深海の一番星 佐藤花編 上
一文字で意味を持っているから漢字は好き。
わたし、佐藤花はどうやったって佐藤花。平凡的な字面から連想されるような平均的で普通な女子高生。きっと花じゃなくて、華だったらちょっとは明るい性格だったのかも。そんな風に思うこともあるけど、この名前が嫌いなわけじゃない。
わたしらしくて、とっても平凡で気に入っている。もしわたしが一人でいるような子だったら、平凡すぎてクラスで浮いていたと思う。そんなわたしを浮かないようにと、引っ張ってくれているのは親友のおかげだ。
神原志穂。志穂がそのことを意識して、わたしに対して恩着せがましく一緒にいてくれているわけではないけど、助かっている部分があることは確かだ。
そして志穂もまた、一人でいたら浮いていたと思う。というか、教室という場では、一人でいるとどうしても浮いてしまう。そんな呪いがあの正方形の空間にはずっと掛けられている。
そのことを省いたとしても、やっぱり志穂は浮いたはずだ。世界レベルの特技があるとか、障がい持ちをとかそんなんじゃない。派手っぽさがない整った顔立ちで平均的なスタイルの枠にとどまっている。でも、いつだって周りから一目置かれてきた。ちょっと変わっている子。SNSで絵文字をたっぷり使ってプリクラを投稿したり、恋バナに浮かれたり、満員電車で密着した四十代サラリーマンに罵詈雑言を吐いたり、そんな女子高生が持てる特権をかなぐり捨てているような子。
そんな女子高生を嫌っているような子だったから、わたしとは違う意味で浮いていた。
「花、生物室行こう」
凛とした、この志穂の声が透き通ったわたしは好き。ほかの子はわたしを呼ぶときに「はなちゃん」とか可愛らしく桃色のチークを施されているから、どうにもあざとく聞こえてしまう。
水色の声に短い返事をして、急いで教科書を揃える。志穂は着替えが早いから体育の後の移動教室はわたしが急がないといけない。
志穂はいつもわたしの一歩前を歩いている。物理的にも心理的にも。その手を引き留めることは、わたしには出来ない。いつだって静かに、追いつくことを待っていてくれている気がする。
志穂のことを冷たいとか誤解する人がいることは知っているし、どうして一緒に居てあげているの?と世話焼きよろしく聞かれたことがある。
自分でも根拠がわからないけど、わたしは確かに安心している。この近すぎない距離感を信用しきっている。志穂に手を引かれていたならどんな暗闇だとしても怖気づくことなんてない。そう胸を張れるくらいに。
志穂は頭がいい。国・数・英の意味でもそれ以外の意味でも。一方わたしは理系が得意なくらいで他は平均的。
変わっているけど色々と凄い子として浮いている志穂に平凡すぎるわたしがくっついていれば、ほんの少しでも志穂を沈ませることができるんじゃないか、というわたしの考えはどうやら間違っていたらしい。
わたしもまた、浮いていた。平凡過ぎて、取柄らしい取柄なんて一つもなくてぷかりぷかりと浮いていた。
教室いう狭い水槽で、二つの浮き球が場所をかえて寄り添っている。クラスないでの位置づけはそうなっていた。
「体育の後だってのに悪いな、これ配っておいてくれ」
生物の先生から受け取ったノートを半分こして、耐火処理が施された黒い机の間を縫うようにぐるぐる回る。本人はいないし、教室とは配列が違うから四月の席をなんとか思い出しながらだからノートは全然減らない。
クラスメイトがだんだん来たから席はわかりやすいけど今度は進みにくくなる。志穂はもう全部配り終えたみたいて、いつも通りにわたしの方が遅いみたいだ。狭いから体を蟹みたいにする。
「半分ちょうだい」
満員電車から降りたように顔をあげたら高崎くんの顔がそこにあった。高崎翔くん。幼稚園からずっと進学先が一緒の唯一の人。仲良くし一緒に遊んでいたのなんてもう、ずっと前のこと。
「ありがと、じゃあお願い」
三分の一くらいを渡せば「ん」と、だけ返された。こんな風にさりげなく返事ができる男子ってかっこいい男子に部類されるんだろうなぁ、と頭の片隅で考えながらも手元のノートを減らす。
このクラスで一学期を終えて勢力の図というか、目に見えないけど確かにあるポジションはもう確定していた。たぶん、これから卒業まで大きく変動することはないと思う。これは浮いているわたしでも把握している。
