07 記憶の手掛かり
天井を見据え知らずに知らずに強張っていた体は、息を吐くことでゆっくりと弛緩していく。
ふと、左に視線を動かすと、カーテンが半開きになったバルコニーに続く大きな窓が見える。
右に動かせば壁一面の書棚にそこそこの数の蔵書が並んでいる。ディアナは生前の私と同じように読書が好きなようだ。
さらに下に視線を動かすと、ベッドサイドに寄せた椅子に体を預け、うつらうつらと舟を漕ぐお兄様の姿が見えた。
私を心配して付き添ってくれていたのだろうか、ご自分も次期公爵としての務めがあるはずなのだけれど。
最初は、誰この人、と思ったけれど、ルシィにキアラン様と呼びかけられ振り向いたお兄様の顔をみて、私の兄であることを認識した、それに伴い付随した情報が記憶の引き出しから引っ張り出された。
カイとルシィもそう、二人が会話の中で呼び合う名を聞き、名前と顔が一致したところで彼らに関する情報が頭の中でクリアになり、彼らに対する私の認識や感情も自然と思い出した。
でもそれだけ、お兄様もカイもルシィも私にとって大切な人だということはわかるけど、そうなった経緯、記憶、思い出のようなものは、すべて思い出したわけではなく、曖昧な部分が多くある。
そういう部分は追々思い出していくのかもしれないし、そのまま記憶の引き出しに仕舞われたままになるのかもしれない。
そうなってしまったのは、私に芹那の記憶が蘇ってしまったからだろう。心の容量を超える記憶が溢れてフリーズ状態になってしまったかなと思う。
でも、目の前にいる大切な人たちとの歴史を思い出せないのは、ちょっとどころではなく淋しい。
記憶の手掛かりになるものがあれば良いのに…と眠るお兄様の顔を見ながら唇をかんだ。
* * * * * * *
どれくらいそうしていただろう。
転寝をしていたお兄様が小さく身を震わせた。春とは言え夜はまだ冷える。改めてお兄様をみれば寝衣にガウンを羽織っただけで、このままでは風邪をひいてしまうかもしれない。
私はもう大丈夫だし、お兄様にはお部屋に戻ってちゃんと寝台で休んでいただいた方がいいだろう。
起こしてしまうのは忍びないけれど…と思いながら呼びかけた。
「ぉ…に…さ」
唇が乾き、喉が引きつってしまい上手く声が出ない。
けれど、掠れた声を聞きつけたお兄様は弾かれたように身を起こした。
ベッドに横たわったままの私に近寄ると、両手で頬を包むようにして、顔を覗き込んだ。
「ディア……目が覚めたんだね、良かった…」
さっきは驚いてしまった過剰なスキンシップが妙に心地よい。
ああ、私、疲れてるんだな……寝てばっかりだから体は疲れてないけど、心が。
「……ぃ…」
「ああ、辛いなら無理に話さなくてもいい」
黙ったまま、お兄様を見上げる。
「気分はどう?気持ち悪かったりする?」
ふんわりと額をなでる優しい手、気持ちいい。
首を振る。
「どこか痛いところはある?」
頬をなぞる指がくすぐったい。
首を振る。
「そう、良かった…欲しいものはある」
「…ず」
「水だね、分かった。ちょっと待って」
お兄様心得たとばかりに頷くと、立ち上がり、吸い飲みを手にして戻ってくる。
視線をやると、サイドテーブルの上にはランプと水差し、タオル、洗面器、看病に使ったであろうと思われる雑多なものが置かれている。
「このままじゃ飲めないから体を起こすよ」
背中に手を差し込まれ、上体を起こしてもらう。
お兄様は私を抱え込んで、そっと吸い飲みを唇当てた。
口内を潤す水はぬるい。けれどとても甘く感じられる。
こくりと嚥下すると、喉を通って胃に落ちるの分かった。
二口三口と飲み下し、息を吐いた。
「も、いい」
