第Ⅰ章 過客(かかく)、触る(1)
中央大陸ディスリトの北東に位置するリシリタ王国と、その南に接するハイラスト龍王国の間には、通称『龍の鎖骨』と呼ばれる高原地帯が広がっている。大陸の主要都市間を結ぶ大陸街道の峠には、両国共用の関所が設けられており、国境警備の砦に隣接された石造りの関門は、高原に降る強い日差しを受けて鈍く輝いていた。
「通せ! 通せぇ!」
友好関係を結ぶ両国の往来をかき分けて、突然けたたましい鐘の音が鳴り響く。見やれば、リシリタ方面から走ってきた早馬が砦の敷地に入ったところであった。鞍上の人物は二藍で縁取りされた黒い隊服をさばいて降り立つと、警備兵と二言三言交わしたのち、引き出されてきた馬に乗り換え腹を蹴った。
大きないななきと共に、その尻に括りつけられた鐘が再びガランガランと音を立て、門前に列を作っていた人々が慌てて道を開ける。疾風の如くハイラスト側に走り去ったそれに密かに眉を寄せ、鑑札所に入る列に並んだ黒髪の青年は、額に浮いた汗をぬぐった。
「任務ご苦労」
自分の順番が来たところで、札を差し出し門兵に一言添える。鷹揚な物言いに若い兵士は訝しげな目を向けてきたが、受け取ったそれにリシリタ王の章を認めるや、いでたちをくまなく確認しすぐさま背を正した。
「お疲れ様です、士団長」
敬礼し恐縮する彼に、黒髪のアーツ・ラクティノースはああと短く返す。
「往来に変わりはないか」
「はい。問題なく行き来しております。ただ」
「ただ?」
札を受け取りつつ不穏な語末に問い返すと、若い門兵は周囲を窺いながら声をひそめた。
「懇意にしている『隣人』に聞いたのですが」
そう言う表情はどこか悪戯めいていて。国境線代わりの赤い敷石を挟んで隣に立つハイラスト兵に、ちらと意味ありげな視線を流す。
「最近大小の獣が、ハイラスト国内の街道付近を盛んにうろついている、という話が聞こえてきています」
「獣だって?」
「はい。加えて魔物の目撃証言も、軍の駐屯や警察へ相次いで寄せられているとか」
これは穏やかではない。アーツは気配を読みつつ、今度はハイラスト兵にも札を差し出した。
「昨日現在、人的被害は報告されておりません」
視認後、札の返却と共にさらりと口にされた情報に驚く。
「軍と警察が巡回を強化しており、被害は田畑を荒らすなどといった平時の獣害程度に止まっています。とはいえ相手は神出鬼没、旅のご道中にはくれぐれもお気を付けください」
非常に友好的な反応からは、普段の警備兵相互の関係性、ひいては国同士のそれがうかがえようというものだ。事が済んで顔を見合わせる彼らに「ありがとう」と返して札を懐にしまうと、旅の仲間達を連れだって門の向こう側へと出た。
関門は丘陵地帯のひときわ高い場所に据えてあり、ここから先はしばらく下りとなる。山合いで平地の少ないリシリタに比べると、起伏が少なくなだらかで遮るものがないため、遥か遠い向こうまで視界が開けていた。眼前に広がる深緑の分厚い絨毯。気持ちよく晴れ上がった空との対比が、両目を通してくっきりと脳に焼き付けられた。
「これが<龍>に導かれし<至高の国>なのね」
隣に立った青い瞳のシリアが感慨深げにつぶやく。<神の愛ぐし乙女>であるその象徴、青い髪をすべて隠すようにかぶせられた白いベールが、高原に吹く風にゆらゆらとなびいた。
「思ってたより森が広いわねぇ」
背中に大きな郵便袋を背負った金髪の女性、風の女神の信徒であるキリムは随分と感心している様子だ。
「ハイラストと林王国ナシュリアは隣り合わせ。『大陸の脊梁』たる山々から吹き降ろす風が、ナシュリアからたくさんの木々や草花の種を運んで、ハイラストにも豊かな森をもたらしたと言われているんだ。深い森と大海の際には、おのずと原始の命の律動が生まれる。だからこそかの<龍>がこの場所に棲みついたのだ、と論じる学者も多いね」