誤解されたくないけれど、わたしは浮きたくて浮こうとているわけじゃない。クラスメイトの人たちが持つ、わたしへのイメージがこれだっただけの話だ。
ちなみに、高崎くんのポジションは一番高いところにある。表彰台の頂点に、いつもいる男子と女子の混合グループの人たちと一緒に。
夏の香りを攫っていくような、ゆったりとした風が日焼けして黄ばんだカーテンを揺らす。
先生の声とペン先が走る音だけの空間で、わたしと向かい合わせで前に座る野球部の男子が早速船を漕ぎだす。一応ペン先でつついていたけど反応がなかったしそのままにしておく。
勉強は嫌いじゃない。できないと自分が不利になった様な気がするからできるようにしているだけで、好きな訳でもないけど。でも、その中でも生物は好きな方だ。
細胞っていうすごく小さなものが集まって臓器になって、その臓器が揃うと器官になる。器官が隙間なく揃えば人間になっているから、やっぱり人間はただの物に過ぎない。
命の重さとか、心の尊さとか回りくどく説き伏せたって、結局は物。どこまでも物体でそこに在る物なだけ。
そう考えればシンプルだ。どれだけ大業なお題目を並べたって物質。選ばれた物質たちが一定の割合を保って形を成しているってそれだけのこと。
この世の全ては水兵リーベー僕の船から始まる周期表の中から構成されている。
感情だって例外じゃない。これは志穂からの受け売りだからわたしが偉そうに言えたことじゃないけど。
感情はドーパミンとかアドレナリン、セロトニンとかの神経を流れるちっちゃな物質が、集団で心に流れ込んでいるに過ぎない。好きとか嫌いとか、嬉しいとか嫉妬とかの感情も、心も物質。
前にあった頭がガクリと落ちた。その衝撃でようやく起きたらしい、急いでノートを取り始めた。
まだ暑さが残るし蝉だって五月蠅く鳴いているけど、もう九月も終わる。高校生活すべての行事も終わって受験の一文字が教室のどこかで、ドンと存在感を発揮するようになってからもう随分たった。
わたしとて、意識していない訳じゃない。志望校は二年の半ばから考えているところに決めた。けど、入学出来たとしてやりたいこと、学びたいことがあるわけじゃない。全国的に有名なところだから入って失敗するリスクが少ないだろううっていうあやふやな根拠だ。
ブランドの肩書に安心する大人にはなりたくないとか思っていた、志穂と出会ったばかりのわたしはもういない。
先生が口頭で説明した事をノートの端に色ペンで書いておく。たぶんここはテストに出るだろうから。
志穂と仲良くなってから、声をかけられた中学一年の夏からわたしは色んなことを教えてもらった。それは志穂が教えられるほど賢いから。このクラスで一番賢い人は?と、アンケートを取ったら満場一致で志穂に三十九票が入るはず。当の本人が誰にいれるんだろうか。自分には入れない筈だ。六年目の仲になればそれくらいはわかる。
窓は閉め切っているのに蝉の鳴き声がか細く聞こえる。暑い夏はきっともう終わりが近い。
通学は片道、一時間とちょっとかかる。自宅周辺に選べるほど学校がなかったから乗り換えを一回して毎日通っている。それもあと半年ちょっと、夏服での通学はもう一か月もない。
ガタンゴトン、ガタンゴトンとゆっくりとした規則で六両編成のローカル線に揺られながら、左耳のイヤホンをはめ直した。
女性シンガーの滑らかな歌声が鼓膜を優しく振るわす。何を伝えたいか直接はわからないのは、日本語じゃないから。志穂の音楽プレーヤーから聞くのはいつも異国の歌だ。
でも、今日は違和感があった。いつも聞く曲と何かが決定的に違う。
「ねぇ、これどこの言葉?」
右耳にイヤホンをはめた志穂は短く、「フランス語」 とだけ答えた。
見せてくれた画面には、一目で美人とわかる金髪の女性が窓の向こう側を眺めている。
「フランス語わかるの?」
志穂なら英語以外の言葉を理解していてもおかしくない。寧ろしっくりくるところがあるくらいに。
「いや、流石にフランス語はわからないって」
的が外れたことに焦りつつも、冷静に考えればそのはず、と理解できる。フランス語がわかる高校生なんてそうそういないに決まっている。
