第Ⅰ章 過客(かかく)、触る(3)
借りていた二階の部屋には、キリムが声をかけたのだろう、全員が集められていた。蝋燭の灯りに照らされた室内で、それぞれが自由に寝台や床に腰を下している。
「一体どうしたっていうんだい?」
既に寝床に入っていたのか、ナタリフが小さなあくびをしながら恨めしそうに言う。それをひと睨みして黙らせた後でキリムが口を開いた。
「頼まれものの配達が終わった帰りに、地元の局員に呼び止められたの。あたし宛てに『郵便』が届いてるってさ」
今回のキリムの旅の目的は、あくまでハイラスト行きの郵便物の配送である。道中立ち寄る地では必ずフォルメール神殿に赴き、その配送記録を本国の所属神殿あてに逐次報告するきまりだそうで、届け物とはおそらくそれを見越しての先回りだったのだろう。
「しかも、電信でね」
もったいぶって言うなり、愛用している腰鞄からそれを取り出す。電信とは『速く達す』る早馬便よりもなお早い、《物質移転》の魔法を使用した最高位の配達方法だ。
アーツが手渡されたのは一本の筆記具。軸に小さな紙が巻かれている物だった。この型は筆記具自体に魔法で内容を付与し、届けられた先で暗号を唱えることによってはじめて内容が確認できる。緊急性と秘匿性を保ち、迅速にかつ確実に特定の相手のみに開封させたいときに用いられる方法だ。
「差出人は、<獅子鷲の子>って」
それを聞いた瞬間、アーツとウイラードが顔を見合わせる。騎士団内で使われる隠語――<獅子鷲>とはリシリタ国章に描かれている聖獣。すなわち国家自身を指し、その子とは国王が統帥するリシリタ王国騎士団と王国術師団を指す。しかしながらその名を常用できるのはただ一人、騎士団総団長のみに限定されていた。
「ちなみに、開封の暗号は<曾孫の称>だそうよ」
すなわち差出人たる総団長の部下のうち、<曾孫>の序列に当たる者。総団長から数えた第四位に当たる各士団長だ。
アーツは筆記具を寝台の脇机に置き、一息の後、自らの部隊に与えられた称を静かに呟いた。
「鷲の眼」
すると筆記具が淡く光り、すいと宙に浮いた。軸に巻かれていた紙が見る間に開かれ、そこにすらすらと文字が記される。淀みなく、まるで本当に人が書き記しているかのように紙面を滑っていく筆先。やがてその動きが止まるや、支えを無くした軸がぽとりと落ちた。
『我、報じんと筆を取る』
完成した文面、その堅苦しい書き出しに緊張が煽られる。気を引き締めて手に取り一通り読み終えたところで、アーツは顔を上げ静かに息をついた。
「あいつはなんと言ってきた」
食後のおやつ代わりか、干しアンズを噛んでいたカガンが問うてくる。
「総団長の元に、再び<使者>からの文が届いたらしい。三日前のことのようだ」
一同が顔を見合わせる。
「真偽の確認に一日要したそうだが、どうやら本物らしい。『回帰への謝辞あらん』、つまりは俺の帰還に関するリシリタ側の対応に、いずれヴィージは国威をもって応えるという内容だったようだ。深堀りするなら、リシリタとの正式な国交の樹立、そして公の同盟関係を将来に匂わせたものとの解釈もできるだろう」
実際の調印にまで事を運ぶには、相応の時間を要するだろうが、と付け加える。
「中身はそれだけ?」
キリムの問いに、いいやと首を振る。
「届けられた文には『到る路にて立つ白波は、竜の再帰と共に。観すべし』とも書かれていたらしい」
「なにそれ。どういう意味?」
「総団長はこれを、<使者>がリシリタに向けて発した忠告だと踏んだようだ。だが『これをどのように読み解くか。そしてどう行動するか。そいつは自分で考えてみろ』だそうだ」
まったく、とカガンが呆れたように溜息をつき、相変わらずだなと一同も苦笑いを漏らす。
「それで、お前はどう思ったんだ?」
早速ウィラードが聞いてきた。しばし顎に手を当てて思考を整理する。
「文末のみに注視すれば、総団長の言うとおり、俺が<使者>との合流を果たし、ヴィージに帰還するまでの過程において、リシリタからの一切の関与は許さない、とも読み取れる」
到る路とは、ヴィージへの帰国の途。立つ白波と竜の再起とは、己の鬨の声そして帰還の先にある、将来の大陸五大国とヴィージによる同盟締結、大陸の事実上の統一を指すのだろう。観すべし、すなわち事をなすその時までは傍観に徹しろ、ということだ。
「ただ」
リシリタがその手の内の者――この旅の仲間達――を自分に添わせたことに関しては、特段触れられてはいない。仮に先の解釈が正しかったとしても、<使者>にとり接触の妨げになりうる可能性について一切咎めなしというのはどうか。
「少し、前文が気になるんだ」
試しに違和感をそのまま口にしてみる。
「例えば<龍>ではなく竜。<龍>とは偉大なる大陸の主であるディスリトの尊称、もしくはハイラスト王夫たるディスリーティアの敬称だ。しかし書かれていたのは『竜』で、学術的な分類を指すものとも考えられる」
「生物学上の竜属は人前に現れることはほとんどない。しかしことハイラストにおいては、主要都市にはほとんど棲み着いていて、その街を守護し繁栄をもたらす象徴と言われているね。<使者>はその守護竜のことを示唆したのかもしれないってことかい?」
流石の博識、とナタリフに頷きを返す。
「それなら解釈が大きく変わるな。表記を素直にそのまま読み込めば、『立つ白波』ってのは水場の光景、『路にて』はおそらく街道筋のことだろう。ハイラスト国内で、いずれかの街道沿いにある、竜に守られた水際の街だと仮定すれば」
