生意気シンデレラはプリンスデザイナー
「なろう」初投稿なので温かい目で見て頂ければ。
深夜0時。
私たちの集合時間はいつもこの時間。
私はその時が来るのが待ち遠しくて、せわしなく時計を確認する。既に10分を過ぎているが、彼女が来る気配は無い。私は手元にある本を読み進めながら、その時をじっと待った。
……カツン、カツン。音が聞こえる。小石が私の部屋の窓に当たる音だ。
「来たっ」
本を閉じ、立ち上がる。閉じてしまった後でしおりを挟み忘れた事に気が付いたが、それは些細な問題でしかない。家の外に居るであろう彼女に会えるのなら。
私は最後に読んだ本のページを頭の片隅に置きながら、ドアノブに手をかけた。
「……」
なるべく音を立てないように部屋を出る。はやる気持ちを抑え、抜き足差し足で階段を降りていく。別室で眠る母を起こさないよう、慎重に。足早に。そうして、何とか物音を立てず外に出る事が出来た。
「遅いですよぅ貴子さん」
玄関の外で私を待っていたのは、私より一回り小柄な少女。紺色のマフラーで口元を隠しているが、退屈そうに顔をぶすっとさせているのが見て取れる。
「それはこっちのセリフなんだけど……」
「まっ、まぁまぁ。いいじゃないですか細かい事は……じゃ、行きましょ?」
ん。とだけ言い、彼女はポケットから取り出した手をぶっきらぼうに差し出した。
「うん、沙耶ちゃん」
私は目の前にある彼女の――沙耶の手を握る。肌寒い冬空の下、私たちはお互いを温め合うようにギュッと手を握り、肩を寄せ合い歩き始めた。月が微かに照らす薄暗い路地を、転ばないようにゆっくりと進む。
「それで沙耶ちゃん」
「ん? なんですか?」
「どうして今日は遅かったの?」
私は何となく気になった事を沙耶に聞いた。もしかして、こうやって私と夜な夜な深夜徘徊している事が家族にバレたのではないか? そうだとしたら一大事だ。私は沙耶のご家族にどう詫びれば良いのだろうか。深夜に女子高生を連れ回すなど、本来大人として絶対にあってはならない事だ。
「あーそれはですねー、寝てました」
………………。
「あ、そう」
「えっ、なんで疲れた顔してるんですか?」
「いや別に」
「あ、もしかして怒ってます? ちょっと聞いて下さいよぅ、今日学校で試験があってですね!? 私だけ赤点で追加の課題が出されちゃって――」
そう、沙耶は学生。女子高生だ。毎日学校に通い、授業を受けて家に帰る。きっと明日も学校なのだろう。毎日家で自堕落な生活を送る私なんかとは大違いだ。
……思えば私たちはどうして出会ったのだろう? 幼馴染でもなければ同い年でもなく、ましてや同じ学校ですらない。そんな全く接点の無かった沙耶と私が、どうして今、こうやって手を繋いで歩いているのだろう。何度思い返しても全く不思議で仕方ない。そう、あれは確か2年前の朝……。
「たーかーこーさーん!」
「へっ? な、何?」
ボーっとしていた私を呼び戻そうとしたのか、沙耶は握った手をブンブン振り回していた。
「何? じゃありませんよぅ! 話ちゃんと聞いてて下さい! むーっ」
沙耶の白い頬がプクーっとふくれる。そのくせ口は尖らせているものだから、沙耶の顔はタコのようで……堪えられず、思わず吹き出してしまう。
「ぶふっ……ご、ごめんね? 話、聞き流してて……くふふ……」
「なんで笑うんですか!」
「だって……だって可愛いんだもの、ふふっ」
「はっ、はぁぁ?」
私の「可愛い」に反応して沙耶の顔が赤くなる。ますますタコのような顔になってしまった彼女に、「茹でダコみたいで可愛い」と付け加えると、肘でやや強めに横腹を小突かれた。余程恥ずかしかったのか、彼女はマフラーで目の下辺りまで隠し、強引に自分が話していた話題に戻してしまう。
「もう……それで、同じクラスの山田が先生にスライディング土下座をかまして」
「ちょっとちょっと、課題の話は?」
「え、もう終わりましたけど」
「えぇ……」
