第Ⅱ章 権謀(けんぼう)と真情(しんじょう)(4)
伝令を済ませたアーツは、次の任務までの間現場に携わるべく、一人石畳の敷かれた通りを駆け下っていた。
目指すはナーサス港。湾を縁取りするように整備されたその南岸で、エドヴィンの率いる一隊が不明者の捜索に当たっているという。支給された街の地図を片手に日の陰った街を走りながら、アーツはふと同行の仲間達のことを思った。
分かれてから相当の時間が経過してしまったが、状況からして彼らもむやみには移動すまい。いずれ頃合を見て合流し、今後の動き方を指示せねばならない。もとより非常時には、各々所属する神殿へ出向く必要があるはずだから。
「仕方ない」
ナーサスに立ち寄った本来の目的からは外れるが、時勢やむを得まいと思い切り、行く先を見据えたそのときだった。
『ラクレイン』
どこからか名を呼ばれて驚き、思わず足を止める。刹那、背筋を駆けた冷気にふと気づいた。
白壁の民家が軒を連ねる区画。そのどこからか感じる視線。目の動きだけで注意深く周囲を探り、一息ついた後でそちらを振り向いた。
「な」
思わず言葉が途切れる。視線の先、かすかに残った黄昏の色を写す小道にそれは居た。
体長3メイズ(m)はあろう狼。白い毛並みに翠玉色の両眼がこちらをじっと見つめてくる。襲ってくる気配はなく、ただ一心に向けられる視線にアーツは眉をひそめた。
『ラクレイン』
そうして再び響いた自らの名に、今度ははっきりと理解する。それは耳が捉えた音の波動ではなく、脳に直接届く魔力の波だったのだ。
「これが『呼び声』なのか?」
ひとり転がし、そうして至る。
「まさか、君は」
緊張の面持ちで真偽を問いかけるが反応はない。是も否もないひたすらの沈黙に、さすがに警戒の構えを取ったそのとき。
『我らは双子にて』
その一言に肯定が勝ってざわりと総毛立つ。直後白狼はすばやく身を翻し小道を駆け始めた。
「待て!」
アーツもすぐさまそれを追う。獣の足には到底適うまいとわかってはいても、そのまま見過ごすわけにはいかなかった。
あれは<使者>なのか。
だとすれば言伝の示すとおり、本当にこの街に彼らは来ていたのだ。獣の体に疑問は残るが、追われる立場と思えばこともない。
だが、それならば何故逃げる?
小道から通りに抜けまた小道へと戻る。複雑に折れる相手を懸命に追うが、その距離を徐々に離されているのは明らかだった。追う影が細い通りから角を曲がった次の瞬間、突然視界が広く開けて驚く。
「えっ」
そこは海面から5メイズ(m)程の高さにある、桟敷様の通りだった。すぐ目の前には一面瓦礫に埋め尽くされた浜辺の風景と、そこをひっきりなしに行き来する、大勢の黒鎧の人々の姿がある。
「ここは」
いつの間にか高度を下げてきていたらしい。それからはっとしてあたりを見回すが、追いかけていたはずの獣の姿はどこにも見あたらなかった。
まるで夢でも見ていたかのような状況。あまりの不可解さにしばし呆然としていると、近くにいた黒鎧――ヴェルジ神官の一人がこちらに気付いて顔をゆがめた。
「なんだ貴様! どこから入ってきた!」
おそらくどこかに規制線が敷かれていたのだろう。神官が怒気もあらわに浜から続く石段を上ってくる。
「一般人は立ち入り禁止だ! さっさと出て行け!」
「お待ちください。もしやあなたは、ヴェルジ警邏部第五班エドヴィン・シフファート隊所属の方では?」
「だとしたらなんだ! 貴様になんの関係がある!」
取り付く島もない相手に、どう説明しようかと困ったそのとき、横倒しに折り重なった漁船の向こう側から、人をおぶってやってきたエドヴィンの姿を見つけた。
「エド!」
声をかけると、足元に向いていた視線がはっと上がる。
「お前……どうしたんだ? ユールの屋敷に行ったんじゃなかったのか」
ちょっと待ってろと言うなり、エドヴィンは石段を駆け上がり、アーツに詰め寄っていた隊員に、背中に担いでいた老人を引き渡した。
「急いでシリュエスタに連れて行け。まだ息がある」
つい今しがたまで怒りに燃えていた隊員だったが、その一言を受けるやふと重い表情で頷き、すぐさま身を翻して道を駆け出した。その姿が見えなくなるまで見送ってからエドヴィンに向き直る。
「事情聴取は終わったのか」
