第Ⅰ章 過客(かかく)、触る(4)
高原地帯より出でて、山間を縫うように大洋まで到る<龍の鎖骨川>。山肌に張り付く街道を歩きながら、ふと伝い上ってくる風の中に潮の匂いを嗅ぎ取って、一行は歩みを止めた。
「あれがナーサス」
最寄りらしい峠から見下ろした先にある城壁、そのさらに奥には陽光を受けて輝く海が望める。しかしながら、知識の中にある風景と比較して得た違和感に、アーツはひそりと眉を寄せた。
「なんだ?」
どうやら隣にいたカガンも気づいたらしい。天然の要塞よろしく、せり出した半島に囲まれた丸い湾。その色が湾口より広く向こう側まで青黒く濁っている。
「ただ事じゃねぇな」
遠目に見ていたウィラードが、あからさまに顔をしかめる。改めて目を凝らすと、市街地と思われる一帯に土埃のような薄い靄がかかっているようにも思えた。
「急ごう」
嫌な予感が瞬く間に胸に広がり、峠を下る足が自然と早まる。やがて城壁の近くにまで至ると、門扉の前に大勢の人がたむろしていた。
「どうしたんです?」
最後尾にいた隊商らしい荷男を捕まえて尋ねる。
「それがよくわからんのだよ。俺は一刻ほど前にここへ着いたんだが、どうやらもう随分前から門が閉じられたままらしい。それどころか、見張りの一人も居やしないらしいんだ」
言いながら物見櫓を見上げる。確かに通行や出入りを監視する兵の姿は見えない。そうしてふと気づき、小鼻を動かした。
「何か臭いますね」
ああと短い返答を得た直後、突然轟音が辺りに響き足元が揺れた。
「なんだッ?!」
男が叫び慌ててしゃがみこむ。アーツも重心を低めてひととき構えたが、揺れはすぐにおさまり、代わりに壁の向こう側にもうもうとした煙が立ち上ったのが見えた。
「戦闘か」
背後にいたカガンがぼそりとひとりごつ。それが証か、次いでカンカンと警鐘が鳴り始める。続けざまに響いた破裂音と壁向こうから聞こえてくる悲鳴に、尋常ならざる事態を確信した。
危機感を煽られたのだろう、門前の人々の中には、慌てて元来た道を戻ろうとする者が出始めた。徐々に増えていくその人波を避けつつ、アーツはすぐさま他の入り口を探して周囲を見やる。しかし門扉はすべて固く閉ざされていて、正面突破の術はないように思われた。
「こっちだ!」
だが意図を見越していたらしいウィラードが、壁づたいに右方向へ駆け出し、人込みから死角になろう場所から自分を呼ぶ。応えて皆で向かうと、ナタリフが早速呪文を唱え始めた。
「世界に満ちたる太古の息吹きよ、我が呪文に呼応しその力を授けよ。固き物質の結いをひととき解かん。《通過》!」
詠唱が完成すると城壁の一部が淡く光を纏う。
「早く! 呪文が効いているうちに向こう側へ!」
その声に打たれ、イチゴを背負ったキリムが壁に向かって駆ける。ぶつかると思われたその寸前、石造りの壁が緩やかに波紋を描き、二人の姿は一瞬にして壁の中へと溶け消えていった。それを見たウィラードが続き、カガンがシリアの手を引いて共に飛び込む。
「君も早く」
促されたアーツもまた壁に向かった。いかにも頑強な石造りの壁が目の前で溶け、まるで水の中を進んでいるかのような感覚に一瞬包まれる。直後足の裏が地面の固さを突然捉えたため、思わずつんのめりそうになった。
「大丈夫か」
先に出ていたウィラードに腕を掴まれ支えられながら、ああ、と短く返し周囲を見回す。
ナーサス城壁の内側、おそらくは町外れなのだろう草原のただなか。視線の先には人家が軒を連ねており、屋根の密集するその向こうには。
「やはり戦闘だな」
低くカガンがつぶやく。明らかなる怒号、人々の悲鳴、そして獣の咆哮がこだましている。
「行こう」
言うが早いかアーツは駆け出した。綺麗に石畳の敷かれた小道を抜け、浜風に乗って流れてくる煙の臭いを追う。住宅区域らしき一角を抜けて視界の開けた場所に出ると、目の前に広がった光景に皆の足が一斉に止まった。
「これは」
後の言葉が一瞬にして掻き消える。
それほどの衝撃だった。
湾の内側、急峻な山の斜面に張り付くようにして形成されたナーサスの街並み。その景色がある標高を境に激変している。今自分たちがいる桟敷様の場所は、街全体の中ほどの高さ――山の中腹に位置しており、ここより上は元の美しい街並みを保っているが。
「街が」
見下ろしたその先の光景に、思わずの体でつぶやいたシリアの声色が全てを物語っている。
ここからほんの10メイズ(m)ほど下った場所から先は、状況がまるで違っていた。あちこちが水浸し、木々は根こそぎなぎ倒され、建物という建物は崩れ落ち、瓦礫となって山と折り重なっている。浜辺へ近づくほどにその被害は甚大で、形の残ったものは少ない。湾の内側を囲む砂浜や港と思しき場所には、足の踏み場もないほど散乱した家屋や家財、座礁したり半ば沈みかけた無数の船、そして。
「イチ、見ちゃダメ」