「というか、いつも聞いてる曲も完全には理解できてないよ」
「えっ、そうだったの」
オウム返しをしたわたしは、豆鉄砲を喰らったような顔になっているはずだ。「流暢すぎてわからないところもあるし、歌詞って直訳できないものが多いもん」
操作音の後に、聞きなれた英語の曲が流れ始める。前奏のピアノが特徴的で志穂が一番聞いている曲の一つ。
「意味がわからないのに聞いてて楽しい?」
小馬鹿にしているとか、そういう意味は一ミリも含んでない。わざわざ言わないのは、志穂がそんな風に受け取らないってわたしが一番わかっているから。
「楽しいイコール好きじゃないよ。自分にとってプラスの役割をしてくれるものが好きなんだよ」
漢字の書き順を間違えた生徒に、優しくだけどしっかりと正す教師のように志穂は言う。
「日本語の曲だとさ、言葉の意味が分かるでしょ。風景とか伝えたいこととか、脳が勝手に動き出して余計なお世話をかけてくる。でも、始めっから理解できなければそれは音としてしか認識できない」
「……つまり」
「ただ心地いいとか、そういう音の連なりが好きなだけ」
言葉は音。意味なんて言葉の基盤でもなんでもなくて、あくまで付随的な欠片に過ぎない。最近受けた模試の読解に、こんなことを題材とした説明文があった気がする。
「それって、クラッシックとかじゃないの?」
回答用紙に書きたかった答えをここで問うてみる。答案にそんなこと書いたらバツがつくことくらいわかる。
答えは一つじゃない。そう豪語する国語にだって認められない答えは数多くある。個性だ、十人十色だとか言いながらわたしたちはそういうところで模範的で平和的な大人へと道を修正していく。
「クラッシックを聞いていた時期もあったけど、言葉があった方が好きなんだよね」
これからラストのサビのところで流れが切れたから、顔をあげればいつの間にか最寄りの駅名が古いスピーカーから響いていた。
利用者も電車もそこそこ多いのに、設備が釣り合ってない北里駅。ホームの中央に全体の半分程度の屋根しかないから、雨の日には真ん中の列車が大人気になってしまう。
あと数年で定年になりそうな駅員さんのいる改札に定期を当てて外へ出る。この自動改札があるだけまだマシな方なのかも知れない。
空の色がオレンジ色を帯びてきた。穂先が垂れ始めた稲に夕日が当たって黄金色の波が静かに揺れる。まるで一秒が引き伸ばされていると錯覚するくらいに。
「ごめんね、今日待たせちゃって」
今更ながらだけど、こんな時間に帰っていることに謝る。放課後に文集委員の呼び出しがかかって、思っていた以上に志穂を待たせた。
「別にいいって、勝手に待ってたのは私だし」
強めの風が稲をぐわりとうねらせる。この景色は稲刈りが始めるまでの期間限定でしか見れない、わたしが大好きな風景。
「それに、本を読み終えられたしさ」
「あ、だからそんなに機嫌いいんだ」
心を読まれたことが余程驚いたらしい。右足を軸にくるりとこっちを向いた志穂は、くっきりとした二重を珍しく大きくしていた。
「足取りがいつもより軽そうにみえたし、志穂が新しい曲を聞かせてくれる時はそういう時が多いからさ」
それだけ聞くとまたくるりと回って歩き始めた。わたしもそのあとについて歩き始める。
「文章を目で追っているだけで、好きな一文を捉えただけなのに心が満たされるような小説でさ。情景描写も心理描写も表現の一つ一つが綺麗で」
ややあって志穂が口を開いた。顔は前を向いたままだからどんな表情をしているのか伺えない。わたしは相槌も打たずに、耳を傾けることだけに徹する。
「早く結末を知りたい、最後の一文を読みたいって思いながも、読み終わっちゃうのが名残惜しくてページを捲れずにいたの。待っている間さ、教室に一人だったし風が気持ちよかったから読んでみたんだ」
投げ捨てられた空き缶が道端でコロコロと転がって乾いた音を立て消えていった。
「すごく、よかった。読んでよかったよ」
胸までかかる髪を耳元で抑える志穂の姿は、夕日に照らされたこともあっていつもより三割増しで儚くて綺麗だろう。
「だからもう、悔いはない」
すがすがしく放たれた言葉の意味が分からなかった。わからないから聞こうとしたら、そこが志穂とわたしの分かれ道になるT字路だと気づいた。
「じゃあね、花」
