7.その日
自分でも不思議な事だが、シゴウの腕の中に心地良さを覚えているんだ。こんな感じで、頭の上で静かな寝息を聞いていると尚更。
腹で動く硬質な物体…まあ、卵なんだろうが、その存在がひどく愛おしい。自分の遺伝子が入ってるんだから当然と言えば当然なんだが…
そうだな、シゴウと俺と子と。三人ここで暮らしていくのも悪くないな。
正直、人間の社会に未練はない。
未練どころか…恨みすらあり、戻りたいとは思えない。
いくら名家と言われる家系でも、国主の反感を買ったらおしまいさ。魔物と結託して国家転覆を企んでるとか言う、あらぬ疑いを掛けられて、名と顔の知れた街は歩けなくなっちまう。
当然、そうなれば国にも居られなくなる。
事実、俺らが夜逃げした晩に蜂起した国民達による討ち入りがあったからな、ちょっとでも脱出が遅れてれば俺はその時に死んでた。俺がまだ九つか十くらいだった頃の話だ。
両親と俺の三人。父親は逃亡中に魔物に襲われて死んだ。自分を囮にして、俺と母親を逃がしたんだ。
数日後、母親は熱病を患って死んだ。森の中だったから、恐らく何らかの毒にやられたんだな。
一人になった俺は、血と泥にまみれながら森を彷徨った。彷徨って、一匹の狼と出会った。
狼は、何も言わず身体を伏せた。
ただ一言、『乗れ』と言ってくれた気がした。痩せ型ではない子供だった俺を背に乗せて移動するのは辛かったろうに、半日ほどかけて小さな教会に連れて行ってくれた。
生まれつき、何となくだが生き物の気持ちが分かる。そして、俺の気持ちも伝わる。家畜だけじゃない、魔物もそうだった。これが出来なかったのは人間だけだ。
生まれ持って、魔物使いの素質はあったんだろうな。
扉を叩いて出てきたシスターに名乗ると、途端に顔を曇らせて『その名を捨てなさい』と言われた。討ち入りを受け、粗方の家人は殺されたが、死亡の確認できなかった者は国が指名手配しているのだと言う。
失意と怨嗟の中で、俺は名を捨てた。
教会では五年ほど世話になったのかな。国境には近かったから、隣国の街で戦職を登録し、冒険者としての認定を受け、魔物使いとして人里離れて十数年。魔物と交流する事で、人間に負わされた心の傷が癒えていく。
領地を追われた経緯を考えれば滑稽だよな。
そしたら…最下級の魔物に群れで襲われて死にかけてる奴らと出逢うだろ。まあ、どうせ冒険者なら最寄りの教会で生き返れるから放っといても良かったんだがな。今更ながら思うに。
…あの三人組と出逢わなけりゃ、何してただろうなって思う。
そう考えると、今この城での生活は悪くない。
ぼんやりと、回想の海から浮き上がって来た頃合だった。
「ぅ…ぐっ」
寝息を立てていた、俺を包む浅葱色の鱗が小刻みに震え出す。朝の日が帯を成して世を染め上げていく頃合の事だった。
「こ、近衛!陣つ…陣痛…だよな?」
思わず怒鳴ってしまった。
「ウォルド様は衣服を召されて下さいませ!私は、皆に連絡を」
慌てて下履きを捌く俺を他所に、オークやらガーゴイルやらグリモワールやらといった側近達が詰め掛ける。なにやら寝床に装飾を施しているようだ。続いて、この城では見ない顔…シゴウが主導の同盟の、加盟諸氏族がぞろぞろと入ってくる。
…魔族の出産て、親族だけじゃなくて来賓も立ち会うんだな…
「ウォルド様、シゴウ陛下からはお聞き及びでしょうか?」
エドワース、だったか…グリモワールの内務官が口早に問う。
「妊娠期間は三日とは聞いたぞ」
顔色が、変わる。憔悴ではないな、覚悟を決めた顔だ。
「…畏まりました。では、お取り乱しにならぬよう。あとでゆっくりと、どれだけ問い詰めて頂いても構いません。陛下ご自身も、そうお望みでしょう。ですが今は…ただ、お見守り下さい」
まあ、出産は旦那がしっかりしないと…とは、よく聞く話だからな。一つ頷き大きく深呼吸をすると、俺はシゴウの枕元へと向かった。
「おお…ウォルド…」
鱗にうっすらと汗が滲んでいる。
「シゴウ、大丈夫だ。俺はここにいる」
寝台には装飾があったし、この混雑の中で抱き着く度胸も無かったが、せめてもと手を握る。あれだけひんやりしていた緑の鱗が、熱病でも患ったかのように熱い。
近隣の同盟諸氏は昨日のうちにある程度挨拶してあるから、人間の俺がいても不審に思う者はない。昨日いなかった遠方のそれらは、幾分か訝しげではあったが。
最後にサイクロプスやベヒモスなど大型の同盟諸氏が入り、空いたスペースに横たわると、入口の扉が閉められる。
やたら天井の高い、広くて落ち着かない寝室だと思ったが、この時のために広く作ってあったのかも知れんな。
「皆様お揃いですね。では、これより封玉の儀を執り行わせて頂きます」
寝台の足元に立ち、執り仕切り出したのはエドワース。
…なに、封玉…?
