り気のない私の部屋も花の香りで満たされ、季節を感じることができるようになりました。花はいいものですね。疲れて家に帰ったとき、花を見ると心が休まります。本当にありがとうございました。

 私は先日、月を見ました。その日は一段と大きく見えました。これは私の錯覚でしょうか?それでもいいと思います。綺麗で大きい月を見ることができたのだから。

 仕事でミスをしてしまいました。すぐに修正すれば問題ないのですが、なぜ課長はあんなに怒鳴り散らすのでしょう?怒鳴っている間の時間がもったいないと思います。どうでもいいことなのですが、課長はなぜかいつも飴玉かガムを口に含んでいます。正直に言って甘ったるいのでやめてもらいたいなと思っています。

 学校も新学期が始まったようです。すれ違う学生の中には、初々しい顔をしている人もいました。どこか楽しそうな様子で、これからの未来は希望に満ち溢れているように思えました。けれど、自分のことを考えると苦しくなります。私は毎日をしっかり生きているのだろうか?充実しているのだろうか?そんな疑問を解消するために、私は一つの目標を打ち立てました。「毎日を精一杯過ごすこと」です。今日できることは今日してしまう。それが今の私の目標です。

四月十八日」




 私は彼女からの手紙を待ち焦がれるようになっていた。それは恋に似た感情である。そうだとするなら、彼女への恋なのだろうか?それとも、彼女からの手紙への恋なのだろうか?私にとってはどちらでもよかった。ただ、自分が彼女の手紙を読み、手紙を書くという行為により誰かと繋がっている、誰かと共有しているという感覚が私の心に平穏をもたらしていた。



 だから、それだけで良かった。




「こんにちは。私の生け花を気に入ってもらえてとても嬉しいです。もし御迷惑でなければ、これからもあなたへ上手にできたものを送りたいと思っています。

 あなたの目標を聞いて、私は一つ思ったことがあります。精一杯過ごすことはとても良いことですが、無理をしないように気を付けてください。基本は体です。健康が一番です。なので、無理はしないようにお願いします。

 課長さんがあなたを怒るのは、あなたのためを思ってのことではないでしょうか?きっとあなたに期待しているのだと思います。ですが、いつも飴やガムを食べているのはどうなのでしょうね?私はこの文を読んで少し笑ってしまいました。私も飴玉など、甘いお菓子は好きです。でも、いつも口に入れておくわけにはいきません。口の中がベタベタになるから。そんなとき冷たい空気を吸いこむと、とても美味しい空気を味わうことができますよ。お勧めはリンゴ味です。

四月二十四日」



 

 手紙が彼女へ届くのは早くても4日後である。自分が感じたもの、書いたもの、伝えたいものはすべて4日前のことである。返事が届くのもさらに4日後、あるいはそれ以上の日数が必要となる。もどかしかった。それでも私は手紙というものに感謝している。手紙は筆跡などにより相手の感情が少しだけ伝わってくるからだ。電子メールなら、その場のやり取りも可能だろう。けれど、不思議と彼女も電子メールという考えを持っていないようだった。私たちは手紙で出会い、手紙で相手のことを知る。手紙だけが私たちの繋がりだった。




「こちらでは最近雨が続いています。そちらは大丈夫ですか?私は雨が嫌いです。雨は空の涙かもしれません。何か悲しいことがあって泣いている。私にはそう思えてなりません。空を慰めてあげる方法はあるのでしょうか?私にも慰めてあげることができるでしょうか?私はいつも考えています。

 雨というものは不思議ですね。飴と同じ読み方をするのですが、甘くもおいしくもありません。当然ですね。けれど、花にとっては飴玉と同じくらいおいしいものかもしれません。そう思うと私も少しは雨が好きになれそうです。

五月二日」




「こちらも雨が続いています。私も雨が嫌いです。雨は私の交通手段を奪います。濡れた道路では、原動付き自転車で走ると、転倒の恐れがあるからです。朝に弱い私にとって、込んだバスに乗るのはとても耐えられるものではありません。

 あなたが私に尋ねた空を慰める方法ですが、てるてる坊主がそうではないでしょうか?空を元気付けるために作るもの、あるいは笑わせるためのものではないでしょうか?私はためしにてるてる坊主を作ってみました。これで雨が止むことを祈るばかりです。あなたのところにも、私が作ったてるてる坊主を飾ってくれませんか?効果は補償できませんが、よろしければどうぞ。