オレンジ色の空気に、青色の言葉が溶けていった。
日曜日のお昼過ぎ、ミートソースのスパゲッティを食べ終えて、ちょっとお昼寝でもしようかと思っていた日曜日の二時過ぎに『先にいっているね』と志穂からメッセージが届いた。
会う約束はしていなかったから、明日の学校の話なんだろうと思っても、どうしてこんな時間に?と疑問が残る。だけど、『わかったよ』とだけ返しておいた。
きっと、明日なんかの用があって学校へ早く行かなくちゃ行けなくて、それを忘れないうちに伝えようと思ったんだろう。後回しにするのが苦手なところがあるから。そんなことがあって、現在に至る。
自分が非力なことを痛切に味わいながら、水中から顔を出すように改札から出た。学校の最寄りの駅は乗り換駅として利用されることが多いから、ラッシュ時は人で溢れ返る。
いつも志穂の後ろは歩いていたから、あんなに楽に進めていたのか、と思い知る。そういえば、一人で学校に行くのは、志穂と通学するようになってから初めてだ。
志穂もわたしもおしゃべりじゃないから、ほとんど会話をしない登下校も珍しくないし、その沈黙が気まずいと感じたこともない。喋っていないのはいつもと同じなのになんだか落ち着かない。
なんとなく速足で学校に向かって、上履きに履き替えた。六組にはもう八割くらい揃っていて、課題をやったり携帯を弄ったりと思い思いの時間を過ごしている。扉の音で数人がこっちを見たけど、わたしだとわかった瞬間にそれぞれの時間へと戻っていった。
けど、視界の端っこの方にこっちを見る顔が一つだけあった。いつもの仲間、男子四人と女子三人のグループの輪の中から高崎くんが不思議そうにこっちを見ていた。
「神原はどうしたの?」 目がそんなことを言っていたから、「先に行ったよ」と、音が出ないようにして口をパクパク開いた。高崎くんの顔が怪訝そうに歪んで、教室内を見渡した。わたしもつられて見渡す。あれ、志穂の姿が見当たらない。もしかして体調でも崩したかな?
でも、志穂は小学校も中学校も、ずっと皆勤だった。中学の卒業式で九年間皆勤と、表彰された唯一の生徒だったことはわたしの記憶にもはっきりと残っている。
検討が付かないわたしが首を傾げると、高崎くんはそっか、と言いたげな目をして輪の中に戻っていった。
ホームルームは結構騒がしい。担任である坂屋先生はそれをいちいち注意するタイプの先生でもないから、余計に騒がしくなる。
間延びした先生の声に、バラバラの挨拶が飛ぶ。高崎くんと一緒に居る男子が大きな声で「はよざいまーす」って、言ってその頭を叩かれている。「うるせーよ」なんて言われながら。
わいのわいのと騒ぎ出す男子達を冷やかす声が重なって、発散される音はより一層大きくなった。それを放置したまま、先生は出席を取り始める。
先生はちゃんと志穂の欠席に気が付いていたみたいだけど、いつもみたいに「誰か原因知ってっかー」とは聞かなかった。先生は何か知っているのだろうか。
『今どこにいるの』と短くメッセージを送ったけど既読はつかない。
全然、集中出来ないまま一時間目の数学が始まった。教室はピッと静まっていて、冷房が無機質に吐き出す空気の音に二十分前の騒がしさが嘘のように思えてくる。
窓側、前から三番目の席。白のセーラー服に黒のセミロングが映える絵が今日はない。
志穂はここの制服、特に夏服がよく似合う。薄い白地に紺のストライプが入ったセーラー服の中央で咲く真っ赤なスカーフ。清楚が全面に出された制服がよく似合う。
一種の張りつめた空気の中で、突然開かれた前扉の音はクラス全員の耳について誰もが反射的に顔をあげた。六組の副担任であり学年主任でもある田代先生が、小さく会釈をして入ってきて、教壇に立つ細井先生に小声で話し始めた。
田代先生の言葉を聞き逃すまいと、細井先生の四角い顔は神妙な顔つきになっている。
クラスで隠さないひそひそ声が蔓延し始めた時、細井先生の口が小さく動いたのをわたしは見逃さなかった。そのままの流れで田代先生は、等間隔で前ならへをした机の列の中央まで来ると、わたしの前で止まった。
それと同時にたくさんの、人が嫌がるところにこぞって集まってくる好奇心の視線が注がれる。子供の純粋さと大人の汚さが混ざり合った宙ぶらりんの半端な好奇心の瞳が。