ウィラードがそこで言葉を区切り、荷物の中から取り出した地図を床に広げた。
「内陸なら、大陸街道の途中から西のナシュリア林王国に分岐していく主要道『進林街道』沿いに湖岸都市がある。王都ベイトを通過した先には、奥座敷と言われる湧水地エンム、そしてさらにその先には河岸都市ユークがある」
道に沿って指差した先にはいずれも主要都市を示す地図記号がついていた。
「対して沿岸を走る『浜街道』沿いには三か所。うちひとつは首都ベイト。他には……沿岸南部、クークリー海王国と国境を接するグルーと、沿岸北部のナーサスの二カ所だ」
「えっ?」
突然割って入った涼やかな声に、皆が顔を上げてそちらを向く。イチゴを寝かしつけていたシリアが、穏やかな寝息を確かめてから聞き返してきた。
「今、ナーサスって」
立ち上がりゆっくりと仲間の輪に歩み寄って、アーツの隣に腰を下ろす。
「さっき外に買い出しに出たとき、行商の話を耳にしたの。その人、海沿いのナーサスという街から来たらしいんだけど、いつの頃からか魔物が街に現れるようになったんですって」
「本当か」
「ええ。ナーサスは北の入り口と呼ばれる貿易港。その繁栄は<竜が妻>の守護ゆえと伝えられてきたそうよ。けれどもう長いこと竜を見た人がいないものだから、魔物が出始めたのは退廃の兆しじゃないかって噂が広まっているみたい」
「成程。使者もわざわざ『再帰』と言っておるんだ、現状いないということだろう」
顎に手を当ててカガンが促す。アーツはひとつ頷いた。
「国王陛下も総団長も、少なくとも今は<使者>の意向に沿わねば、ヴィージとの国交は確約できまいと考えているようだ。状況からしても、この文言は<使者>の次の立寄地を示している可能性が高い。ならば、現地を訪れてみる価値はあると思う」
「そうだね……まぁ僕らは一向に構わないんだけど、そうなった場合、君の本来の仕事の方はどうするんだい?」
ナタリフからもっともな疑問を投げかけられる。
「リシリタとハイラスト、両国の関係強化には欠かせない親書だ、流石に言及されているよ。仮に俺が思う道を選ぶにしても、ベイト到着までの追加猶予は二巡り以内に収めろと書かれている。その間のハイラストへの言い訳は、どうやら総団長が自ら肩代わりしてくれるようだ」
「移動日数を考慮すると、現地での滞在期間はいくらもないかもしれないね」
ああ、と返して再び紙面に目を落とし思い起こす。昼間見かけたリシリタ軍の早馬が、先んじてザイガンの指示を負ったものだとするならば、もはや選択肢はないも同然だ。
自ら糸口を掴んで見せろ、ということだな。
真価を期待し仕向けてくれるのは有難いことだがと、かすかに苦笑したアーツだったが、ふと末尾に添えられていた一文を思い起こして、その不自然さに疑念を抱く。
「達。<渡る者>、鷲が冠を被るべし」
それは単なる表記の反復であり、一人転がしたに過ぎないものだった。しかし息をするのと同じほどかすかなそれを、耳聡く拾ったウィラードが、一瞬驚きを面に点した後、居住まいを正し胸に手を当て頭を下げた。
「承知しました、ラクティノース士団長」
速やかに向けられた承諾に、アーツははっと気づいて顔を上げた。
「ウィラード、今のは」
違うと言いかけたが、突き出された手のひらに制止される。
「お前の口から発現された総団長の命令だ。どんな状況だろうと、総団長以外の誰も撤回することはできない。もちろん覆す権限は今のお前には委譲されていない」
「しかし」
「前にも総団長に言われたことがあるだろ。暫時なりとも職位を忘るるなかれと」
そういうことだ、と視線が途端に厳しさを増す。ここで命令に反すれば、独断による裁定、隊規違反で停職となる。王命による任務遂行中の今、そのような事態は絶対に避けなければならない。
「ちょっと、なんなのよ一体」
突然さらされたたただならぬ緊張感に、キリムがおろおろと両者を見やって問う。忸怩たる表情のアーツと対照的に、清々(せいせい)としたウィラードを見比べて、なおも混乱が深まったようだった。
「なに大したことじゃねぇよ。総団長は『道中、お前が身代わりになれ』とこいつに命令させたのさ」
説明に皆が困惑する。
「ヴィージの嗣子たるラクレイン・トゥ・アースは、将来の同盟締結に向けて、最優先で身の安全を確保されるべき人間だ。今はまだ表向きにはリシリタに属する身分とはいえ、故国への引き渡しの前に万が一の事態になったら困るだろ」
理に適う理由ではある。だがアーツは一人唇を噛んだ。
「少なくとも<使者>との接触までは、リシリタに保護の責がある。今はまだ抑えられているようだが、こいつの素性を知った者たちが、その利用価値を見越して何事か企てていてもおかしくはねぇ。旅の途上にあるならなおさら、身代わりを仕立てて撹乱しておく必要があるのさ」
しかしそれだけのことならば、旅立ちのその時に伝えれば事足りたはず。十日以上も過ぎて、今この機会に通知してきた理由を勘繰って、ウィラードはザイガンらしい親心だなと苦い思いを抱いた。
「これも、俺の仕事だ」
自分も同じように試されているのだと、暗に含ませて親友の肩を軽く叩く。失態を悔やむ姿に「いいんだ」と目で告ぐと、納得づくではなかろうがまっすぐな視線が返ってきた。
「必ず、守る」
力強く彼と己に宣言し、そうしてアーツは全員を見回してはっきりと放った。
「行こう、ナーサスへ」