五月七日」




 彼女から届く手紙の間隔が長くなった。それでも私は毎日楽しみにポストを覗いた。手紙を見つけたときは、嬉しさと同時に安堵する。私は彼女から返事が来なくなるのが怖かったのだ。




「てるてる坊主ありがとうございました。すごく可愛らしくて、今では私のお気に入りです。彼は今、カーテンのレールにつるしてあります。彼はそこから外を眺め、何を考えているのでしょうか?私は毎日彼を眺めて過ごしています。不思議なことに、毎日違った表情を見せるのですよ。彼が悲しそうだと、雨が降ります。楽しそうで元気だとよく晴れた暖かな日になります。きっと、彼が元気の時は空を慰めているのでしょうね。私は、彼が少しでも笑っていられるように話しかけています。

五月十五日」




 彼女の筆跡が変わったことに気づいたのは春と夏の境目、じめじめした梅雨の季節のことだった。筆跡はより洗練されたものになった。それでも文体や言葉遣いは彼女自身のものであった。だから私は、あまり気に留めなかった。




「梅雨の季節は一段と雨の日が多くなります。それでも時折、お日さまが顔を出し、辺りを優しく照らします。私はそんな中、空を見上げて鳥を眺めます。鳶、鴉など、いろいろな鳥が空を散歩し、自由に羽ばたいています。私はそれを羨ましく思います。私も自由に空へ羽ばたきたいと思います。雲の上から見下ろしたこの街は、あなたの街は、この世界はどのように見えるのでしょうか?私には想像もつきません。

 そう言ってはいますが、実は、私は高所恐怖症です。きっと、空なんて飛んだら目を回して落っこちてしまうかもしれません。それでも、一度でいいから飛んでみたいと思います。

六月十六日」




「実は、私も高いところはだめなのです。ですから、飛行機を使うよりも、電車や船を好みます。でも、空を自由に飛ぶのは楽しそうですね。私も一度やってみたいと思います。

今日は久々に天気が良かったので、思い切って掃除をしてみました。いつもはしないところまで丁寧に拭きました。掃除は結構な労働だと知りました。掃除が終わると清々しくなります。頬杖をついて、ベランダから遠くを見ていました。暖かな風が心地よく、私の心もリフレッシュしたように思います。でも、これからはできるだけこまめに掃除しようと思います。やはり足の踏み場がないほどまで汚すのはよくありませんね。

 最近私は仕事に打ち込めるようになったと思います。仕事でのミスも減って、重要な仕事もいくつか任されています。私はこれもあなたのおかげではないかと思っています。あなたは私に助言を与えてくれます。私の話を聞いてくれています。何かお礼がしたいと日ごろから思っていますが、何がいいでしょうか?私に出来ることがあれば何でも言ってください

六月二十日」




 彼女からの手紙が来なくなって一ヶ月が経過しようとしていた。私自身、手紙が来ないのがこんなにも苦しいものだとは思わなかった。彼女に出そうと思って書いた手紙の枚数はすでに百枚近くなっている。何度も手紙を出そうか迷った。けれど、彼女はもう手紙のやり取りを止めたのではないかと想像してします。そう想うと、どうしてもポストに投函することができなかった。



 

「あなたは何をしていますか?どうしていますか?そのことだけが気がかりでこの手紙を書きました。あなたが私に与えてくれたものは計り知れません。また、私があなたに何も差し上げることができなかったことも知っています。けれど、最後にあなたのことを教えて下さい。今、お元気でしょうか?」




「お元気ですか?もっと早くに手紙を出すべきだったと思っています。あなたは文通を止めてしまったのでしょうか?それでもいいと思います。あなたにはあなたの人生があるように、私にも私の人生があります。お互い接点のない状況で出会い、一時でも心の平穏を得ることができました。私はあなたに『ありがとう』と伝えたいと思っています。私たちの出会いが手紙であったように、手紙で伝えたいと思います。

 『ありがとう』

 あなたのことを私は決して忘れません」




 届くはずのない手紙を幾度も書いた。自分にはそれをポストに入れる勇気すらなかった。もし、手紙を送っても返事が来なかったら・・・・。そう思うと、私の手はいつもポストの前で止まってしまうのだった。



 

それなのに、どうして私はここにいるのだろうか?会社に休暇をもらい、自分の故郷の土を踏んでいた。父母に会うために帰ってきたのではない。文通相手の「八雲楓」という女性に会いに来たのだ。会うことはこれまで文通した相手として許されることではないのかもしれない。けれど、私は手紙に書かれている住所へと向かった。

おそらく、会えば完全に文通は終了することになるだろう。私にはなぜかそんな気がした。

道に迷うことはなかった。かつて、何度か通ったことのある道だった。

目の前には「八雲」と書かれた表札のある一軒家があった。呼び鈴を鳴らす私の手は少し震えていた。でも、これまでのように手を引っ込めることはしなかった。

「はい、どちら様ですか?」

少しして、女性の声が聞こえてきた。この人は私が訪ねてきた「彼女」なのだろうか?

