第Ⅳ章 紅き文身(ぶんしん)(4)−2
東に広がる海の向こう、空と接した際はもう大分明るい。夜と昼の境にあってしらじらと静かに明けていく、その色彩の移りゆくさまを前に、再びの今日がやってきた喜びが、心身にじんわりと満ちていくのを感じた。
「そろそろ、なのかな」
独り言のように呟いたナタリフが廟の入口を見やる。政庁の役人曰く、ユールがスクラフトの伝承を継ぐ儀式は夜明けには完了する見込みで、具体は教えられていないが、彼らはその裁定のために同行してきたのだと聞いている。その時が刻一刻と近づくや、随行してきた人々が続々と廟の前に集まり、緊張が徐々に高まっていった。
やがてこの世界を創造せし始祖の女神の化身――太陽が、水平線の向こうから、七色の輝かしい衣で空と海とを染め返しながら現れる。半ば闇に慣れた目を焼く強い光が差し込み、その一条が岬を照らして廟が濃い影を纏った一瞬、ふいに一陣の風が吹き、足元の芝生がまるで波のようにさざめいた。
「夜明けだ」
遮るもののない岬にもたらされる、心地よい女神の恩恵。あたたかなそのぬくもりに一同の表情が少し和らぐが、活動を始めた海鳥たちの盛んな鳴き声に引き戻されるように、ふと周囲の誰からともなく言葉が漏れ出した。
「まだか?」
太陽が水平線を離れても、中から人が出てくる気配はなかった。しんと静まり返ったままの廟に、役人たちがあからさまに狼狽し始める。
「どうしたのだ」
「わからん。先代の時には、夜明けの直後にお出になったが」
不測の事態でもあろうかと、小声で対応を検討し始める。その不穏な空気を察した周囲の者たちも心配そうに廟を見守った。
「しばし待て」
にわかに増していく不安、それを全身鎧姿のダリウスが突如弾いた。政庁の者が咄嗟に彼に詰め寄る。
「ですが、かの者は」
「案ずるな」
心配のあまりか口調の乱れた相手をぴしゃりと圧すなり、一息吐いてから身に付けた兜に両手をかける。おもむろに脱いだその下から現れたのは、褐色の肌に短く刈った金髪、そして。
「『適った』と〈龍〉は仰せである」
露わになったその両眼。黄金に輝き、縦に長く変化した瞳孔。瞬きのたびに睫毛を切って空に舞い散る、ごく微細な光の粒に皆が驚いた。
「そうか、これが」
なるほどと即座に合点する。選ばれた当人にしか聞き得ないという〈龍〉の声、それが謀りではないことの証がこの現象なのだろう。今世界にある生物の最高位たる様を映したその姿を目にすれば、確かに抵抗も畏怖に掻き消されるというものだ。
初めて見る龍使の顕現。物珍しさゆえにしげしげと見つめていたせいだろうか、ふとこちらに気づいたダリウスが、少々居心地悪そうに視線を迷わす。
「ですから、どうかもう少しだけお待ちを」
再び兜をかぶりつつ次いだその言葉。至極丁寧なその言いようと〈龍〉の託言に、周囲の者も誰一人異論なく、ただひたすらに時が過ぎるのを待ち続けた。
そうしてどのくらい経ったものか。空はすっかり明るくなり、街の方角には煮炊きらしい白い煙がいくつも上がっている。
「ユール様!」
突如誰かが叫んだ。見れば、廟の奥からこちらへ歩いてくる影がある。ゆっくりとした足取りで表へ出てこようとするそれに、気付いた役人がすぐさま駆け寄るが、陽の光に姿がさらされた直後、当人の身体が石畳にがくんと倒れ込んだ。
「お気を確かに!」
抱き留められたユール。役人たちは彼を傍の芝生の上に移動させて革水筒を取り出すと、半身を抱き起こしながら水を飲ませた。同時に随行していた魔術師達が回復呪文の詠唱を始める。
「すまないみんな。遅くなった」
青白い顔にかすれた声。集まり様子を覗ってくる人々に、彼は回復の魔法を受けながら小さな苦笑を浮かべた。
「持たぬ者ゆえだろうか……思ったよりも時間がかかってしまったよ」
「いえ、いいえ」
「御身がご無事で何よりです」
心からの労いといたわりの声があちこちからかけられる。それだけで彼がどれほど慕われているかが知れるというものだ。
