第Ⅱ章 権謀(けんぼう)と真情(しんじょう)(1)
竜の彫像のある広場から続く坂道。思いのほか斜度のあるそこをしばらく歩いていくと、やがて大きな建物群が見えてきた。
険峻な山肌に沿って段違いに形成された敷地。そこに建物が分散して建っており、そのいずれもが押し寄せる人――おそらく高台へと避難してきた市民なのだろう――でごった返していた。
「こちらです」
先導役の鎧の男に促されて分岐した道を進み、やがて建物群の最上、小高い山の頂付近に位置する館へとたどり着いた。堅固な構えの門をくぐり建物の中に入ると、二階のとある部屋に通される。
「こちらでお待ちください」
そう告げられ残されたアーツとウィラードは、ひととき顔を見合わせた後、改めて室内を見回した。
長年磨かれてきたのだろう艶のある柱や床板。それだけでこの舘の過ごしてきた年月、そして街がたどってきた歴史の重みが感じられる。その中でふと書棚に収められた一冊の本に目が止まった。
「アーツ?」
書棚に歩み寄る背中に訝しげな声がかけられるが、構わずそれに手を伸ばす。染めだろうか、青みがかった革の表紙は、思った以上にしっとりと手に馴染み、頁を繰れば存外に上質な紙を使用しているのがわかった。しっかりと製本されたその中表紙に書かれた表題を追い、アーツは小さくつぶやく。
「ナーサス竜史」
次の頁を開こうとしたその直後、部屋の扉が静かに開かれ、黒髪の領主ユールが姿を現した。
「お待たせして申し訳ない。どうぞそちらに」
自ら率先し、応接椅子に腰を下ろして一息つく。こちらも急いで書棚に戻すと、促されるまま同じように腰を下ろした。
「お疲れのようですね」
ウィラードが間繋ぎに問うと、少々の苦笑が彼から漏れ出した。
「緊急時ですからやむを得ません。先ほど視察を終えて整理した追加指示を、仲間達に伝達してきたところです」
「仲間達?」
「ええ。この館で働く者、そして市街で活動に当たっている各宗派の者たちは、みな等しく信頼できる私の仲間です。おそらくは自宅や家族も罹災しているだろうに、目の前の救難、市民のためにと皆動いてくれています。本当に心強いことですよ」
きっぱりと言い切るそこには、ほんのりとした笑みすら浮かんでいて。思わずこちらも微笑が漏れた。
「失礼、余談が過ぎました。では本題に移りましょう」
姿勢を正し、口元を引き締める。
「申し訳ないが、今は発災後の急性期で時間が惜しい。ですから単刀直入にお聞きしましょう。あなた方は一体何者ですか。先ほどの現場での立ち回りをお見受けした限り、一介の旅行者などでは到底ありますまい?」
双眸に、尋問者としての油断なく探る光が浮く。端的で率直に衝く追究に、アーツはちらりとウィラードを窺い反応を待った。
「まさかこの街に到着して早々、ご領主に見えようなどとは露ほども思わず。諸々ご無礼を申しました」
そうして軽く頭を下げてから次ぐ。
「私はアーツ・ラクティノース。貴国の輩たる隣国リシリタにて、王国騎士団第一士団長を務めております」
至極穏やかな、そして朗々たる名乗りに対し、ユールの面に驚愕と疑念が同時に浮いた。
「あなたが、かの……なにかそれを証明するものをお持ちか?」
疑念を隠さぬ言いよう。苦笑交じりにええと答えるや、彼は腰に下げた剣を鞘ごと抜き、それをそのまま応接机の上に置いた。くくりつけられた鷲の尾羽と、団章の彫られた根付をユールがじっと見つめている間に、魔法の腰袋から書筒を取り出し差し出す。
「これは?」
「国王陛下より下された命令書です。どうぞお検めを」
羊皮紙のそれを手に受け、ユールは早速目を通し、すぐに顔を上げた。
「まさか、噂に聞く隣国の若き雄にお会いしようとは。先ほどのあなたの言ではありませんが、露ほども思わず。あろうことか疑いをかける真似まで」