その後の話が重要なのに……と思ったが、また後で聞けばいいかと思い直した。そうだ、まだ時間はたっぷりあるのだ。
私たちは、その日あった出来事をお互いに話しながら、引き続き「いつもの場所」へと歩みを進めた。
*
いつもと変わらない朝。寝室から顔を出すと、キッチンで朝食を作る母に声を掛けられる。
「おはよ。まとめてあるから出してきな」
「うーん……」
洗面所で寝ぼけた顔を洗い玄関へ向かう。靴箱の傍には、既にまとめられたゴミ袋が1つ。私はそれを持って家を出た。
玄関のドアを開けた瞬間、元気な朝日が私の身体に突き刺さる。人の気持ちも知らない太陽は、真冬にも関わらず容赦なく私の心を焦がす。私にはその光があまりにも清々しくて眩しくて、薄暗い心が潰れてしまいそうで……思わず顔をしかめてしまった。
今日も始まる、始まってしまう。つまらない日常が。何度日を跨いだって、季節が巡ったって、やる事はいつも同じ。変わり映えのない、退屈で殺風景な人生だ。朝起きて、母の作ったご飯を食べて、ネットサーフィンに明け暮れて、また眠りにつく。家からほとんど出ずに自室で過ごす毎日。外に出る機会といえば、日課のゴミ出しの時ぐらい。
私の人生は、どこまでいっても灰色だ。
「おはようございます!」
背後から聞こえる、弾けるようなみずみずしい声。近所の高校に通う学生だろう。自宅に面する道路はスクールゾーンになっていて、朝はこの道を通学路として利用する学生は少なくない。
「おはようございますー!」
しかし私には関係のない事。むしろ騒がしくて困る程なのだ。ただでさえ太陽の眩しさで頭がぐらつくというのに、青春を謳歌する楽しそうな学生の声など……ずっと聞いていたら倒れてしまうかもしれない。
「おはよーぅ! ございますーぅ!」
……今日はやけにうるさい。早くゴミを放っぽって部屋に戻ろう。
「ゴミ持ってるそこの人!」
「へっ!?」
後ろから唐突に話しかけられた。声を聞く限り女学生らしい。早く帰りたいのだが無視するのは流石にどうかと思い、彼女の方を振り向く。
「何ですか急……に……」
そこに立っていた少女は、私より一回り小さく小柄で。
そこに立っていた少女は、シワのない紺色のセーラー服を身に纏っていて。
そこに立っていた少女は、長めの髪の毛を一本に束ねたポニーテールで。
「急じゃないです、ずっとあなたに挨拶してたんですけど」
そこに立っていた少女は、私にとって、直視する事もままならない程に魅力的であった。
おとぎ話や映画、マンガやアニメで散々語られてきた事は、現実でも起こり得る。私は今、身をもってそれを痛感した。雷に打たれたかのような衝撃を抱えながら、頭に浮かべた一文字。
それは、「恋」だった。
*
私たちが向かう先。それは近くの公園だ。滑り台とブランコと、大きさの異なる鉄棒が二つ並んだだけの、小さな公園。私たちは夜にこっそり家を抜け出し、ブランコに腰掛け、お互いに満足するまで他愛もない会話を交わし解散する、という生活を送っている。もちろん毎日ではない。私の母が起きている間は家を抜け出せないし、沙耶は学校生活の都合もある。そして何より、沙耶は未成年だ。本来、大人の私が未成年の沙耶を深夜に連れ回す事などあってはならない。しかし、沙耶の押しの強さに負けた。
……いや。私の方が、沙耶と話したかった……のかも知れない。
「やっぱ、ロマンチックですよね」
ブランコを小さく揺らす沙耶が、近くの街灯を見つめながら言った。
「ん、何が?」
「はぁ、貴子さんも乙女なんですから、乙女心をちょっとは磨いて下さいよぅ」
「あー……んー、ごめんね」
今日の沙耶はいつもより容赦がない。学校で嫌な事でもあったのだろうか……あぁ、課題がどうとか言っていたから、あったのか。
私は沙耶の機嫌をこれ以上損ねないように、考えてみる。
「ロマンチックねぇ……あ。大人に誘拐されて、遠くまで連れ去られたい気分! ……みたいな?」
