第Ⅳ章 紅き文身(ぶんしん)(4)−1
ふと鳥のさえずりがどこからか聞こえ、アーツは瞼を開けた。
石造りの堅固な建物の中である。寄りかかっていた壁から身を起こし、空間の四隅に置かれた蝋燭の灯りを頼りに周囲を見回すと、マントに包まった何人かが横になっているのが見えた。なるべく音を立てぬようにゆっくり立ち上がり、外へと続く通路を進む。
建物から出ると、見上げた空にはまだ夜が残り星が瞬いていた。半島の突端にある分、市街地より海風が強く吹き付けてくるが、肌にひんやりと触れるそれが目覚ましにはちょうどいい。身体を軽く動かしつつ首をめぐらすと、海と接した東の空が徐々に白んできているのが見えた。
「よう」
さくさくと草を踏む音と共に、ウィラードがやってきて隣に立つ。
「眠れたか」
「思いのほか」
昨夜ナタリフから渡された《回復》の霊薬。夜明け前には目覚めるよう考量してあると補足されていたが、身体の軽さと思考の明瞭さからして、他にも特別な調合をしてくれていたのだろう。頼りになるなと呟くと、ああ、と同意が返ってきた。
「なぁ」
「ん?」
「夕べの話、お前はどう思った」
腰袋から取り出した布で顔を拭きながらしばし思い起こす。
昨夜ユールが廟へ入った後、ナタリフが、到着以降の市井の様子と共に、今回の道すがらの聞き取り結果、観察記録、それに基づく検証を含め、まとめて情報を共有してくれた。
「クイルでシリアから噂話を伝えられた時には、てっきりナーサス市中に魔物が現れ危害を加えているんだろうと思っていた。けれど現地を訪れてみて違和感があったんだ。あの日、発災直後しかも若者ばかりの編成とはいえ、警察の対応には不慣れさと動揺が色濃かった。それ以前に、あれだけの高く堅固な城壁がありながら、魔物が侵入する隙など生じるだろうかとね」
「少なくとも空を飛べるような個体は見当たらなかったし、俺が諮問の合間に読んだ警察と政庁の対応記録は、壁の外で起こった事案ばかりだった。地元の連中にそれとなく聞いた限りでも、内側で魔物を見たって話は出てこねえし、むしろ『北海の嶮』をそうやすやすと越えられるもんかって胸の張りようだったな」
海路の北の要衝でありハイラスト有数の港街、ナーサス市街への立ち入りには、街道に面した門を必ずくぐらねばならない。門には兵が常時配備されており、後のユールの言から察するに、他にも何か侵入防止の仕掛けが施してあったのだろう。
ならばなぜ。改めての疑問に、昨夜のナタリフが口にした推論を充てる。
『引き合いの手がないなら、自らそれを差し向ければいい』
含むように言った彼によれば、災害時の魔術師動員で市内をあちこち回る中、消滅寸前の魔法陣や魔法の痕跡をいくつか目にしたのだという。行動中であったため詳細な解析、検証には至っておらず、加えて『魔術師の肌感覚だけど』との前置き付きだったが、この廟参りの道中でも似たような気配をいくつか察知したとのことだった。
「あの時と同じ、か」
数ヶ月前、カマランの宿泊所で目にしたもの。『入口』なのかそれとも『出口』か、そして完全に同じ組成であるかも分からないが、魔法陣の描き方には術者の趣向が透ける、と業界で言われていることから推測するに、同一人物あるいは類似の術式を共有した同程度の能力者が絡む可能性が高いとナタリフは語っていた。
そして、こうも。
『《物質転移》は本来非常に高度な錬成と膨大な魔力を要する術だ。カマランにあったのは、その中でも人間を含む『意思ある生き物』を対象とした最高位の術式。対象の生命活動を一時的に制し自立した思念を圧す、直前までの心身の状態を固定させたまま魔力分解し、しかもそれを多数同時に時空を越えて再構築させるなんて、《巨匠》級の魔術師でさえおいそれと描き得るものじゃない。もしもそれに類するものが、この街にも密かに使われていたのだとしたら』
次いだとある説に至った瞬間、ざわ、とアーツの背筋が凍る。
それは、中央大陸のみならず、広くこの世界に名の知られた魔術師、その名を引用したナタリフの顔に珍しく浮いていた慄き、察せられたその強い懸念と共に得たひとつの確信ゆえであった。
一度ならず二度までも。
いや、違う。
そうして思い出す。母国を脱したあの日、丘の上から眺め見た赤い光景。気配もなく大挙し、都の陥落もかくやと跋扈したあの軍勢は。
「アーツ」
ふとかけられた声に我に返る。いつの間にか沈思していたらしく、気づかわしげに見つめてきたウィラードの、肩に置かれた手に己のそれを重ねて頷き、導き出した結論を自ら紡ぐ。
「やはりこの街に居たんだろう。俺を狙う〈追手〉が」
一見、辺境の領地から中央に向かう顕示、それは両者に通じていて。
「〈使者〉とてそうだ。目的は違えど、双方は目的物を一にしているのだから」
「それにしては不自然が過ぎるよねぇ」
背後から降ってわいた声。その主である魔術師のナタリフは、まだ眠そうな目をこすり、あくびを漏らしながら「おはよう」と歩み寄ってきた。
「確かにそうだな。こいつが街で遭遇したって獣が、仮に〈追手〉だろうが〈使者〉だろうが、一人になった千載一遇の機会を狙ったにしては行動が中途半端だ」
「シリアちゃんの方だって同じだよ。意味深なことを伝えてきただけでそれ以上の接触はせず、その後も音沙汰ないというんだから」
『我らは双子にて』
〈使者〉しか知り得ぬはずの文言を呈した白い狼。もしもあの獣が〈使者〉だというのなら、遠巻きにし続けるのは何のためか。〈追手〉だというのなら、泳がし生かし続けるのは何のためか。じくじくとしたもどかしさと口惜しさがどうしても身に燻る。
「いずれにせよ、向こうから手出ししてこねぇうちは、請け負った仕事を粛々とこなすことしかできねぇな」
半ば慰めのようにウィラードから告げられ、同意代わりに頷いて返すと、気持ちを切り替えておもむろに東の空に目をやった。