「継承は済んだ。街に戻り次第、術を準備する」
回復呪文が効いたのか、やがて自ら身を起こした彼は、ゆっくりと立ち上がり廟へ繋がる石畳の上へと再び足を進める。
「その前に、皆にスクラフトの後継と認めてもらわねばな」
緊張の混じる声に、どうやってと疑問を抱きながら見ていると、ユールは廟の入り口に置かれた腰の高さ程の石柱へと歩み寄った。そうして柱の天に置かれた燭台に右手をかざす。その手のひらの中には、昨晩彼が首から下げていた透明な板が握りこまれていた。
「大地の礎たりし〈始祖龍〉よ。守護たる〈龍〉よ」
静かに口にする。
「一族が契り、その承継を我に允許し賜え」
突如ざわざわと、肌にまとわりつくのが分かるほどに濃い魔力の波が足元から起こる。辺りの芝が象るその波形の中心、ユールの衣服が大きく波打ち黒髪が揺れた。
「ここに、我が生を炎と賭す」
すると彼の右手の中に強い光が瞬き、居合わせた者たちの視界が瞬間白く焼けた。しばしののち、徐々に戻った視力が、目の前の不思議な光景を認識する。
虹色の淡い光に覆われた廟。輝くそれが静かに消えゆくと、代わりにユールの前にあった燭台に同じ色の揺らめきが火先を上げた。明らかなる魔法の炎に、次の瞬間周囲の人々から割れんばかりの歓声が上がる。
「これが『尽心』」
満を持したその喜びように確信を得てアーツは呟き、安堵したかのように少し肩の下がったユールを見つめた。
「あれは『楔』だ」
その直後、どこからともなく聞こえてきたその言に驚き辺りを見回す。
「どうした」
不可解な行動に、隣に居たウィラードが声をかけてくる。どうやら彼には届かなかったらしい。辺りに不審な動きはないと察して、アーツはなんでもないと答えた。
「皆に申し伝えることがある」
そうして振り向き放たれたユールの声。
「私はスクラフトに継がれた数多の『記憶』を継承した。その中でひとつ確信を得たことがある」
こちらへ早足で取り返した彼の面には、それまでには見られなかった鬼気が浮いていた。
「ナーサスに、間を置かず災厄が再び降りかかろう。それこそが、この地の真の災厄となる」
その衝撃に辺りの空気が大きく乱れ、随行者たちに激しい動揺が走る。ゆっくりと息を整えてからユールは続けた。
「皆に不安を与えぬよう私一人が負い、皆には言うまいかとも思った。けれども、これはどうしても回避できぬナーサスの天命らしい。だが光明はある。それに相対し跳ね除ける手段を、代々のスクラフトは授け残してくれていた」
その時だ、これまでにない強い揺れが足元から襲ってくる。まるで機を読んだかのように下から突き上げ、鈍い地響きを残して去って行くそれに、先ほどの言葉が現実感を伴って迫り来る。
「それこそが、この地に約された真価であると〈龍〉は仰せである」
そう告いだ彼の両眼には、先ほど見えたものと同じ〈龍〉の黄金色が灯っていた。
「闇は龍を仇視し穿ち呪う。龍は闇を哀れみ舫いて解く。これらすなわち双子なれば、世に魔の有る限り」
「双子」
まるで史書のような文句に思わずの体でアーツがつぶやくと、それを聞き取ったのか、ユールの身体を通した〈龍〉の瞳がひとときこちらを向いた。じっと見つめてくるその黄金色がふと揺らぎ、元の彼の色が戻り始める。
「私は先達と同様に覚悟して、来る災禍に立ち向かうつもりだ。だが、それだけでは街を守るには足りなかろう。皆の力もどうか貸してはくれまいか」
その視線が随行者達に移ると、使命に弾かれた者たちが、雄叫びの後で各々出発の準備を始めんと走り始めた。
一気に慌ただしくなった空気、隣のウィラードに「俺たちも」と促され追随しようとしたそのとき。
「『召喚』は再帰を果たすものではない」
周りは誰も気づいていないらしい、ユールが一人ひそりと口にしたそれが、明らかな響きを伴い耳に届いて。
「海蛇が来る」
一欠片の黄金色が残る間にもたらされた戦慄の予言。
アーツは驚愕の後に奥歯を噛み締め、帰還に向かう足を一層強く踏み出した。
際会は、もう間近。