「突然おじゃまして申し訳ございません。私は朝間秀一というものですが・・・・」

 ハっと息を呑む音が聞こえた。

「あなたが、楓さんでしょうか?」

 目の前にいる女性が若干俯いたように見えた。

「私は、楓の母です」

「あっ、すみません。・・・・楓さんは今どちらに?」

 一呼吸置いて、楓の母が口を開いた。

「どうぞ、上がってください」

 私は丁寧に靴を揃えると楓の母についていった。先ほどの行動と悲しげな語調は私に不吉な予感を抱かせた。

 家の中は木製で、塵一つない清潔な空間であった。おそらく夕ごはんを作っていた最中だったのだろう。私の鼻においしそうな匂いが漂ってきた。

 突然楓の母が立ち止まった。私は危うくぶつかりそうになったが足に力を入れ、重心を後ろに移動させることでうまくバランスをとった。

「こちらです」

 彼女が手で示したのは廊下の突き当たり、障子でふさがれた部屋だった。私は障子に手をかけ、ゆっくりと開いた。

 目の前には、黒と金でできた仏壇があった。私は、「立派だな」などと感心していたが、そこに飾られていた十四,五歳くらいの女の子の写真を見て息が止まりそうになった。第六感があるとするならば、きっと今、それは私に働きかけていたのだろう。写真の中で優しく笑う女の子が、「八雲楓」であるという確かな予感があった。写真の彼女は私の予想していた年齢よりも若かった。それにもかかわらず、写真の女の子と手紙のやり取りをしていた人が同一人物であると思った。年齢は別にしても、私が想像していた彼女のイメージと写真の女の子が一致していたからだ。

 私はゆっくりと楓の母を振り返った。

「この子が・・・・」

「楓さんですね」

 楓の母の言葉を途中で遮った。「楓」という言葉を彼女が発したら、泣いてしまうと思ったからだ。そうでなくても、彼女の瞳は潤んで揺れていた。

「楓さんはいつ・・・・」

 私は最後まで言葉を続けることができなかった。楓の母が口元を押さえ、涙を必死にこらえていたからだ。

 私には彼女の気持ちは理解できないだろう。だから、私にはどうすることもできなかった。

「楓は、二週間前に亡くなりました。あの子は最期まで『手紙、手紙を書かないと』と、言っていました。私にはどうすることもできず・・・・」

 彼女はそれだけ絞り出すと、私から顔を背けて涙を流した。私は写真の中の女の子を見つめた。笑っていた。白い肌と、長い黒髪、何の心配ごとも、不安も、恐怖もないような笑顔であった。

 私は胸に手をあてた。自分の鼓動を感じることはできたが、何か足りないように感じた。

 会ったことも、話したこともなく、何の接点もなかった私たちが手紙を通して言葉をかわし、心を共有した。だからこそ、私の胸に半分の穴が開いてしまったかのようである。

「すみません、少し取り乱してしまったようで。良かったら、一緒にお食事なんてどうですか?」

 しばらくして、落ち着きを取り戻した楓の母が言った。

「いや、でも、御迷惑になりますから私はこれで・・・・」

 彼女の母は少し困った顔をした。何か、私に話したいことがあるのかもしれない。けれど、今の私にはどうすることもできない。私自身、茫然としているのだから。

「迷惑だなんてとんでもない。あなたには娘のことを、楓のことを聞いてもらいたいのです」

 理由は分からなかった。けれど、私も楓さんのことを知りたいと思った。これまで文通してきた相手のことを、彼女がどう想っていたのかを知りたいと思った。

 だから私は彼女の母の申し出を承諾した。




 いざ食卓に座ると緊張した。目の前に出された料理はすべて手作りで、どれから手をつけていいのか分からなかった。

「まだ若いですし、たくさん食べてくださいね」

 楓の母はそう言った。目の前にはお椀いっぱいのごはんが盛りつけられていた。一人暮らしを始めると、作るのが面倒で、惣菜などを買って食べていた。私はこんなに食べることができるか不安になった。

