1.邂逅
「余は、お前の目には何に見えるね?人間よ」
光源は乏しいが、声の反響具合で、ここがどれだけ広大な空間かを察するのは易しい。
青白い月明かりと、点々と灯る蝋燭。モノトーンの世界で、眼前に異形の巨躯が一つ。
「魔を統べる絶対者かね?それとも…単に『魔物』という領民を養う領主かね?」
背には蝙蝠様の翼、頭頂からは左右に長く伸びる雄々しき双角。毛髪、眉毛、髭…いずれも黒々と生い茂り、丁寧に刈り揃えられている。その容姿を一言で言うならば竜。ただし、杖を持ち、後脚で立っているため、『竜人』と形容した方が正鵠とも言える。
声はその容姿に相応しく威厳と落ち着きを含み、腑に伸し掛る重低音として耳朶を叩くが、背を丸め尾を垂れたまま震える四肢をようやく立たせているだけの様子からは覇気を感じられない。着込んだローブも相まってか、余命幾許もない老人のような風情すら漂わせている。
ーーもはや、放っておいても倒れるのは時間の問題か。
そう、こいつは魔王。
…少なくとも、俺達人間はそう呼んでいる存在だ。
思い返してみれば、最下位の魔物に半殺しにされて、魔王討伐なんぞ諦めてしまおうなどと話していたのがもう三年も前なんだな。
それが今や、その魔王に詰め寄っている。仲間などなく、俺たった一人で、致命傷どころか凡そ傷もなく、だ。
…強く、なったな。
「ーーいや」
左手に片手剣、右手に手斧。両手をだらりと下げ、身構えるでもなく棒立ちのまま静かに言い放つ。
「後者…と言いたい所だが、俺にはくたびれたオッサンにしか見えん」
実際のところ、そうなのだ。魔法にせよ爪の斬撃にせよ、何というか、気合いが入っていない。この部屋に入ったら向こうがやる気のようだったので何度か切り結んでみたが、所々溜息のようなものまで聞こえてくる始末。
死に物狂いでレベルを上げて、必死で戦い抜いて…その果ての最終目標がこの有様では、拍子抜けを通り越して憤りすら生まれる。
…一体人間は、何を恐れ、何を倒そうとしていたのか。
「ふ…ふふ…」
くつくつと湧き上がる笑いが、震えや痙攣でなくその巨体を揺らす。
「言い得て妙、か」
ゆっくりと背を正す。俺も人間としては小さい方ではないが、それでも倍ほどの背丈がある。
「さて、もはや余に時間は残されておらぬ。人間よ、余を殺せ。殺し、首魁を上げるがよい」
いや、待て…時間が、ない?まさかとは思うが、寿命や病で死期が迫っているという事か?
であれば、先程からの舐めたような態度も頷ける。本気を出さないのではなく、出せないのでは?
短く刈り揃えた頭髪の下、額の辺りに籠った熱が、ふわりと発散されていく。もしそうならば話は別だからだ。
芽生えた感情が左手を腰へと動かせた。
道具袋を漁ると、緑の液体の入った小瓶を取り出す。詰めてあるコルク栓を抜き、魔王に掛けてやった。
「!?これは…」
ポーション。つまり、人間の体力回復薬だ。
まあ、魔物に効果があるかは分からんが、アンデッドでなければダメージを受けることはないだろう。
「まあ、落ち着けよ。少し座ろうぜ」
緑色の液体で頭からずぶ濡れの双眸が、きょとんと丸められる。そりゃまあ、敵にこんな事されれば俺だって狂気の沙汰と思うけどよ。
けどまあ、思う所あっての行為だし、敵意のない証拠に俺の方から得物を放り出しどすりと腰を下ろしてみせる。太い腕と丸い腹、それらを覆う体毛が目に入る。
魔王を圧倒するほどに鍛え上げても、これだけは締まってはくれん。
む?ああ、俺は素肌に最低限の軽鎧にレザーのベストを羽織ってるだけだからな、腹や腕なんかはまるっきり剥き出しなんだ…下はちゃんと履いてるぞ、鉄鋲付きの革ベルトとゆったりめのトラウザ、鋼板打ちのブーツでフル装備だ。
