6.エドワース
はぁ…ウォルド…ウォルド…愛しいぞ、ウォルドや…
「…か!へいか!」
あの、知性と優しさ、雄々しさを宿す瞳…心地好く耳孔を震わす柔らかな声色…ふっくらと、しかし逞しく筋肉を蓄えた腹…艶を添えるように、全身にまばらに生えた体毛…切り結んで伝わった、鍛え抜かれた膂力…なにより、人間にとっての敵である我らと腹を割って話す器量…
嗚呼、讃えきれぬ…
「陛下!…全く…」
あの暖かな体温が、まだ腕の中に残っておる気すらする…早う帰って来んじゃろうか…
「へ!いか!!」
「妙な所で区切るでない!!」
…ん?エドワース?
「こうでもしなければ、話が進みませんでしょう?昨日『受胎』も済まされ、時間も無いというのに…」
あ、あー、そうじゃったな、うん。今後の指針についてじゃったな。ゆったりと腰を包む一人掛けソファの肘掛を頼みに頬杖を突き、硝子張りの机を挟んでこちらを睥睨する同胞に苦笑する。
事務参謀、グリモワールのエドワース。縁の初めが先々代という、我が城でも古参の者。人型…と言うよりはエルフ族に近い長身痩躯と褐色の肌、ゆったりと全身を覆う長めのローブ姿に長い黒髪が印象的な、知慮に長けた彼を儂の執務室兼私室に呼び、様々と打ち合わせておったところじゃ。
日も高く、影が短くなる頃合。近衛に命じてウォルドに城を案内させておる。一刻も離れたくはないが、あやつに聞かせたくない話もせねばならぬ。まあ、これも儂の務めじゃでの。
「内務については私が今まで通り執り纏めて参りますのでご心配無きよう。同盟諸氏族には昨日のうちに通達、近隣の諸卿はすでに城に入っております」
「ふむ、御苦労。いつもながら仕事が早くて助かる」
数千ページはあろう分厚い本をパラパラとめくり、視線も上げずに、
「褒め言葉には値しませんからね?陛下。一体、何年やってると思ってるんです」
まあ、確かに。
「お見逸れしました、父上」
わざとらしく机に三指を揃え、ぺこりと頭を下げてみせる。
「なっ!?ま、また…こういう時だけ調子良く…!」
真面目で堅物な此奴にはこの手が一番よく効く。たまの多分に失敗例もあるが。
父、というのは比喩でも誇張でも脚色でもない。儂の実父だ。それにしては儂の方が年老いて見える。此奴は背筋もシャンとしておればシワもシミもない、人間の目線で言えば青年と呼べる外見をしておるからの。
これはひとえに、グリモワールが用いる特殊な生殖のためじゃろうな。
自我持つ魔書の種族グリモワールは、生殖に際して本を書く。厳密には、真っ新な本を自らの魔力で錬成し、自らの血液をインクとして子の特徴を文章として書くのだ。そして書き上がった本に己の精を込めれば、新しき生命は誕生する。
エドワースが行っておるのは、これを自伝で行う生殖…と言うよりは延命法…まあ、クローニングという奴じゃな。
理解を誤れば、単なる熱烈なナルシストにしか見えんが、グリモワールという種族では珍しくない手法との事じゃ。
これにより永き時を生きてきた訳じゃが、儂の先代の時に機会があっての、その…
自分のページを破って突っ込んだのじゃ、先代に。
儂の種族は、遺伝情報さえあれば髪の毛一本でも受胎は成立するため、まあ…無理やり妊娠させられた形になるかの。
とはいえ手の付けれん暴君で、種族の禁とされる他種族への積極的侵略を幾度となく繰り返した罪で投獄された後での、止むを得ぬ処罰として…じゃった故、同盟諸氏らもこの処置に異論は出さんかった。
子は、この相手方の性格を強く遺伝する。外見は自種族じゃがな。ゆえにエドワースの子である儂の性格はグリモワール譲りで温厚かつ理知的、しかし外見は竜のまま…となる。
これによって暴君は滅し、組織は構成をそのままに新しい統領を得る事が出来る訳じゃな。
『封玉竜』…これが儂の種族の名じゃ。
「…例の件、見通しはいかがでしょうか?此度は陛下に免じて、という事も考えられましょうが、次代に先送りした所で解決には至りませんよ」