「いいえ。このような状況下では致し方ないことと存じます。ご領主は領地の治安をお守りになる、それが何より優先されるべき責務ですから」
「では、こちらの方も」
「はい。ウィラード・ヴォーリュックと申します。私と同じ騎士団所属のヴェルジ信徒で、本国においては部門課長相当級の職位を持ちます」
「なるほど。現場での素早い判断と行動はそれゆえに」
納得しました、とすまなさそうな顔を見せるユールに、アーツは無言で軽く頭を下げた。
「それにしても、この街へはいかなる目的で?」
身分を知ればなおのこと、突然の来訪が不自然に映ろう。どう答えるものかとウィラードの様子を窺っていると、彼は落ち着き払った面持ちで語りだした。
「我が国リシリタの皇太子殿下と、貴国の姫君とのご成婚についてはご存知で?」
「ええ、もちろん」
「両国挙げての祝事、特にも『花嫁行列』は、両国民にとりこれ以上ない祝賀の機会となる予定です。私は国王陛下から貴国の女王陛下への親書をお預かりすると共に、運行行路の事前踏査と周辺地域の安全調査を命ぜられました」
「そうでしたか。しかしながら『行列』は、内陸の街道をお使いになる予定なのでは?」
「仰るとおり、両国の王都を結ぶ一級街道が主たる経路として計画されております。しかしながら昨今、街道の周辺で魔物が頻繁に目撃されているという情報がもたらされたため、万が一の事態を考慮し、代替路を複数検討する必要が生じたのです。副候補として新規に挙がったのが『東方海道』、つまりは」
「ハイラスト沿岸主要都市間を繋ぐ『浜街道』、そして船舶航路というわけですか」
流石のご明察、とウィラードが笑みを見せる。一方初めて耳にしたそれに、アーツはやはりかと内心思った。
「これは現況に即してほんの数日前に決定されたこと。ですから貴国への事前通達と私の足が前後になった可能性があります。とはいえ、やはり信用に足らぬとおっしゃられるのであれば、本国とヴェルジの正義に基い、事実確認の間、我々は甘んじて拘束されましょう。発言に偽りあらば、その時の扱いはご領主の一存にて」
挑発にも聞こえる振りに、いささかの緊張が生じる。ユールはしばし顎に手を当てて考え、それから一つ息をついた。
「今お聞きした内容について、あなたの説明には矛盾が見られない。経緯そして理由とも明確な中での来訪であることは確かなようだ。閉ざしていたはずのこの街に、どのような手段でお入りになられたかは、後学のためにももう少しお聞きしたいところだが……ともかく、あなたの行動の基となる国家間のやり取りも、いずれこちらに伝わるのでしょうから、それこそ事実の判明は時間の問題です」
冷静な分析を口にしたその表情。しかしながら、いささか完成のすぎた経緯に少なからずの違和感を覚えているふうで。おそらくは自分と同じ心境なのだろうと察して、アーツはふと場違いな親近感を彼に抱いた。
「少なくとも、あなた方はこの街に不利をもたらすことはすまい、誠実な人物であると私は見ました。今この状況下では、それが確認できれば充分です」
その言葉に、ウィラードがほのかな安堵を口元に浮かべる。任務とはいえ、自分の身代わりとして堂々と立ちまわって見せた彼の姿に、アーツは内心複雑な、そして改めての畏敬の念を抱いた。
「では、あなた方を信用することとして……ここからは折り入ってご相談したいことがあるのです」
熱の込もった声色と共に投げかけられたそれに、思わずこちら二人で顔を見合わせる。
「相談とは?」
怪訝に問うと、ユールは背を正し、まっすぐにこちらを見つめてから次いだ。
「私の、ナーサスの援けになってはくれまいか」