「お前は、変わった人間だな…」
ふむ、手足の震えは止まったみたいだな。効果あって何より。
「んー、まあ、そうだろうな。こんな、敵の大将に情けかける人間なんてのは」
変わってる、な…年の功ってのもあるかも知れんが。斜め上を見つつ、口と顎に蓄えた黒髭を擦る。
…『敵』…か。自分で言ってて笑えてくる。
今になって思えば、どっちが『敵』だったんだろうな。
ーー仲間や、他の人間達の、俺に対する振る舞いからすれば。
名乗れば嘲られ、隠せば容姿で馬鹿にされるような社会。
ここに来て、魔王と対峙した事ですら、ただの成り行きでしかない。絶対悪として成敗する気など、俺には毛頭ないのだ。
そんな事をするくらいなら、世間話でもして有意義な時間を過ごす方が遥かにマシ、だ。
「それより少し、あんたの話を聞かせてくれないか。職業柄、聞いときたい事がある」
ようやく魔王が腰を下ろ……せ、正座なのか…いや、何というか、魔王の正座とはまた、見応えのある…
「ふむ、職業柄…とな?」
歩幅にして五歩程度の距離で互いが向き合うと、何だかそわそわと視線を逸らし始めた。魔物の対談スタイルって、こんなんなのか?
「さっき、くたびれたオッサンと言ったが…どちらかと言えば倒産寸前の中小企業の社長の方がしっくりくると思ってな。そう考えたら、ふと思っちまった。魔物には魔物の社会があるんじゃないだろうか…ってな」
ハッと顎を上げた魔王を尻目に再び道具袋に腕を突っ込むと、椀と四合瓶を取り出す。
中身は単なる麦酒だ。魔王と酌み交わす酒としてはどうなのかとは思ったが、他に酔える物を持っていない以上仕方ない。
「まあ飲もうぜ。人間の国でならどこでも流通している、ただの麦の酒だ。それと」
椀に酒を満たし、差し出しつつ。
「魔物使いレベル50、戦士レベル50。さらに特定条件を満たして取得した『獣爵』レベル75。俺の、戦職だ」
椀を受け取ったのを満足気に見遣ると、自分の椀をそれにコツリと合わせる。一気に飲み干して、また瓶から酒を流し込む。それを魔王の椀と交換してやった。俺にしてみれば、単に毒を混ぜていないという意思表示のつもりだったんだが…
…何故だか、竜の双眸が爛々と輝いて見えた。
「おかしな話だろ?魔物使いが魔物の社会を知らないなんて」
初期戦職として魔物使いを選んだ俺は、常に矜恃とコンプレックスの板挟みに悩まされていた。
まず、相手の魔物を警戒させないために身なりと体臭に気を遣う必要がある。敢えて言うが、まめに湯浴みをし小綺麗な格好をする訳ではない。逆だ。
なるべく人間と悟らせないよう、髪と髭はできるだけ伸ばす。湯浴みなど、たまに雨を浴びる程度。剥いだ獣の生皮を被る事も多い。
つまり、匂うのだ。
草原であろうがダンジョンであろうが、とことん匂う。
水の都と呼ばれる都市を訪れた時など、この身なりのまま入ろうとして衛兵を呼ばれた。
仲間ですら臭いから近付くなとか、戦闘時以外は外套を着ろだとか言い出す上に、上級職に転職するために訪れた転職場では真っ先に俺に戦職の変更を勧めるために神官まで引っ張り出し、全員で説教を始めた(まあ、それで折れて戦士をレベリングしたからこそ獣爵の戦職を発見した訳なので、まるっきり悪し様にも言えないが)。
何故こんな思いまでして魔物使いを続けたのかと言えば、俺は魔物が好きだからだ。
いや、語弊があるかも知れんので敢えて言わせてもらうが、魔物の軍勢に加担したりだとか魔物になりたいだとかいう意味ではなく、習性であったり、能力であったり、単に造形であったり、人間にはない魅力を感じていたからだったのだ。