教習所の生徒たちに教え説くような語り口。《収集家》のナタリフは、自身の養女である小さなイチゴを見やったが、当の彼女はそんな期待などお構いなしに、すぐそばの草むらで使い魔のフェレットと無邪気にじゃれあっていた。
「しかし、魔物がうろついてるってのは気になるな」
「本来は獣とて森の奥深くに生けるもの。おいそれと人前には姿を現さんもんだが」
背後で懸念を口にしたのは、黒髪のウィラードとドワーフのカガンだ。かすかな緊張を帯びた声色に警戒心が高まる。夕べのうちに確認していたハイラストの地図を思い起こしつつ、アーツは皆に呼びかけた。
「とりあえず街道をこのまま進んで次の大きな街まで出てみよう。到着する頃には夜になるだろうから、そこで宿を取れば、翌朝までの間にいろいろと情報も集められるはずだ」
わかったと答え、それぞれがひとときの休息から再び動き出す。その後を追ってアーツも足を進めようとしたその時だった。
「もし、お若い方」
ふと背後から声をかけられた。振り返ると、杖を手にした旅装束の老翁が一人立っていた。
「なんでしょうか」
「あなたにこれを渡すよう頼まれましてな」
そうして差し出された四つ折りの小さな紙。いぶかしく思いつつ、ひとまずは礼を述べてから受け取る。中を検めた直後、アーツは驚愕を面に浮かべた。
「あの、すみません!」
呼び止められた翁が立ち止まりこちらを振り向く。大分街道を進んでいた彼にすぐさま駆け寄って問うた。
「これを、一体誰から」
戸惑いを浮かべつつ翁が指差したのは、先ほど抜けてきた関門の側だった。しかし直後に首を傾げる彼に引き留めたことを詫び、送った後で小さく嘆息する。
「どうしたんだい」
イチゴを草むらから抱え上げ近づいてきたナタリフが、かすかに寄せられた眉間のしわに気づいて聞いてくる。
「見てくれ」
街道の行き来を邪魔せぬよう道の端に寄りながら、全員がアーツの手元を覗き込む。そこには手のひら大の紙面に、馴染みのない文字で書かれた一文があった。
「おい待てよ、こいつは」
ウィラードの言葉に、皆が等しくさる記憶を呼び起こす。
先般の戦いの折に見た魔法陣。今目の前にある文字は確かに、あの時明かされた秘史と共にあったものだ。
「もしかして<使者>からなの?」
口にするとなお実感が湧いたのか、キリムが思わず身を震わせる。
「何と書いておるんだ」
カガンの声が低まる。
「『我らは双子にて。機を待つ』と」
「任意に接触できる状態にあるってことか」
速やかに文意を捉え、ウィラードが気取られぬように目の動きだけで周囲を見回す。その隣で顎髭に手を添えたカガンは、不安げな表情を浮かべたシリアの手を優しく包んだ。
「それとも、双子の片割れであるかのように君を見つめていよう、という意味なのかな?」
幾分か柔らかに解釈するナタリフの言葉尻には含みが残っている。それに感化されたか、アーツの脳裏に灼熱の地で見えた者の姿が蘇る。あの時、二つの世界を繋ぐ部屋で対峙したのはただ一人だったが、他にも同じ使命を帯びた者――ヴィージの嗣子たるラクレイン・トゥ・アースを狙う<追手>が複数いたとて不思議はない。彼らもまた、同じようにどこからか自分を見ているという含みだろうか。
<使者>に<追手>、他にも推測されうる要素は多い。しかしいずれにせよ、これが何らかの示唆であることには違いない。
「呼び声を導に、辿れ」
ふと<使者>からひとひら残され伝えられた言葉が口をついて出、途端に心の奥底が漣立つ。己を呼ぶ声、それがどんなに些細なものであろうと、今はもたらされた機会をひたすら追うほかにない。
「ならば」
微かな扇情、上げられた顔、まっすぐに行く先を見据えるそのまなざし。
そうして口を引き結び再び歩き出した背中に、仲間たちは皆一様の笑みを浮かべて追いかける。
旅はまだ、始まったばかりだ。
山肌を上がってきた風を正面から受け止め、アーツは己の心持ちを新たにしながら、道を行く一歩を強く踏みしめた。