ほのかに薄紅の残る頬が、現在最も触れたくない急所を抉ってくる。
「全くもって浮かばん。恐らく儂の首一つでは贖い切れんじゃろうな…同盟諸氏に知恵を尋ね、それでも良案無くば…我ら総員が首を以て許しを乞う他あるまいな」
「難題すぎますよ、灼烙公も…では、本当にせん方なき場合は…首を差し出すまでの束の間、平穏を享受せよと通達します」
「皆、死ぬか」
目にも止まらぬ速度でペンを走らせつつ、こちらをちらりと伺う。重苦しい沈黙こそが答え。
…上司の戯れでの指令というものが、一番タチが悪いのじゃ…
魔界にも労働基準局、できんもんかのう。
「ウォルド陛下にはご内密にしておきますか」
「よせ…まだあやつの反応が分からんうちから陛下などと呼ぶのは。将来的にこの城から去るのであれば言うべきでもなかろう。儂は、あやつと出逢えただけで満足なのじゃから」
健気…そうやも知れん。驚かれたかの?魔物でも、ささやかな幸せに満足するという人間に似た感情を持ち合わせておるのじゃよ。
「では…あなたの件は?」
本当に、寿命の縮む話題ばかりじゃな。
「…ノリ、じゃわ。」
「畏まりました。言えなければ、私の方からお伝えしておきます」
「世話をかけるのう」
「貴方は、聡明で優しい方だ。しかし…それが時に他者を傷付ける事をお忘れにならないで頂きたい」
悲しげに伏せられた睫毛。本当に、世話になってばかりじゃよ。
「…城に集まった諸氏への挨拶は割愛させてもらうぞ。この時くらい、儂は一個でありたい」
「御意。諸氏も事情はご存知なはずですので、問題ございません」
固く盛り上がった下腹に、掌が這う。
「明日、か…」
「明日は申し上げられませんでしょうから、今のうちに。私は、貴方にお仕え出来て幸せですよ」
むー、何とも水臭い…じゃが、此奴らしいといえば、らしいな。
淹れた茶も冷めた頃合に、ドアがノックされる。近衛のガーゴイルと…愛しのウォルドじゃ。
「陛下、階下に同盟諸氏がお集まりです」
ガーゴイルとは本来滑舌も悪く語彙も粗雑なものじゃが、長年執事の真似事のような事をさせておれば嫌でも流暢な言葉を話すようになる。
「私が行こう。陛下とは申し合わせ済みだ」
持ち上げる事さえ難儀そうな巨大な本は、表紙を閉じると彼の手に吸い込まれるように消えた。いつ見ても便利じゃな…
立ち上がり、軽く着衣を正すと、近衛を連れ立ってエドワースが部屋を出る。最後に合わせた視線が、何とも悲しげじゃった。
「待たせちまったみてーだな。寝床に行くか?」
お…おお…!何と積極的な…
「そうじゃの…が、先に」
立ち上がり、裾を正すと、愛しの君を正面に見据える。身長差があるため、儂が跪く格好になったが。
「ウォルドや…お前は、人の世に戻るか?」
恐らく、酷い顔をしておったであろうな。親に見捨てられた、子のような。
「お前を殺せたのなら、それも考えた。なにせ、俺は魔王討伐に来たんだしな」
この竜の心臓が、きゅうと縮む。
「もし儂が死ねば、どうじゃ?」
軽く目が見開かれる。
「死ぬ、のか?」
「もし…じゃよ。儂を殺しに来たのであれば、儂が死んでも同義じゃろう?」
「それは…分からんな。分からんく、なった」
困ったように、しかし潤みを持った眼差しが儂を射抜く。
「…お前が悪い奴だったら、悩まなくて済んだのにな」
なんと…
「それに、その、お前の腹の俺の子と言うのが気になる。いつ、生まれるんだ?」
あ、そうじゃな。まだ言うておらなんだ。
「妊娠は三日、孵化は一日じゃよ」
「みっか」
多少食い気味で鸚鵡返しがくる。そうか、儂としては普通じゃが、人間にしてみれば…そうでもないか。
「早くて明日には産卵じゃ」
豆鉄砲でも食らったような顔をしておる。
「…ウォルドや」
「…あ、え?」
「愛しておるよ」
「…!!」
返事は要らん。自己満足と言ってもらっても結構じゃ。