 彼女が席に座った。私と向かい側の席である。

「すみませんね、夫はまだ仕事で、もうそろそろ帰ってくると想うのですが」

 彼女は優しく微笑みながら私に言った。私は、彼女の目じりに深い皺があるのに気づいた。苦労したのだろうか?実の娘を失って立ち直るには相当な時間と気力が必要だったはずだ。

「どうぞお上がり下さい。若い方の前に料理を出して、待っていろというのは酷でしょうから」

 ふふふっと笑いながら彼女は私に料理を食べるように促した。その頬笑みは、私の母のように暖かかった。

 一口料理に口をつけると、止めることができなかった。それほど彼女の料理はおいしかった。

 彼女は私を見ていた。

「楓は」

 私の食事がひと段落したころ彼女の口が開いた。

「あの子は十一歳のころ、病気になりました。それからは、入院、退院を繰り返して、満足に学校へ通うこともできませんでした。私たちの前ではいつも明るくふるまっていましたが、私にはわかっていました。あの子がとても寂しがっていたことを。

 去年の冬、私は主治医の朝間先生からもってあと三、四ヵ月だと言われました」

 「朝間」と聞いた時の私の顔はどんな顔をしていただろうか。背筋に電流が流れたようにビクリと体が動いた。

「私は夫と話し合いました。あの子には話さないでいようと。でも、私たちの様子を見て、あの子もうすうす気づいていたのでしょう。口数がどんどん減っていきました。

 ところがある日、私が病室に行くと手紙を書いていました。傍らにはペットボトルと一枚の紙切れがありました。私が尋ねると、昨日一緒に散歩した海岸で見つけたといいました。私には、あの子の考えが全く理解できませんでしたが、少しでも元気が出るならと思い、あの子が書いた手紙をポストに入れました。

 数日後、家に一通の手紙が届きました。私は急いであの子に渡しました。それを受け取ったあの子の顔は今でも忘れられません。あの子は心の底から喜んでいました」

 彼女はいったん話を止めた。私は知らず知らずのうちに体に力が入っているのに気付いた。肩の力を抜いて、彼女を見つめた。

「毎日毎日、あの子は私が来るたびに手紙は来たか?来たか?と尋ねます。あの子にとってそれだけが楽しみだったのでしょう。

 文通が始まって一ヵ月くらい経ったころ、、あの子の体が日に日に弱っていくのが分かりました。けれど、手紙だけは一生懸命に読み、書いていました」

彼女は一呼吸置くと、力強く言った。

「あなたのおかげです。あなたのおかげで、朝間先生も、想定していたよりもずっと元気だと言っておられました」

 そう言って私に深々と頭を下げた。

「二ヵ月半経った頃、あの子の手が思うように動かなくなりました。あの子は必死に手紙を書こうとしましたが、どうしても無理でした。あの子は私に代筆してくれと頼みました。私はそれを承諾しました」

 私は知った。字が変わったと感じたのは彼女が書けなくなり、彼女の母が書いたからだと。

「数日すると、彼女は手紙を読むことすらできなくなりました。だから、私が読み聞かせました」

 絞り出す言葉は僅かに涙声となっていた。

「夏の中頃、暑さが体に悪かったと思います。楓は突然体調を崩し、集中治療室に運ばれました。朝間先生の懸命な治療によってどうにか一命は取り留めたものの、意識は虚ろで、手紙の返事を考える力さえ残っていませんでした。

 あの子が時折口にする、『手紙、手紙』という言葉がとても切なく、悲しく聞こえていました」

 彼女の頬は涙で濡れていた。私も同様で、今にも涙が零れ落ちそうであった。

「ただいま」

 玄関から声がした。楓の父が帰ってきたのだろう。

「お帰りなさい」

 楓の母が涙を払って玄関の方へ歩いて行った。

 楓の父が食卓につくと私はさらに緊張した。しかし、彼女の父はとても気さくな人で、すぐに和むことができた。

 それから彼らは、楓の思い出話や、私の仕事のことなど当たり障りのないことを話した。

 彼らと会話をしながら、私は心の中で一つの決意をしていた。それは明日、私は父に会いに行こうというものだ。




 病院の中は清潔感が溢れていた。壁も白衣もすべてが白かった。それだけに私にはどこか希薄さを感じた。

 父とは連絡も、待ち合わせもしていない。だから、きっと驚くだろうと内心思っていた。病院で名前と理由を話し、父との面会を求めた。すると、父と会えるのは休み時間の昼食時になると言われた。私はそれまで、病院の椅子に座っていることにした。