「ご詠唱頂ける方は、どうぞご参加下さいませ」
そうとだけ言うと、右掌から生えるように現れた巨大な魔書を広げる。本の中程のページを開くと、淡い青色の靄を発しながら巨書が中空へと浮かび上がる。
と、時同じくして幾多の声が輪唱のように同じ呪文を唱え始める。
これは…治癒?違うな、『痛覚軽減』か。仲間だった僧侶が昔、消費魔力が少ないからという理由で乱用していた時期があったから、詠唱の文言に聞き覚えがあった。
…ちょっと、釈然としないかな。人間の感性で言えば、この産みの苦しみがあるからこそ我が子への愛も深まる訳で、この痛みには意味があると思う。
わざわざこのアウェーの場で問い質したりはしないがな。
詠唱が始まって数分しただろうか、苦悶に歪んでいた竜の顔が、安らかに眉根を開いた。眠りについた訳では無い。うっすらと瞼を開け、ゆっくりと周囲を見回している。
ここで、俺の肘を引く手が。近衛のガーゴイルだ。
「ウォルド様、今はお下がり下さい。これより諸氏の方々がシゴウ陛下にご挨拶なさいます」
…??いや、意味が分からん。まあ、言葉には従うが…いや、
…ま、さか。
「シゴウ大兄、ご無沙汰してしまった。まさか再開がこの場とはな…我がウラーテコ氏族の加盟は、次代も約束しよう」
慌てて『交渉』を発動させて聞き取れたのは、それくらいか。樹女精が俺と同じようにシゴウの手を握り、そっと離れていく。
「覚えておられるか、陛下。貴方の英断により傘下へと下った我らスケテエの一派を」
ずんぐりとした二足歩行の髭の生えた蛙…ヴォジャノーイだな。両手でシゴウの手を包み、熱心に語りかけている。
「感謝の意を伝え切れぬまま、この時を迎えてしまった。次代ではきっとーー」
…次第に良からぬ予感が容積を増していく。
「陛下、お勤めご立派でございました…」
「同盟はお任せ下さい…」
こんな内容ばっかりだ。あたかも、これからシゴウがーー
天井に擦るため、横ばいのままサイクロプスがシゴウの手を指に取る。やはり「加盟は継続、お勤めご立派」という内容。これで、挨拶は最後になるな。
「では、ウォルド様…最後に陛下のお手を取って頂き、お祈り申し上げて下さい」
ガーゴイルが背を擦り、促してくる。
最後…最後って、なんだよ…
足の骨が鉛とすげ替えられたのではと思う程に重い。わずか数メートルなのに、遠い。
下顎らへんから、頬に痺れが走っている。
的中して欲しくない予想が、次から次へと脳みそを駆け巡る。
ようやく、手を握った。
「なあ、シゴウ…嘘、だよな?」
口を開く元気もないのか、薄く開いた口腔からは重い吐息が漏れるだけだった。
「やめろよ、こういう冗談。そんな、せっかく出逢えたのに」
鼻先が俺を指す。
「ひでぇよ…何も言ってくれなかったじゃねーか」
微かに、目が笑った気がした。
と、次の瞬間ーー
「…ぇうっ!!」
ビクリと竜の体が跳ねる。『痛覚軽減』の詠唱に、力が籠る。呼吸が不規則で、粗い。
「はーー…はーー…ウォ、ウォルドや…」
「いい、しゃべるな!」
「儂は…お前に、会えて…良かった」
やめろ、最期みたいな言い方するな!
「ありが、とう…愛し」
急に、手が重くなった。俺を見ていた瞳が、中空へと投げ出される。
「馬鹿…野郎…なんで、言ってくれなかったんだよ…」
熱い水が、頬を縦一筋に濡らす。
馬鹿…本当に、馬鹿野郎…
何で黙ってたんだよ…俺は、お前の何なんだよ…
俺だって、お前の事ーー
言葉に出来ない言葉。もう、聞かせられない、言葉。
過ごした時間は少なくても、俺には『意思疎通』がある。千の刻より、万の言より、それは如実に互いの心を伝え合う。
だからこそ、俺はーー
「皆様、ありがとうございました。これにて封玉の儀は仕舞いでございます」
静かに、穏やかに、魔書の声が耳を透けていく。
突然、ボキボキと場にそぐわぬ音が聞こえる。俺が握る右手が、肌掛けの中に消えていく。
見慣れた顔が、肌掛けの中に埋もれていく。
何が起きているのか分からない。ただ、シゴウの亡骸が縮んで行き、見守る大衆の中で俺だけが混乱している。
すっかりシゴウを飲み込んだ肌掛けには、ポコリと小山が残った。
これは…卵か?