「ああ。誤解が解けたと同時に、ユール殿から命を受けてね。ついさっき総括神殿に顔を出してきたところだ」
「そうか。アイツは決断が早いな。さすが人を読む」
そういう口元が少し誇らしげで。けれどそれも一瞬で掻き消えてしまった。
「エド」
「ん」
「ダレン部門長の指示で、定時報告以外の時間は君の隊に暫定所属することになった。遠慮なく使ってくれ」
端的に伝えると、エドヴィンは苦い顔で海を振り向く。無残に浚われ、打ち上げられ、残った、そして未だ海面に無数に浮かぶ街の残骸。そして、と考え至ったところで、彼が言った。
「いいのか?」
「ああ。君たちにばかり、負わせない」
きっぱりと言い切ると、その瞳にかすかな安堵が瞬いた気がした。
「ありがとう」
言って深々と頭を下げてくる。アーツはただ頷くだけで答え、顔を上げた彼の目に灯る強い光を受け止めた。
「捜索は実質、明日の朝までが勝負だ」
エドヴィンが言いながら、砂浜に下りていく。アーツもそれに続いた。
「なぜ?」
「南岸は北側に比べて、沖だしがよく起こる」
「沖だし?」
「ああ。『だし』ってのは浜に寄せた潮の帰り道だ。着岸用の桟橋やら突堤が多くて、ただでさえ起こりやすい地形だってのに、今は瓦礫やなんかのせいで余計あちこちに道が出来てるみたいだ。発災からもう半日経ってるし、どのぐらい引っ張られちまったかはわからねぇが、いずれ沖まで流される前になんとかしねぇと、引き上げはもちろん捜索すら叶わなくなる」
行為の対象をわざとぼかした言いよう。その心境を思いやって奥歯を噛む。
「できるだけ多く帰してやりてぇんだよ」
「そうだな。急ごう」
肩を叩き強く放って激励し、共に歩き出す。
積み重なる山。その垣間を進み、あちこちに横たわった事実と対峙し、同時にそれに向き合う同胞の姿を焼き付ける。
嘆き、悲しみ、そして絶望。そのいずれをも増長させ刻々と迫る夜をすぐ側に感じながら、それでも暮れゆく中で必死に眼を凝らし、足を踏み出し、腕を動かした。
そうしてどのぐらいの時が経ったろう。幾度目ともない移送の準備を終えて引き渡し、ふっと一息ついたそのときだった。
「何だ?」
滴り落ちてくる汗をぞんざいにぬぐい、完全に暗闇に落ちた水辺でアーツはあたりを見回した。集中していたせいか、気付けばエドヴィンの姿はなくなっており、周辺にも人影はなくなっている。いやに静かな間、灯された松明や魔法の灯りで波頭が照らされた海と陸の際に一人立つその耳に、はじめは遠くかすかに、けれど次第にざばざばと、水面の波立つ音が近づいてくる。
「誰だ!」
湧いた何かに駆られて思わず叫んだその直後、傾いて半ば海水に沈んだ家屋の向こうから、のそりと影が現れた。
「……よう」
衣服から水滴を絶えず垂らした人影は、さながら海を這ってきた冥界の死者のようで。しかし左肩にはぐったりともたれかかった初老の男を支え、右の小脇には髪の長い子どもを抱えている。背中に長い棒状のものを背負った彼は、荒い息をつきつつこちらの姿をとらえたふうで、その表情を少しだけ緩め足を止めた。
「なぁ」
低い声が漏れる。相対した、浅黒い肌に整った顔立ち。その瞳に走った光が、ゆらりと一瞬揺れる。
「あんた、生きてるか?」
からかう様子など微塵もない壮絶な言。万感を胸にそれを受け止めたアーツは、ただひとつ頷くだけで返した。
「そうか。よかったな、帰れて……」
ゆったりとした笑みと共に左右に話しかけた直後、その身体が大きく傾き、抱えていた人物たちごと浅瀬に倒れこむ。アーツは慌てて駆け寄ると、それぞれの呼吸を確保し、脈を確認しつつ叫んだ。
「誰か、手を貸してくれ!」
どうした、と近場に居たらしい神官が二名ほど駆け寄ってくる。
「俺はいい……おやっさんと嬢ちゃんを……」
身じろぎと共に男がかすれた声を出した。それに「わかった」と返し、二人をシリュエスタへ搬送するよう指示すると、アーツもまた彼を助け起こし、肩に半身を担いだ。
「しっかりしろ!」
水から上がる際に声をかけるが返事はない。どうやら気を失ってしまったらしく、浅い呼吸が伝わってくる。俄然重くなった身体を背負い直し、アーツはぐっと腹に力を込めた。
「生きろよ」
ずしりとのしかかる命の重みを受け、静かに強く激励する。
失わせてなるものか。
その一心で両足に力を込め、宵闇に包まれた街に向かって全力で駆け出した。