 正午を少し回ったころ廊下から一人の男性が歩いて来た。それが父であると、私には容易に分かった。

「遅かったな」

 父が最初にいった言葉である。その声色からは、驚きという感情を読み取ることはできなかった。

「こっちだ」

 ついて来いというような仕草をして父は歩き始めた。向かった先は三階にある個室であった。父は静かにドアを開くと、私に部屋の中へ入るよう促した。

 部屋の中は閑静な作りをしていた。壁は白く、ベッドも、シーツもすべて白色であった。ここに誰かが住んでいたという形跡はほとんどなかった。しかし、直感的に気がついていた。ここはきっと彼女が入院していた病室であると。

 父を見た。父は私をずっと見ていた。視線が交差する。

「お前は、もっと早くここに来ると思っていた」

 父の声は意外に温かかった。そしてどこか私をいたわっているようでさえあった。

「どうして?」

 思った以上に声が上ずっていた。きっと病室の静けさに圧倒されたのだろう。

「私はお前が医者になる、なりたいと思っていると思っていた。だが、どうやら違っていたようだ。お前が家を出てからずっと考えていた。もしかしたら、私たちの過剰な期待がお前に重くのしかかっていたのではないかと」

 実際その通りであった。期待という実体のないものが私の心を埋めていき、気付いたときにはパンク寸前まで溜まっていたのだ。

「ずっとお前に謝りたかった。何度も、今どうしているのか?元気か?など電話をしようとした。しかし、どうしてもできなかった」

 私にはその気持ちが痛いほどわかった。

「この病室は、八雲楓という一人の少女の部屋だった。お前が来るまでとっておこうと思っていたが、お前は一向に来なかった。明日には新しい患者がこの部屋に入ることになっている」

 私はどう答えていいのか分からなかった。

「患者の親、または肉親に残りの命を告知するとき、どうしようもないほどの悲しみと無力感が、いつも私へと押し寄せてくる。八雲楓さんの時も例外ではなかった。その点で言うなら、彼女は私にとって単なる一人の患者でしかなかったのだろう。

 あの子は物静かで、いつも寂しそうであった。しかし、ある日を境に彼女の心境が一変した。私だけではなく、皆がそれに気がついた。しかし、私にはしばらくの間、なぜ彼女が変わったのか原因が分からなかった」

 父はベッドの手前に置いてあるパイプ椅子に座った。そしてベッドの枕元を見つめていた。

「ある日、彼女は私に文通相手の話をしてくれた。その人物の生活、心境いろいろと楽しそうに語ってくれた。私は何気なしに宛先を見てみた。驚いたよ。まさか自分の息子が彼女と文通していたとは。彼女には私とお前が親子であることは知らなかっただろう。しかし、彼女が話してくれることによって、私はお前のことを知ることができた。安心することができたのだ」

 私は黙っていた。一言もしゃべらず、一言も逃すまいと耳に神経を集中していた。

「彼女の寿命が、もって後三、四カ月であると診断したのは私だ。しかし、現実はどうだ?彼女は半年も生きた。お前が彼女に生きるための意味と、三ヵ月という時間を与えたのだ」

 父は私に微笑みかけた。感謝と誇り、二つの感情が混ざったような笑顔であった。

「お前は私たち医者でも助けられない少女を救ったのだ。それが心であれ時間であれ、私はお前を誇りに思う」

 父は最後に照れたように笑った。

 私の目は霞み、ぼやけていった。冷たく、暖かな液体が私の手の甲に落ちた。私は泣いていた。涙はとめどなく流れ、今まで溜まっていた私の心の荷物を洗い流してくれた。




 自宅に戻るといつものようにポストの中を覗いた。すでに習慣になっていた。すると、驚いたことに、一通の手紙があった。私は宛先を見た。差出人は「八雲楓」であった。差出日は二十日以上前であった。なぜ今頃ここに届いたのだろうかと疑問に思った。しかし、その答えはすぐにわかった。彼女が病と闘いながら、自分の手で手紙を書いてくれたのだ。字は歪に変形し、ところどころ読みにくいところもあった。宛先の字も同様であったため、届くのが遅れたのだろう。

 私は部屋に入ると丁寧に手紙を開き、読み始めた。




読み終えた後、窓から外を眺めた。空はもう夕焼け色に染まっていた。



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