「ご来誕は明日の昼頃になると思われます。皆様はどうぞ、階下でお寛ぎ下さいませ」
盟主が死んだというのに、どいつもこいつもさっさと部屋を出て行きやがる。魔物には死者を悼む習慣はないのかね?
「…シゴウ陛下のご種族は、『封玉竜』と申します。生殖についてはご覧の通り、全身全霊で以て唯一つの卵を産み、己が肉体を次代の糧となさるのです。肉体は次代を包む殻となり、我が子を守る鎧となりますから…遺体と呼べる物は、この殻だけと言う事になります」
壁に背を預け、呆けた瞳の奥に憤りを宿しつつ座り込む俺の横に、エドワースが倣って腰を下ろす。
「妊娠は死の宣告と同義、か。何故、シゴウは俺に何も言わなかったんだろうな」
『痛覚軽減』は、死の痛みを少しでも和らげるため。氏族達の挨拶を、聞き届けるため。
今、やっと分かった。
皆、分かってて、俺だけが、知らなかった。
「知っていれば、どう出来ましたか?」
え…
「陛下は妊娠をご希望でした。しかし…『妊娠したので三日後に卵を産んで死ぬ』と知れば、貴方はどうお考えになるでしょう?ご自分で陛下に死の宣告を与えてしまったことに、後悔なさるのではないでしょうか」
……
「私は本で知ることは出来ても、あなた方の倫理も道徳も、生の知識では存じ得ません。貴方が死を悼むのか死を歓ぶのかも分からず、陛下への進言も控えておりましたが…先程のご様子であれば、私が陛下の立場であっても言えなかったかも知れません」
人間の中には、死は肉体を捨て自由へと還る儀式の途上であり、神の祝福のもと歓ぶべきであるとする宗教もある。
…ごく少数ではあるがな。
確かに、人間社会の知識がなければ危惧して然るべき案件ではある…
「儀にお集まり頂いた皆様は、これ以後の顛末もご存知ですから、貴方を責める事もなく、あの様に速やかにご移動なされたのです」
これ以後の、顛末…
寝台に目を遣れば、ガーゴイル達が肌掛けを捲り上げている所だった。上質な絹から顔を覗かせたのは、ほのかに藍の差した、俺の頭ほどのすべやかな球体。卵…なのだが、俺にはもうシゴウの遺体にしか見えなかった。
「此処より作法はございません。私共は席を外させて頂きますゆえ、御玉…シゴウ陛下とお過ごし下さい。触れるも抱くもご自由にして頂いて構いませんが、どうか丁重に扱って頂ければと存じ申し上げます」
エドワースが腰を上げる。
「私共は隣室に控えております。もし御玉に何かあれば、お呼び下さい」
俺と卵に頭を垂れ、側近達が部屋を後にする。
…俺と、『シゴウだったもの』だけが残った。
こんな時に思い出すのは、あの歳不相応に求愛してくる魔王の姿なんだな。「ウォルドや…早う、身悶えしてしまおうぞ…」「ウォルド…嗚呼、ウォルドや…」あいつのあの声が、妙にリアルに耳に響く。
まるで蜜の匂いを嗅ぎつけた羽虫のように、俺はふらふらと卵に歩み寄る。
触れる。
…暖かい。
胡座をかいた足の上に載せる。両腕で、抱え込む。
トクン…心なしか、殻を鼓動のような震えが伝う。まるで、中身ではなく殻が脈打っているような錯覚に陥る。
…いや、願望かな。シゴウの死を、受け入れられてない。
また一筋、涙がこぼれる。知ってしまった温もりを失った苦しみは、深く、重い。
目を伏せる。シゴウの声が聞こえまいかと。
『意思疎通』を発動させてみる。
なんだか、優しく柔らかな感情が俺を包む。
ーーやけに、眠い…
……
………
ブルンッ
…!?
今度は確かな振動。思わず飛び起きちまった。
時間は…なんと、黎明の薄明かりが差し込んでいる。つまり、半日近く寝てたって事になる…
いつの間にか俺は身体をくの字に曲げて、腹に卵を抱え込んで横になっており、不思議な事に下履きを脱ぎ捨てていたんだ…何があったんだ、俺に…
ブルンッ!
まただ!今度は肉眼で確認した。
「…おーい」
卵のてっぺんを、扉をノックするように叩く。
まさか、返事なんかーー
「はいっ!」
はい!?