間違いない、と思って沙耶の方を見たが、どうやらハズレだったようだ。
「貴子さん……そういうのがロマンチックだとか思ってるんですか」
「ち、ちがっ!」
私が今抱くイメージが表に出てしまったのだろう。現状、私は誘拐犯と言われてもぐぅの音も出ない。それが私の趣味だと言われてしまうのは腑に落ちないが。
「貴子さんは分かってないなぁ。こうやって親にバレないようにコソコソ会って、二人きりでお喋り出来る事が、ですよ! なんだか密会してるみたいでワクワクしません?」
「……沙耶ちゃんも大概だよ」
「なっ! 貴子さんよりマシです!」
沙耶が立ち上がって抗議する。しかし、密会がどうとか言われてしまっては、あまり説得力は伴わない。
……それに。
「まぁまぁ、座ってよ沙耶ちゃん」
「………はい」
沙耶はロマンチストだ。行動の節々からそれが窺える。
「沙耶ちゃん、少女漫画とか結構読むでしょ」
「んなっ、そん、そんな事ないですっ」
明らかに動揺している。「はいそうです」と言っているようなものだ。
「私を呼び出す方法が、『窓に小石を当てる』だよ? モロじゃないの」
まぁ、結構古くさい感じだけれど。
「ああ、寝坊する男の子を起こす感じの……でも少女漫画的に、その場面は朝じゃないですか。それに私は少女じゃないですっ」
「やっぱり読んでるじゃない」
「うぐっ」
それだけじゃない。今の時代、小さい子供に携帯を持たせる事だって珍しくない。流行に敏感な女子高生なら尚更だ。当然沙耶だって携帯は持っている。しかし、私たちは連絡先を交換していないのだ。知り合って2年経った今でさえ。沙耶曰く、「直接会う時間が減るのは嫌」らしい。
それに、2年前の“あの朝”、突然私に声を掛けた理由。後に聞く話によると、「運命を感じた」とか何とか。……実際、私も一目見て好きになってしまったのだが。それはともかく、沙耶はそれほど、ロマンというものを大切にしたがる子なのだ。
「とっところで貴子さん!」
「え、何?」
話題を逸らしたかったのか、沙耶は私の名前を呼び、強引に話の主導権を握り返してきた。ホッと一息つき、沙耶は私へ言葉を投げかける。
「私の事は良いんです、それより貴子さん! お仕事どんな感じなんですか!」
「……!」
一瞬で空気が冷え切ったのを感じた。というより、会話に夢中で今まで忘れていた冬の寒さを思い出した。沙耶はきっと感じていないだろう。私だけが感じている、現実に引き戻されてしまったような感覚。
これを沙耶に悟られてはいけない。
「あぁ」
もちろん順調!
……胸にズキリとした痛みを感じながら、私は精一杯の笑顔を作り、答えた。
*
私たちが会うのはいつも朝。私のゴミ出しの時間、そして沙耶の登校時間が重なる、僅か5分程度。私たちは“あの朝”から毎日、挨拶と世間話を交わす仲になった。しかし、伊達に長い間家に引きこっていない。家族以外の他人はもちろん、母とさえろくに会話しなかったため、コミュニケーションに関してのブランクは相当なものだ。加えて相手は、あろうことか一目惚れしてしまった相手。
『おはようございます!』
『おはっおおはおはおはよよよ』
私はしばらく、「まともな挨拶を交わす」という課題を掲げ、毎日を過ごしていた。自らの恋心は必死に隠しながら。
それから月日が流れ、普通の会話を交わせるようになり、そして。
『これ、受け取って下さい。お家に戻ってから開けて下さい』
『う、うん、ありがと?』
私が受け取った紙切れには「今日の夜、会いに行きます」と一文。私は予告通りやって来た沙耶に、自室の窓を小石でノックされ、連れられた公園で告白された。
……とても一生懸命な言葉だった。いつも元気で、ハキハキしていて、人との接し方を教えてくれた沙耶が。顔を赤らめ、目を泳がせどもりながらも、しかし確かに芯があって真っ直ぐな気持ちを私に伝えてくれた。私は、打ち明けられずにいた気持ちを伝える前に、向こう側から想いをぶつけられた。受け止めきれない程の喜び、驚き、そして「年下に告白させた」という不甲斐なさが織り交ざって、私は年甲斐もなく泣き崩れてしまった。