「授業中ごめんなさいね、少し来て貰ってもいいかしら」
田代先生は小柄な人だから、座っているわたしとではあまり差がないけど、わざわざ目線を合わせるように屈んでくれるあたりに先生の良さが滲み出ている気がする。
「はい、わかりました」
ノートの上にシャーペンと消しゴムが転がったままの席から離れる。田代先生が「じゃあ、お願いします」と呟いたのに、細井先生が小さく頷いたのを確認してから教室から出た。
公立の高校だから、限られた部屋にしか空調設備器具はない。廊下には居残り続ける夏がまだむわっと、纏わりつく空気でそこにいる。
細井先生がクラスを落ち着かせる声を聴きながら、頭の中を整理整頓する。今、田代先生にする質問は何がいいだろうか。
「一体、何があったんですか?」
整理するほど頭の中に情報がなかった。先生がわたしの席に来た時には、家族が事故に巻き込まれでもしたのかな、と嫌な考えがよぎったけど荷物を持ってきていないからすぐに帰るとか病院へ直行ということはなさそうだ。
「あまりね、身構えなくて大丈夫よ。自分が知っていることをそのまま話せばいいんだからね」
いつもは穏やかな田代先生だけどどうにも様子がおかしい。速足で階段を下りて、教員室や保健室がある棟へと向かう。
「田代先生、落ちついてください。何があったんですか?」
応接室の前で止まった田代先生は、冷静さを呼び戻すように深呼吸をした。まるでこれから判決を下す裁判官のように。
「先生がこんなんじゃダメね、ごめんなさい」
そこで一呼吸おいてから、
「今ね、佐藤さんに警察の方がいらしているの」
漢字が得意なわたしだけど、その音はすぐに形に出来なかった。ケツサツ?けいさつ?あ、警察か。たっぷり五秒かけて理解したけど、警察にお世話になる心当たりがまるでない。
そのことを言えば、詳しい話は刑事さんが話してくださるから、と返された時、応接室の重そうなドアが開いて、校長先生が出てきた。
「佐藤さんに田代先生、いらっしゃいましたか。警察の方がお待ちですが。無理はしないで下さい、佐藤さん」
「坂屋先生は授業中だから、先生が同席させてもらうわ。気分が悪くなったりしたら遠慮なく言うのよ」
応接室から流れてくる空気が唯の冷風じゃないことに気が付いた。部屋の中が見えないように、曇りガラスの仕切りがあるからわからないけど呼ばれているなら行くしかない。取って食われることはないだろうし。
「わかりました、大丈夫です」
何をわかっているのかわからないけど、取りあえずそう言っておく。言葉にしてみると案外楽に考えられたりするものだから。
部屋の中は主のいない書斎のような作りになっていた。全体的に上品な茶色で統一されていて、ほのかに漂うコーヒーの香りが雰囲気を一役買っている。
「突然なのに申し訳ない、私は北里警察署の篠内と申します」
「同じく北里警察署の中川と申します」
正しく年を重ねたっていう表現が似合う篠内さん、大柄で若い人が中川さんと覚えておく。人の顔と名前を一致させておくには大まかな特徴で掴んで頭の中で復唱してごらん。志穂から教わったやり方。
名刺を取り出そうとする中川さんを、篠内さんが丁寧に牽制する。二人ともスーツ姿で篠内さんはグレーで中川さんは黒、まだ暑いのにネクタイをきちんとつけているから、思わずスカーフの形を整える。
三人掛けのソファーが低いガラステーブルを挟む形で向き合っているから、わたしは篠内さんの正面となる位置に座る。
「矢富高校三年六組の佐藤花といいます」
最低限度のことを名乗れば、麦茶を二つ持ってきた田代先生が「副担任の田代です」と短く続いた。
そのまま一つをわたしの前に差し出してくれた。
「警察の方がわたしに何の御用でしょうか?」
敬語には二つの使い方がある。一つはごく普通の、目上の人や初対面の人に敬意を表するための敬語。二つ目は、線引き。あなたとはこれ以上距離を縮めるつもりはありませんと宣言するための敬語。今の言葉は前者二割の後者八割くらいのブレンドした敬語だ。篠内さんや中川さんに敵意があるわけじゃないけど、警察って組織はなんとなく苦手意識がある。
「すまないね、突然押しかけてしまって。佐藤さん、君に親しい友人はいますか?」
「志穂がどうかしたんですか」