魔物は、俺の外見や出自などで俺を判別しない。一個の生命体同士として向き合ってくれる。同族に蔑まれる俺にとって、癒しとならん訳が無い。
「社会…社会、か」
危うく回想の海に呑まれそうになった俺の意識は、ぽつりと呟いた魔王の言葉に掬い上げられる。
「様々とな、あるものだ。余が統べるとは言え、それこそ多種多様な生物の集合体であるゆえ、な」
じっと椀を見つめる双眸から疲弊がこぼれ落ちそうになると、そのまま一息に天を仰ぐ。
あんな大きな口で上手く椀から酒が飲めるのかと様子を見たが、器用にも唇を窄めて啜りこんでいる。なるほど、こうなる訳か。
…いや、感心している場合ではない。思い当たったのだ、先程の戦いで本気を出さなかった理由に。
「あんた、まさかとは思うが…俺に殺されようとしてたのか?」
哀しそうに、照れくさそうに、伏せがちな視線が向けられる。続きを促すように空の椀に酒を満たしてやると、大きな口が小さな声を出した。
「そう思うておらんだと言えば嘘になる。しかし、その…」
瓶が空いたので、また一本道具袋から取り出し手酌をする俺を、困ったような視線で撫でつけてくる。
「ふむ…いや、その…」
「なんだよ、いきなり歯切れが悪くなったな」
瓶の注ぎ口を向ける事で、椀を煽らせる。
「言ってみろよ。どうせもう、あんたには時間はないんだろ?ならもう、遺言のつもりで思い切ってみたらどうだよ」
硬質な鱗に覆われた頬が、うっすらと紅潮しているようにも見える。
「い…」
「…い?」
「い、色々とあるのじゃよ…そ、それよりも」
今度は額に汗を幻視した。なんか、はぐらかされたのか…?
「お前、仲間はどうした?確か報告では…」
「勇者、僧侶、魔法使い。俺を含めて四人いたよ」
特に感情を込めるでもなく、淡々と椀を煽りつつ。
「死んだ。まあ、そういう場合は最後に立ち寄った教会に自動で転送されて生き返るシステムだから、もし魔王討伐を諦めてさえなけりゃ、そのうちここにも来るんじゃね?」
そう、本来ならば、ここにもう三人いたはずだった。そして、そうしたならば彼…魔王はーー
「お前は…」
酔いが回ってきたのだろうか、声色の重低音が多少浮ついてきている。
「ま、そこも色々ある訳よ。お互い様だろ?言いたくない事ってのは」
「余は…余の方は…」
魔王の瞳が蕩け出した。この程度で酔ったのか?
こいつが下戸なのか、魔物には人間の酒はキツいのか…
「しかし…寿命とか病気とかの類じゃ無さそうだな、あんたには時間が無いとは言うが」
そう言った途端、竜の細長い虹彩の奥に火が灯った気がした。眉間に皺が寄り、今まで見たどの顔よりも勇ましく覇気が漲る。
「余を、抱く気はないか!?」
「…は?」
いや、待て待て。なにそんなに『言ったー!言っちゃったー!!』みたいな顔してんだ。幻視じゃなく、角の先まで赤くなってるぞ…
「待て、魔王よ。汝を我が強敵と認め、抱擁を交わすとか、そういう意味だよな?打ち倒した人間に賛辞とか、そんな感じの…いや、ちょっと、聞いてるか?おーい」
両手で顔を覆い隠し、いやいやと肩を揺さぶっている。乙女か。
「い…い…色っぽいのが悪いのじゃ…まさか余が、人間などに一目惚れなど…ふぅ、しかし…これは炎に身を焦がすよりも苦しいものじゃのう…まあ、恋の炎には焦がれた訳じゃが…ぶつぶつ」
こちらに背を向け、俺に聞こえるような独り言を繰り出す。これはあれか…『告白しただけで両想い成立した気になっちゃう』系統の病気か…?
あー、もしかして…本気出してなかったのって…こういう事か…?
完全に呆気に取られた俺は、取り敢えず椀を煽りながら様子を見ることにした。