喉を潤したことによって漸く声が出るようになった。
吸い飲みを手にしたまま私の様子をうかがっているお兄様に話しかける。
「お兄様、心配してくださってありがとうございます。もう大丈夫なのでお部屋に戻って休んでください。そんな恰好では風邪をひいてしまいます」
慎重な手つきで私の体をベッドに横たえると、お兄様は立ち上がって吸い飲みをテーブルに戻し、その隣にあったランプを手にして書棚を見上げた。
「ふふ…」
「お兄様?」
「いつも思うんだけど、ディアはとてもおおらかなのに、時々妙に几帳面だね」
「?」
「うっかりも多いのに、蔵書はきちんと分類してきっちりしまってある」
上から下へ、書棚を見回すように首を動かす。
ふと書棚の中段あたりで動きを止めると、ガラス扉のついた棚を覗き込むようにランプを寄せた。
「この日記も古いものから順にきちんと並んでいるよ」
「日記…」
「日記の入っている棚はきちんと施錠してあるなぁ、本当に変なところで几帳面だ。そんなことしなくても読んだりしないのに」
そういいながらランプの灯を落とし、ガウンを脱いでベッドへと上がってきた。
「お兄様…?」
「わざわざ部屋に戻らなくても、こうすれば風邪を引いたりしないだろう」
するりと、音もなく私の隣に潜りこみ、身を寄せる。
左腕の肘枕で頭を支えると、こちらを見ながら右手で額をなでる。
「………」
月明かりに照らされたお兄様はこの世のものとは思えない美しさだけれど、
先ほどのように恥ずかしいという気持ちは起きなかった。
触れる手はあくまで優しく、アイスブルーの瞳は柔らかな色を湛えている。
小さなころから慣れ親しんだ兄の心地よい温もり。
「ディアナ」の知っている大好きなお兄様がここにいる。
「昔は日記を書いては見せに来てくれたよね」
「僕がいない間のディアの事が知れるのが嬉しかったな」
「いつの頃からか見せてくれなくなって、すこし淋しかったよ」
ぽつりぽつりと思い出すように言葉を紡ぐお兄様。
お兄様の声はとても耳に優しくて、心地いい…まるで子守歌のよう…
うつらうつらしながら、そんなこともあったんだなぁ…と幼い頃の「ディアナ」に思いを馳せる。
……ん?なんか今すごく大事なこと聞いたような?
「淋しいと言えば、今日のディアはちょっと他人行儀で淋しいな」
「口調が固いし、いつもはもっと気安いだろ」
「まぁそういうディアも可愛いんだけどね、ってどうしたの?ディア」
「私の日記…?」
「そうだよ、ディアが文字を習い始めたのは5歳だっけ、文字や文章の練習になるから短くてもいいから毎日書くようにと父上に言われただろう」
そうだ、確かにそんなことあったはずだ。
まっさらな日記帳を貰ってディアナはとても嬉しかった。
「書いた日記は添削の意味も込めて父上か僕に見てもらうようにと」
そう、そうだ。
お仕事で忙しいお父様はもちろん、学業で忙しいお兄様ともいつも一緒にいられない。だから、一日の報告のような日記を書いては見せていた。
「まぁ日記を人に見られるのは恥ずかしいよね、僕も父上に見てもらっていたけど、いつからか見せるのは止めちゃったよ」
小さなころは何も考えずに見せていたけれど、だんだん恥ずかしくなってきてみせるのをやめてしまった。でも、日記を書く習慣は変わらず、どんなに短くても毎日書いていた…はずだ。
「その頃には添削してもらう必要もなくなってたし、父上も分っているのか何も言わなかったけどね」
日記…記憶の手掛かり…良かった、大丈夫、ディアナありがとう。
安堵が私の身を包む。
「…ディア?寝ちゃったの?」
お兄様の声が遠い。
柔らかな抱擁、心地よい温もり。
訪れた睡魔に私は抗うことなく身を委ねた。