頭の片隅に居る冷静なわたしが、自分の鋭さに感嘆のため息を漏らすのが聞こえた気がした。警察がわざわざ学校に来てまでわたしのカウンセリングをするとは考えられなかった。
篠内さんは優しい笑みを浮かべたままだから、背筋をピンっと伸ばしてる中川さんに目を合わせたらすぐに逸らされた。嘘を吐いている時はね、男性は目を逸らすけど逆に女性は、じっと見つめ返すんだよ。脳内で志穂の声が再生された。あの凛とした水色の声が。
そんな中川さんを横目で見ていた篠内さんはゆっくりとした動作で口元へ質素なコーヒーカップを運んだ。じっくり味わってから、小さく「中川君」と呟いた。はっとした様子の中川さんは、胸ポケットからノートとペンを取り出すと刑事らしくそれを構えた。
「その志穂さん、神原志穂さんは君にとってどんな人かな?」
息を吐くように言葉を紡ぐ篠内さんに、高揚していたわたしが急激に体温を落とした。通常運転に切り替わって、行き場をなくした熱が指先から霧散したように感じて、無意識に手をスカートで拭っていた。
「志穂は、一番仲のいい親友です」
とても一方的だけど、わたしは志穂を親友だと思っている。一緒にいる時間が長いってだけじゃない。色んなことを教えてくれたし、影響を受けた。世間一般の親友の定義と異なることくらいわかっている。けど、わたしはこの言葉以外に、なんて表現していいかわからない。
人は完全に他人を理解できたりしない、自分のことを完全に理解することすら不可能だから。
じゃあ、顔見知りと友達と親友の領域ってどこからどこまでなんだろう。恋人みたいに、合意の上での異性同士の関係とかはっきりしていない。だから、信じることが最有力。結局は自力本願で個人の信じることが全てのもの。
お互いに確認し合っていれば別だけど、「俺たち顔見知りですよね」「私たちって親友だよね」なんてわざわざそんなことする人はいないだろう。本当に大切なモノは言葉や数字で表した途端にその輝きを失う。
「志穂はすごく頭がいいんです、勉強じゃない部分と言えばいいんですかね。答えのない難しい質問にぶつかっても、正しい答えを出せるような子で。人を惹きつける魅力が備わっているんですよ、考えることが好きだって言ってました」
志穂が言っていた言葉を思い出しながら自分の声と重ねる。「『折角人間で生まれてきたんだから、考えることをやめちゃダメだよ。考えることはね、人間の特権なんだから』そう言って、普通に生活している中で、見逃しちゃうような些細なことまで気にして考えていました」
考え込むときはずっと黙っているから、怒っているのかななんて誤解されることもよくあって、それも一つの原因で志穂は浮いてたけど、本人にそれを気にする気配は全くなかった。
自分から考えようとする人が少ないのは、大半の人にとって考えることがストレスになるから、らしい。志穂にとっては全くストレスじゃなかったみたいだけど。「先生からみた神原志穂さんはどのような生徒でしたか?」
突然矛先が向いたことに、田代先生は少し考えこんでから口を開いた。
「賢い生徒でした。成績は優秀ですし悪さもしない。品行方正という諺が似合いすぎる生徒ですね。私は国語の教師なので彼女の感想文を読んだことがあります。どれも素晴らしい出来でした。大人でもあそこまで書ける人はそう居ないでしょう」
中川さんがペンを走らせながら「なるほど」と漏らした。そのペンが止まったタイミングですかさず篠内さんが口を開く。
「悩みましたが、お伝えしましょう。先生方には電話でお伝えしたのですが、昨晩から神原志穂さんが行方不明になっているのです」
両手の指を組んだまま告白する姿勢に、中川さんが戸惑いの視線を至近距離から突き刺すように送られていながらも、篠内さんは続ける。
「志穂が、ですか?」
「はい、手紙を残して出ていってしまったそうなのです。親御さんから『今まで無断で帰ってこないことはなかった』ということで昨晩のうちに捜索願が出されていましてね」
あの志穂が?わたしに正しい道を示してくれるあの志穂が、行方不明。
ふと思い出した、昨日のお昼過ぎに届いたシンプルだけど繋がらないメッセージ。そのことを伝えるために口を開いた時、突然、携帯の着信音が盛大に鳴り響いた。「すみません、失礼します」
