第Ⅲ章 啓開(2)
ごーん、ごーん。
どこからか低い鐘の音が聞こえる。平時と変わらず時を刻むその音にどこかほっとして、シリアは取っ手のついた桶を抱えたまま、神殿の中庭へ続く廊下から外を見やった。
うっすらと漂うもやの向こう、明るみを帯び始めた東の空とそれを写しとる海を遠目に思い起こす。
昨日この港町にたどり着き、一時的に身を寄せたシリュエスタ神殿で、まさか夜通し働き詰めになろうとは。だがそれもやむを得まいと今来た方向を振り返る。
未聞の災禍。その被害を受けた多くの人々が、救護を求めてこの神殿に集まり共に一夜を明かしていた。怪我人に治療を施す『癒しの司』をはじめとした神殿の職員はもちろんのこと、いつしか自分のような行旅の信徒や他宗派の者も手数に加わり共助にあたっている。ともかくも今は目の前の奉仕あるのみと、教えられた水場へ向かうべく廊下から中庭に出たその時だった。
『アス・ノーマ』
ふいにどこからか称を呼ばれ立ち止まる。自分はリシリタを発って以降、自衛のためにと、髪全体を白布で覆い隠すシリュエスタの正神官着姿でいる。目の色は隠しようもないが、〈神の愛し乙女〉であると断定されうる要素は今のところないはずだ。それなのにと辺りを見回し、そうして中庭の一角にいた気配に気づいた。
5メイズ(m)ほど先にある植木のそばに、新雪の如き真っ白な毛並みの狼がいる。もしや昨日現れた魔物の残党かとも思ったが、向けられる紅玉色の双眸からは、不思議と敵意は感じられない。だから、静かに問うてみた。
「私を呼んだのはあなたですか?」
『アス・ノーマ』
直後再び届いた声。しかしそれが耳ではなく、脳内に直接届けられる魔力の波動であることに気づく。
『何事があろうと、御身は私が必ずお護りいたします』
畏敬を宿した紅い目に怪訝を返す。
「どういうことですか」
『それが我が主の望みゆえ』
途端ざわりと肌が粟立つ。誰とも知れぬ身に覚えのない庇護に、警戒心が湧きすぐさま身構えた。そうして気配を探るうち、ふと彼の耳が立ち、注意がこちらから外れたように見えてはっとする。
「なに?」
ごく弱い空気と大地の揺らぎ。地鳴りに似たそれに、昨日来の記憶がにわかにぶり返したが、やがて鎮まると緊張を解く。それから慌てて意識を戻した時には、既に白い獣の姿はどこへともなく消えていた。
朝もやが次第に晴れゆく中での不可解な邂逅。よもや幻だったろうかと、確信が持てずしばし立ち尽くしていたシリアだったが、背後から人の足音が近づいてくるのが分かってそちらに顔を向けた。
「シリアさん」
桶を手にやってきた若い女性――自分達を神殿に招き入れてくれた当人であるルーシア・シフファートは、普段は婚姻や養子縁組の手続きを行う『結びの司』に属しているそうだが、今は共に避難者の世話に駆け回っていた。
「水汲み、あたしも行くわ」
追いつくなり、隣立って歩き始める。
「手伝ってくれてありがとう。まさかこんなに人が集まるなんて思わなかったから、本当に助かるわ」
「いいえ。私達も厄介になっている身ですから。それに、そろそろ朝食の支度が始まる時間ですよね」
「炊き出しには人手がいるから、また手伝いをお願いできる?」
「もちろん。そのつもりでした」
「献立はパンとスープって聞いてるし、これを持って戻ったら材料を運ばなくちゃ。西倉庫の根菜と干物と」
「干物?」
「ええ。魚や貝、海藻もいくらかあったはず。塩味と一緒に美味しいスープが取れて便利なのよ」
そうして調理法の解説に移っていく。内陸生まれには新鮮な話題に耳を傾けつつ、シリアは彼女の表情をうかがった。
口調はずいぶん明るいが、こわばりはやはり拭い去れていない。死が身近に迫る恐怖に今後の生活への不安、昨日の今日では至極当たり前の反応だ。ならせめてひとときでもと、他愛もない話を続けながら水場に至った。
「ねえ、シリアさん」
はいと答えて、桶に水を汲み上げる。
「もしよかったら、お仲間と一緒に家に来ない?」
「え?」
「小さい子供を連れての旅の途中なんでしょう? 神殿みたいに人が多い場所だと気を遣うし、領館からもお達しがあったから丁度いいかなって」
昨晩、領主の名を冠した通知が神殿に届けられ、その内容がホールに貼り出された。曰く『被災を免れた一定面積以上の家屋を領命にて一時接収し、臨時避難所に指定する』というものだ。該当する家屋の管理者には、避難者の優先収容と管理報告を義務化すると同時に、住居の提供や避難所としての運営にかかる資金のほか、生活用品や食材の配布などを行う予定であるという。
「我が家は元々エディの実家の持ち物でね、ナーサスでも一、ニを争う網元で、船員たちが集団で暮らしてた所だから、古いけど部屋はたくさんあるのよ。逗留先が決まれば、エディと一緒に行った二人とも連絡が取りやすいだろうし、だから遠慮も心配もせずに来て!」
「いえ、あの……はい」
勢いに押される形で返事をしてしまう。にこりと笑った彼女は、俄然張り切った様子で水の入った桶を持ち上げた。
「そうと決まれば、準備しなくちゃ。知り合いと、他にもあと何組かに声をかけてみようかな」
言いながら建物へ戻っていく。その背を追って駆け寄り、シリアは感心してつぶやいた。
「すごいです。まだ間もないのに、そんなに色々考えられるなんて」
「それは違うわ」
突如不穏をやつした声で返され驚く。
「なにかしていないと、思い出してしまうから。考えていないと、自分の無力さに囚われてしまうから。だから今は、領主様が示してくれた道をなぞることで少し落ち着くの」
エドと彼とは幼馴染なのよ、と続く。
「昔はよくこのあたりまで下りてきて一緒に遊んだものだけど……そのおかげかしら、救助と平行して避難所と食糧の手配をしようだなんて」
微笑むそこには、もとよりの親愛と信頼が滲んでいてとても誇らしげだ。
「この街は昔から何度となく災禍に見舞われてきたわ。人々は長い間、その記録と記憶、教訓を受け継いで、艱苦をも飲み込んで街を守ってきた。だから彼は信じているんだと思う。ナーサスは必ず再起する、そのために、今の自分たちにもできる最初の道を示してくれたんだと思うの」
逞しさの滲む言葉。これこそがナーサス市民の培ってきた胆力、きっと叶うと信ずるに足るものだ。
けれども、とシリアはここであえて伝えようと思った。
「私達も」
「え?」
「わたしたちも、共にいます。この街を、みなさんを、決してひとりきりにはしません」
驚く彼女に真っ直ぐな視線を向け、提げていた桶を置くと胸の前で誓いの印を切る。
「シリュエスタの姉妹の絆にかけて、この身をあなたの御包に、この手をもやいに」
この地の者ではなくとも援けでありたい。視線に心を載せて伝えると、ルーシアの瞳の光が揺れた。
「ありがとう」
行きましょ、と続いた言葉にはいと答えて背を伸ばす。
そうして桶を持ち直した手に、進める足にさらなる力を込め、シリアは明けようとしている朝を急ぎ走った。