沙耶と出逢って約1年。私たちは付き合う事になり、2人の時間は夜の公園へと移った……それはいいのだが。
「このままじゃダメだよね」
人と会話できるようになった。徐々に自室に引きこもる時間が減ってきた。そうの上贅沢な事に、好きな人と毎日過ごせるのだ。これまでの私と比べれば大きな進歩。
しかし、結局私は、無職である事に変わりないのだ。沙耶が知ったらどう思う事だろう……失望されるに決まっている。当然だ、無職の大人と付き合いたいなんて、私でも思わない。それに、いつか2人でデートする時に、母のスネをかじって捻り出したお金じゃ示しがつかない。そこで私は決意した。
「就活! しなきゃ! だっ!」
善は急げだ。母から買い与えられそのまま使わなかったスーツをクローゼットの奥から取り出し、身に纏う。今から向かうのはハローワークだが、気を引き締める意味も込めて、スーツを着る。
「変な感じ……」
今まで着ていたのは、動きやすくゆとりのあるジャージやスウェットばかりだった。それに比べてスーツは、ピッタリと自分に張り付くような感覚だ。まだ慣れない服装と最低限の化粧に悪戦苦闘しながら、準備を進める。
ちなみに、沙耶と会う時間帯は早朝と深夜であるため、「寝間着だ」と言えば良い。そうやって私は、「外出用の服を持っていない」という事実を誤魔化せていた。
「……沙耶ちゃん、私の何を見て近づいたの……?」
改めて考えると分からない。会話もままならない上、常にだらしない服装だった私の何を見て、沙耶は……?
「いや、そんな事今はいいや。よし、準備……できた!」
新しい自分になるため、私は新たな一歩を踏み出す。灰色だった人生に彩りを与えてくれた沙耶にとって、相応しい人間になるために。玄関の外でまばゆく輝いているであろう太陽に、負けないぐらいの光を放つために。私は変わるのだ。
「よし……いってきま――」
「うおっと。あ、貴子さん」
「ふえっ!?」
玄関を開けたら目の前に沙耶が居た。フレッシュだったメンタルが一瞬にして凍り付く。
スーツ姿を見られた。そもそも昼に沙耶と会うのは初めてだ。本来沙耶はこの時間学校に居るはず。私の頭は「何故?」と「どうしよう」でいっぱいになった。
「な、なな、なんっ……で?」
「あぁ、今日は午前授業だけだったんですよ。それより貴子さん」
沙耶が私の恰好をまじまじと見つめている。何か聞かれる。私は何を言えばいい? どんな言い訳をすればいい? 先に謝った方が良い? 焦って決断が遅くなった私をよそに、沙耶の口が動いた。
「カッコイイ」
「ごめ……え?」
「カッコイイです! 貴子さんのお仕事謎だったんですけど、OLさんだったんですね!」
「え、あ、いや」
沙耶のキラキラした目が私に迫ってくる。純粋で曇りのない瞳に、スーツ姿の私が映る。
「口下手なコミュ症……その代わり仕事は黙々と、それでいて誰よりも沢山こなす! そういう系の隠れエリート……だったんですねっ!」
眩しい笑みを浮かべる沙耶の無邪気な問い掛けに、私は。
「………………実は、そ、なの」
真実を告げられなかった。
*
「今日はどんなお仕事を?」
「うーん、会社の事はあんまり深く言えないんだけど……まぁほぼ事務作業かな」
「へぇぇ、そうなんですね!」
あの時から変わらない、キラキラした目。それは暗い夜の公園でも輝いていた。
「すごいなぁ貴子さんは。そんな貴子さんが好きですよ、えへへ」
こんなにも弾けた笑顔を浮かべる沙耶に、本当の事なんて言えない。本当はまだ就活中で、今はアルバイトをしているだけなんだ、なんて……。
「ぐっ……」
でも、言わなきゃいけない。仕事の話題が出ている今がチャンスだ。
「「あの!」」
「あっ……何? 沙耶ちゃん」