中川さんが首から掛けていた携帯電話を耳にあて口元を手で覆いながら、部屋の隅へと移動する。出かかった言葉は寸でのところで止められて、空気だけを虚しく吐く。
「え、本当ですか!」
一際大きい中川さんの声に、わたしと田代先生だけじゃなくて、篠内さんまで振り返った。中川さんはこっちを一瞥してから、部屋の角へ埋まるように身を縮こめる。
すごくいやな予感が、閃きに似た黒い何かが頭の中で炸裂した。
ほどなくして通話を終えた中川さんがこちらを振り返る。篠内さんに先手を打たれる前に叫ぶような声で、
「志穂に何があったんですか」
と、真っ直ぐに問う。
中川さんの瞳が、震えながら大先輩である篠内さんに縋るように注がれた。篠内さんは静かに頷いた、まるですべてを知っていたかのように。酸素がない空気を吸っているような沈黙のあと、中川さんは重苦しそうに口を開いた。
「今、現場で、神原志穂さんが遺体で発見されたそうです」
今なら、わかる。『先にいっているね』は『先に逝っているね』という意味だったということが。
北里市には有名な崖がある。太平洋に面している高さ三十メートルの崖は、数年に一度、自殺者が出ることで有名なスポットになっている。夕日崖には、恋人に裏切られて自殺した女の幽霊が出るとか、無理心中で死んだ赤ん坊のすすり泣く声が聞こえるとか、そんな噂がたくさん存在する。
そこが夕日崖って呼ばれているのは昔、とある詩人が旅の途中で崖に上り、夕日が沈む様子があまりにも綺麗で、吸い込まれるように歩いて、気が付く間もなくごく自然に、重力という超自然的な法則に従って落下して死んでいった。それ位に夕日が綺麗に見えることからそう呼ばれているらしい。
志穂は自宅からバスを使って終点の北里海岸まで行って、徒歩で約十五分をかけて、夕日崖の恐ろしいほどに鋭い先端から、制服に身を包んだまま逝ったらしい。
夜になっても帰ってこない志穂を気にして、両親が電話をするも携帯は繋がらず、捜索願を最寄りの交番に提出。なにか手がかりはないか、と入った志穂の部屋にある学習机の上に真っ白な手紙を発見したらしい。
俗に言う、遺書というモノ。
内容を細かくは教えてくれなかったけど、夕日崖で死ぬという事が書かれていたらしく、そのことはすぐに警察へ連絡され翌日、つまりわたしが初めて一人で登校している時には、捜索が始まっていたらしい。
曰く、発見された志穂の体は、水死体とは思えないほどに美しかったそうだ。
死亡推定時刻は九月二十七日(日)の午後二時から三時の間。その時、このあたりは見事な秋晴れだった。雲一つなく澄み渡った空の下で志穂は、太陽の光が穏やかな海に降り注いでキラキラと輝く青の奈落へと独りでに落ちて逝った。
これはわたしの勝手な推測だけど、志穂は多分、背中から落ちたと思う。遠ざかっていく空を見ながら、最後の瞬間に何を思ったんだろう。
どうして海で死んだんだろう。何をどう考えて自殺なんてしたのだろう。中川さんの口から「遺体で見つかった」と告げられた時、隣の田代先生が息を飲んだ気配がした。
そしてすぐに嗚咽が混じった声になって皺のある両手で顔を覆った。わたしは、泣かなかった。というより、泣けなかった。何もかもが急展開過ぎて思考が全く追いついていなかった。
現実を受け入れるとかそれ以前の問題で、現実を把握してなかった。体の内側にある機能がピタリと静止した。田代先生と入れ替わるように校長先生と保健室の先生が来て、わたしに優しくしてくれた「辛いだろうに、今日はもう帰ってゆっくりしなさい」「親御さんに迎えにきてもらう?」なんて提案してくれたけど、自分の意思でしっかりと断った。
「わたしは大丈夫だから学校にいます」と。
一時間目と二時間目の間にある休み時間で教室に戻るなり、滅多に話さない女子に話しかけられて、名前がわからない男子にまで質問された。本当のことを話す気なんて一ミリも起きなかった。心配とかじゃない、下世話な好奇心丸だしの言葉に気持ち悪さすら覚えた。
なんて回避したか覚えてない、なんか適当なことで濁したはずだ。腑に落ちない顔をしていたけど、元々仲が良いわけでもないから深く追及はしてこなかった。
月曜日課が全部座学であることに初めて感謝した、前を向いて座っているだけでいいから。四限が終わるまで一度も席を離れずにいた。お昼のチャイムが鳴ると同時にわたしはお弁当を持って、今まで通りに準備室へ向かった。