キリムがすぐさまイチゴの目元を押さえて抱え込む。無残の隙間を、湾の水面を埋める影、港の栄華すらも塗り込めるかのような、常軌を逸したあまりに凄惨な光景に、皆が声もなく立ち尽くすしかできなかった。
どぅん。
その時、右後方から再びの爆発音が聞こえ、己を取り戻したアーツは仲間を引き連れそちらへと走った。やがて状況がが見えてくるのと同時に、獣の咆哮と多くの人々の悲鳴が重なり響き、思わず奥歯を噛んだ。
神殿前の広場。そこでは数体の獣相手に、黒い鎧を身に着けた警察の神官たちが応戦しており、奥には恐慌をきたして逃げ惑う群衆が見えた。手前の石畳に焼きついた破裂痕らしき跡の側には、体高3メイズ(m)はあるだろう四足獣が屹立しており、血の色に染まった目は明らかに害獣の類ではない、『闇の女神』に魅入られた眷属のそれだった。猿のように後ろ足二足で立ち、今まさに鋭い爪を振り上げたその足元に、数人の子どもたちと、それを庇うように立った若い女性を見止める。
「いかん」
疾く動いたカガンが、咄嗟に腰に提げていた縄を手に取る。先に錘を結び付けたそれを魔物目掛けて放つと、見事振り上げられた前腕に巻き付いた。間髪おかずに引き絞り、ぎりぎりと締まった音を立てつつ叫ぶ。
「ナタリフ!」
ふわりと魔力の風が湧いた後、彼の手にした杖がほのかに光った。
「星の輝きにて惑わせん。《眩暈》」
呪文の完成と共に杖の先を標的に向ける。すると杖がひときわ輝いた直後、きらきらと光る飛沫が一瞬空中に現れ魔物にまとわりついて消えた。直後上体がぐらりと大きく揺らぎ数歩後ずさる。その隙にイチゴを背負ったキリムとシリアが、女性と子供たちに素早く駆け寄り、助け起こして場を離れた。
横目でそれを確認したアーツは、腰の剣を抜き放つと、一呼吸のうちに間を詰めて背後から魔物の腱を切る。咆哮と共にがくりと膝をついたその時には、正面に回り込んでいたウィラードがその首を一撃ではねていた。
転がった躯体が完全に動かなくなったのを確認してから、注意深く近づいていく。
「違うな」
おそらく、と隣に並んだウィラードに返しながら、アーツは内心ほっとしていた。先のカマランでの遭遇、魔物の額に光っていた黒い石と、その黒幕たる<追手>を危ぶんでいたのだが、目の前の躯には、黒い石が埋められていた痕跡は見当たらない。しかしながら、事前に耳にしていた噂は本当だったのだと改めて確証を得た。
「あの」
その時ふと声をかけられた。見ると、先ほど助けた若い女性と子供たちが近づいてきていた。
「どなたかは存じませんが、危ないところをお助けいただき、ありがとうございました」
腰にひっしとしがみつく子供たちをなだめつつ、栗色の髪の彼女はそう口にして頭を下げた。その身なりは上質で、それなりの素性があろうと勘繰ったところで、がしゃがしゃと重い音が近づいてきたのに気づく。
「ルーシア、大丈夫か!」
いかにも警察らしい黒い鎧を着込んだ短髪の男は、彼女の無事を確かめるとほっとした表情を見せた。その鎧の左肩に彫られた意匠は上役である証。旅装束の自分達に気付き、遠慮なく警戒の視線を向けてきた彼だったが。
「おい、お前」
そう言う彼の左こめかみに走る刀傷に、直後アーツもひらめく。
「君はもしや……エドヴィン・シフファート?」
自身が騎士団に入団したての頃、同じ<黄昏の士団>に属した年かさの同僚。あの頃のやり取りがにわかに蘇り、記憶の中の像が目の前の姿に重なる。
「お前、やっぱりそうなのか!」
覚るなり途端に弾けた笑顔と共に、彼ががばりと抱きついてくる。
「でかくなったなぁ!」
鎧同士が擦れ軋む音に加え、再会の第一声がそれかと苦笑する。が、直後どこからか上がった信号弾に、すぐさま身体を離した彼の表情が引き締まった。
「エド、ナーサスに一体何が」
「詳しい話は後だ。とりあえずそこの分神殿に避難しててくれ」
ひどく疲れたように言い、それから近くに居た若い神官たちに移動の指示を出す。が、彼らは青ざめた顔のまま、なかなか動き出しはしなかった。
「ボサッとつっ立っんてんじゃねぇ! これ以上、市民を見殺しにするわけにはいかねぇだろうがッ!」
ほとんど怒号のそれに弾かれてやっと動き出す彼らに、小さく舌打ちしつつエドヴィンもまた駆け出す。
「エド!」
「何だ」
「俺たちも兄弟だ。力になれると思う」
先んじてウィラードに視線を流し、その頷きを得て申し出ると、立ち止まり振り向いた彼が、一瞬戸惑いを面に浮かべた。
「いいのか?」
そうは言いながらも、切望の光が目に浮いている。もちろん、ときっぱり頷くと、どこかほっとした表情が返ってきた。
「すまん。助けてくれ」
なんとも切実な一言を残し、彼は猛然と駆け出した。その背を追うため、カガンとナタリフに女の子たちと後を託し、しばらくここに留まっているよう指示を置く。
「気をつけて!」
駆け出し、背にかけられたシリアの声に片手をあげて答えたその時、ふと強く吹いた海風が、行く先から新たな戦闘の臭いを運んできた。