呼びかけが被って、沙耶に話題を譲ってしまった。また、逃げてしまった。申し訳なさで沙耶を直視できない。思わず顔を俯けてしまう。そうしている間に、沙耶はブランコから降り、私の前に立っていた。沙耶は右の拳を私に突き出し、言った。
「これ、渡そうと思ってたんですっ」
拳の中に何かあるようだ。私の手の平を拳の下に置いてあげると、沙耶はゆっくりと手の力を緩めた。私の手に何かが乗っている感触がある。
「ん……これは……」
いつから握りしめていたのか分からないが、沙耶は1枚の紙切れを私に渡してきた。強く握られたのかくしゃくしゃで、ほんのりと沙耶の温もりが残っている。
「それ、受け取って下さい。お家に戻ってから開けて下さい」
……これは、私に告白した時と同じやり方だ。きっと何か、とても大切な事を私に伝えたいのだろう。
「分かった、けど……やっぱメールが楽なんじゃ……」
「形が残る方がロマンチックでしょう!」
「またそれ……」
「呆れられた!?」
……呆れてなんかいない。むしろ尊敬している。私も沙耶に伝えたい事が――伝えなくてはいけない事があるのに、私は今までずっと切り出せていない。告白だって、仕事の事だって。女子高生の沙耶に出来る事が、いい年した大人の私には出来ない。たったそれだけの事が、ただただ悔しかった。どこまでも真っ直ぐな沙耶が、とても眩しかった。
「あ、もうこんな時間……」
沙耶が携帯を眺めて呟く。私も自分の携帯で時間を確認してみると、もう1時半を回っていた。
「帰りましょうか、貴子さん」
「……うん、沙耶ちゃん」
次こそ、次こそは正直に話そう。きっと、必ず。私はその覚悟を心に強く刻み、ブランコから立ち上がった。
「行こっか」
「あ、待って下さい、最後に一つ」
「な」
に? と発する事が出来なかった。私の口は塞がれた。
「……ん」
沙耶の柔らかくて、温かい唇に。
片方で私の手を、もう片方で私の肩を掴み、小さな身体をつま先立ちで持ち上げ、一回り大きい私の口元に沙耶はキスをしてみせた。
「……ぷぁ」
それは数秒の出来事だったが、唇に感じた温もりは、沙耶の息遣いは、この心臓の高鳴りは、深く深く脳裏に刻まれた。
「どうですか、私のファーストキスなんですけど」
「ど、どうって……え?」
自信たっぷりにファーストキスを主張する沙耶の顔は、何故か涙で濡れていた。
「どうしたの沙耶ちゃん!?」
慌ててポケットのハンカチを沙耶に差し出す。沙耶はそれを受け取り、とめどなく溢れる涙を拭いながら答えた。
「あ、や……なんか、嬉しくて……ぐす」
……そうだ。沙耶は、どれだけ私よりすごくても、どれだけ私よりロマンチストでも、どれだけ私より駆け引きが上手くても、本質は1人の女の子なんだ。感極まる事だってあるんだ。私だって、沙耶と初めてキスできて泣きたくなる程嬉しいんだ。好きな人と繋がるって、そういう事なんだ。単純でいいんだ。
「沙耶ちゃん……ありがとう、私も沙耶ちゃんが大好き」
「貴子さん……うぅぅ、好き……!」
私たちは、気持ちが落ち着くまでしばらく抱き合った。お互いの存在を確かめ合うように、お互いの温もりを求め合うように、強く抱き合った。
「沙耶ちゃん」
「……はい」
「きっと幸せにする」
「っ!」
その言葉は余りにも自然に、私の口からこぼれた。フリーターのクセに調子のいい事言って……と思わなくもないが、今はこの言葉が必要なのだ。そんな気がする。
「……貴子さん、約束ですよ」
「うんっ」
それから私たちは、また少しの会話を交わし、その場で解散した。私の家と反対方向に自宅がある沙耶は、私に背を向け歩き始めた。私は沙耶の背中が見えなくなるまで見守っていた。
「じゃあまた! ゴミ捨ての時にー!」
遠くにいる沙耶に声が届くよう、少し声を張る。沙耶は振り返らず、右手を振るだけだった。微かに、私が渡したハンカチを振っているのが見える。
「あ、ハンカチ返してもらってない……まぁいいか、明日で」
沙耶が見えなくなったのを確認して、私も自宅へと歩みを進めた。