わたしに準備室の存在を教えてくれたのはやっぱり志穂だった。入学して二週間経ったくらいの頃、今日からお昼はここで過ごそうよ、と言って一階の増築したつなぎ目のところにあるこの部屋にわたしを連れてきた。
準備室にはかつて使われていたであろう机と椅子が数個あるだけで、今までも志穂と同じように考えた人がいたんだろう、快適に使えるようなもの、ラジオとかゴミ箱とか、地デジに対応しているブラウン管テレビまであった。
二つだけ向かい合っている机、いつもわたしが使う方に座る。お母さんには申し訳ないけど食欲がなくてお弁当は袋に入れたままにして、椅子の上で膝を抱える。
志穂が、いない。
この部屋には毎日のように来ているのに、一人でいるのは初めてで、机も椅子も、ラジオもテレビも馴染みが染み抜きされたものも様に見えた。
ぐっと膝を抱える。太ももの裏に思いっきり爪を立ててみたけど痛みは全く感じなかった、短な赤の曲線が並んでいることはわかったけど。
「この人たちはさ、彼が死ぬまで彼の名前すら知らなかったんだよね」
テレビのチャンネルはいつも決まっていて、民営放送局のワイドショーだった。消去法で残ったのがその局だっただけで、特別好きだとかそんなことは全くなかったけど。
九月一日に踏切で命を散らせた中学二年の男の子は、この数日で売れない芸人の芸歴をあざ笑うようなスピードで一気に知名度を上げた。
理由は簡単、彼がクラスメイトから酷いいじめを受けていたから。聞くに堪える様ないじめを受けていたからだ。
男性キャスターが事故現場の踏切でここ数日の間、同じことを色んな言葉を使って報道している。画面には踏切の直ぐそば、大量のお供え物が置かれているのを映している。誰が用意したかわからない白い段は、お菓子やらおもちゃやらで溢れ返って、それだけ参列した人が多いってこと。
ずっとこの事件の報道をしているキャスターが両手を合わせて涙を流していた女性にインタビューを始めた。右上のLIVEの字が消えたことにわたしは気づいているし、きっと志穂も気づいている。
『私の息子も、ちょうど同い年で、こんなに辛い思いをしていたのに、どうして周りの大人が何もしてやらなかったのかって、苦しくてやりきれなかっただろうなって思うと、手を合わせずにはいられなくて』
そこで耐えきれないとでも言うように、ハンカチで口元を抑える女性を、キャスターがわざとらしい演技で宥める。
「まさか自殺するなんて思ってなかったからですよ」
すでにお弁当を食べ終えた志穂が、通じることはない女性への質問に返答する。全くその通りだと思う。自殺するなんて思っていなかったから、いじめる側は心置きなくいじめ潰すことに集中出来ていた。
「こんなんじゃ、彼が報われないよ」
画面の向こう側にいる女性を志穂は目の敵のように、きっと睨んだ。
「どういうこと?」
それはいつものわたしの発する言葉だ。志穂の考えを知るため、少しでも同じ次元で会話をしたくて。一緒に居るようになって長いけど、わたしはしょっちゅう質問するし、志穂がそれを面倒くさがることもない。
「生きることが嫌だったんだよ、もう人間を見ていたくなくて、自分が人間でいることをやめたくて死んだんだよ。沢山の人に迷惑かけるやり方で自殺したことは褒められたことじゃないけどさ」
再び喋り始めた女性を避難するように志穂は言う。実際に非難するには、時間と空間を超えなきゃいけないから形だけの意味のない行為なんだけど。
「だからといって、赤の他人が手を合わせているのを全国区で放送されて、勝手に卒業文集を公開されてさ、死んでも著作権は存在するのに。彼は有名人になりたくて死んだんじゃないよ、死にたくて死んだ。それだけなのにどうして人生を好き勝手の脚色加えられて、視聴率に貢献しなくちゃならないんだろう」
なんでも正しい答えを知っていそうな志穂にしては、珍しく本物の戸惑いだった。そこには、心からの敬意と同情もあったように思う。
「人が死ぬなんて、当たり前のことなのに」
一つ思い出せば、ここで過ごした志穂との記憶が溢れ返ってくる。予鈴が鳴っても、本鈴が鳴ってもわたしは準備室から出なかった。