明日沙耶に何て言おう。明日沙耶はハンカチを持ってきてくれるだろうか。明日の朝と夜、いつ仕事の事を切り出そうか。受け取った紙切れには、何が書かれているんだろうか。次に沙耶とキスできるのは……いつだろうか。帰路に着くまでの間、私は未来の事ばかり考えていた。沙耶が照らしてくれた明るい未来。俯いて塞ぎ込んでいた私に、前を向く事を教えてくれた私の恋人。沙耶がいる限り、どんな未来だってきっと楽しい。今までの私なら絶対思わない事だが、今は言えるのだ。
「明日が楽しみだー!!!!」
うずうずしてしまう身体を無理矢理ベッドに放り、目を瞑る。寝転がった後で沙耶から貰った紙切れの中身を読んでいない事に気付いた。しかし。
「いいや、明日明日っ」
今は早く寝てしまいたいのだ。
「おやすみ」
枕元に紙切れを置き、目を瞑る。まだ見ぬ明日へ希望を抱きながら。
「また明日ね……さやちゃ……」
この時の私は知らなかった。
何も知らなかったのだ。
「明日」など来ない事を。
*
「おはようお母さん!」
「おはよ。あんた最近元気ね?」
「まぁね。じゃあゴミ捨ててくる!」
「うん、玄関にまとめてるから」
「はーい、いってきます!」
玄関のドアを開けた瞬間、元気な朝日が私の身体を迎え入れる。きっと太陽は私の気持ちを知っているのだろう。真冬の寒さに負けない日差しが私の心を熱く燃やす。その光はあまりにも清々しくて眩しくて、私の心に呼応しているようで……思わず笑みを浮かべてしまった。
今日も始まる、始まってくれるんだ。未知の日常が。何度日を跨いでも、季節が巡っても、全く同じ日なんて無い。新鮮で何もかもキラキラして見える人生だ。朝起きて沙耶と話して、バイトと就活に奔走し、また沙耶と話して、1日の出来事を噛みしめながら眠りにつく。積極的に何かに挑戦する毎日。新たな発見、新たな喜びに満ちた毎日。
私の人生は、どこまでいっても明るく、終わりなんてないんだ。
……そう思い始めた今日の日から、沙耶は私の元に姿を現さなくなった。
沙耶が残した紙切れには、「いつか私を迎えに来て、私がいつもやってたみたいに」とだけ書かれていた。
「沙耶ちゃんはどこまでも……ロマンにこだわるのね……!」
ご近所さんによると、沙耶はどこかへ引っ越したようだ。どうやら転勤族らしい。2年前この町に来たのも、きっとご両親の都合だったのだろう。つまり沙耶は、私と離れる事を知っていたという事だ。
私と沙耶が最後にあったあの夜に勇気を振り絞ってキスをしてくれたのも、振り向かず私のハンカチをはためかせたのも、全ては「別れ」を暗に示していた。
「……ぅぅ」
私は何も知らなかった。
「ぅう、うう……」
「明日」は、勝手に来るものじゃない。
「カッコつけて勝手に消えちゃって……ぜぇったい追っかけて捕まえる!」
自分で、掴み取るものなのだ。
*
某日某所。
『ええ、担当教授の志村と申します。お母様、実は谷口さ……沙耶さんが、ここ3日程大学を無断欠席をしておりまして。はい、何かご存じないかと思いお電話させて頂いた次第です。……深夜に家を出て深夜にまた帰ってくる? なるほど。まぁ難しい年頃です。今まで真面目に勉強してきた分、今は遊びたいのかも知れません。デリケートな問題ですから、慎重な対応が必要でしょうが、このままだと落としてしまう単位がある事だけ、伝えておきます。沙耶さんには今一度、注意と指導を行いますので、よろしくお願いします。では』
ガチャン。
「はぁ……沙耶ったら、急にどうしちゃったのよ……」
「……」
「何とか言ったらどうなの? 沙耶、アナタ不良になっちゃったの?」
カツン、カツン。
「……!」
「コラ沙耶どこ行くの! まだ話は終わってないよ!」
「……私は不良じゃない」
「じゃあ何なのさ!?」
「恋してるの」
ガチャ、キィィ、バタン。
「……はぁぁ?」
読んで下さってありがとうございます。誰かの琴線に少しでも触れられているのでしたら幸いです。