月が綺麗ですね
夏目漱石って知ってますか?
”坊ちゃん”・”こころ”等で有名な東京都新宿区生まれの小説家です。
写真から伺える印象ですが、なんとなく紳士な感じがしますが、実は結構ぶっ飛んでるとこがあったみたいです。
例えばこんな話。
吾輩は猫である。名前はまだない。と言う出だしから始まるあの猫、実は漱石が飼っていた猫がモデルなんですが、そのモデルの猫には生涯名前がなかったらしいです。元々は漱石宅に住みついてしまった野良猫だったらしいのですが、漱石はその猫に名前を付けず、ただ”ねこ”とだけ呼んでいたそうです。
猫が死んだあと、本当に名前がなかったので、漱石は卒塔婆に”猫の墓”と書いたそうです。
ちなみに友人たちに猫の死亡通知も送ったそうです。
また中学の教員をしていた時の話ですが、ある生徒が漱石の説明が辞書と違う事を指摘すると、”辞書が間違っているから辞書を直しておけ!”と言い放ったそうです。
他にも、頬杖をつき懐に手を入れたまま講義を受ける生徒を注意したら片腕がない事が判明。その時に言った一言もぶっ飛んでます。
”失礼した。でも僕も毎日無い知恵を絞って講義をしているんだから、君もたまにはない腕を出したらよかろう。”
漱石だから言える事なのかもしれませんが、普通の人間ならなかなか言えない事ですよね。
でもこんな事言う割に怖がりだったりもしたみたいですよ。怪談話とか苦手だったと何かの本で読んだ事がありますから。
さて、僕が何故急に夏目漱石の話をしたかと言いますと、そんなファンキーな漱石先生の作品に恋をした文学少女的なあの子を僕が好きになったからなんです。同じクラスの彼女は窓際の席の前から2番目の席で僕とは隣同士の席。時間があると小説をよく読んでいて物静かな子って言うのが僕の第一印象ですが、話しかけてみると意外と気さくで、席が隣という事もありそれなりに仲良くしてくれていた。
小説好きが高じて図書委員になった為、昼休みや放課後にはよく図書室で見かける事が多い。
そんな彼女ですが、僕ら男から見ると大変知的な女性に映る為、密かに恋心を抱く輩も多かったと思います。現に彼女に告白して撃沈する男子。それを見て直接告白するよりも、文学少女にはやっぱり手紙だろ!文章で心に訴え掛ける事が有効なのでは?と判断し、気持ちを認めたラブレターを手渡すもまたも撃沈する男子。
あの手この手でアプローチするものの誰も彼女のハートを射止めたものはいない。
そんな彼女についたあだ名が、難攻不落の柳川城。
柳川城とはあの加藤清正公もほめたたえた程の城です。一筋縄ではいかないって言うのが我々男子の間での見解。
でも僕には少しだけ勝算があった。
席が隣だった為、ライバルよりも情報はやや多く持っていた。
小説が好きな文学少女と言うのがみんなの見解みたいだが、少し違う。本当の彼女は、夏目漱石の作品が好きな文学少女なのである。
つまりヒントはここにある。
そして少なからず自分も漱石ファンである為、彼女の心をほんの少し動かす様な言葉に覚えがあった。
ある日の夕方チャンスが巡ってくる。
時刻は18時を回っており、夜は帳を降ろし始めていた。
偶然にも帰りが一緒になった為、僕は彼女と途中まで一緒に帰る事を提案。
それを快く受けてくれたのは、席が隣同士で、互いにある程度気心が知れているからなんだと思う。
他愛もない話をしながら僕らは駅へと続く道を歩く。
澄んだ空気、10月の夜空は星がとても綺麗に見えた。
月は出ている。
僕は不意に立ち止まって彼女に語り掛ける。
「今夜は空気がとても澄んでいるからさ、・・・月が、綺麗ですね。」
僕の言葉に彼女は一瞬ハッとした。
それものそのはず。これも漱石ファンであれば有名な話で、漱石が帝国大学で教鞭とっていた時の事。
”I LOVE YOU”を、”我汝を愛す”と訳した学生に対して、「日本人はそのような無粋な事を言わないものだ。そういう時は”月が綺麗ですね”とでも訳しておけば伝わるもんだ!」そう言ったそうです。
漱石ファンの彼女ならこれを知らないはずはないんだ!
つまり僕は今、”彼女にあなたの事が好きです!”と告白した事になる。
正直、かなりの勇気を必要としたが、今がその時と思い一世一代の大勝負を仕掛けた。
「それは今夜の事?それとも文学的な意味?」
僕の少し前を歩いていた彼女も歩みを止めて、こちらを振り返ると優しい顔で笑って言った。
「僕が言いたいのは後者の方、つまり文学的な代用表現だね。」
彼女は夜空に浮かぶ月を眺めると、そっと瞳を閉じる。
1分だったのか?10分だったのか?
答えを待つ身にはそれがとても長い時間に感じた。
「突然の事だったから、ね。・・・少し頭が真っ白になっちゃった。私にとってその告白の仕方はとても理想的。でも恋愛経験のない私は今少し戸惑っている。しっかりとした答えを出すから、一日だけ時間をくれない?」
今までならその場で断っていた彼女だ。いきなりここで答えを出さないという事は、多少なりとも希望が持てるのだろうか?
・・・今夜は眠れそうにないな。
でも考えるという事はそういう事も含めての事だから、僕は黙って頷いた。
僕らはまた歩き出す。
それ以上お互いに言葉を交わす事はなかったが、駅へと続く道を黙ったまま並んで歩いた。
駅に辿り着くと、ここでお互い別々となる。
僕は駅の西側の商店街の向こうの方で、彼女は南口の住宅街へ。
普段ならそれほど長く感じる通学路ではないのだけれど、今日は何故かとても長く感じた。
「じゃあ僕はここを西だからさ、気をつけて帰ってね。」
今出来るありったけの笑顔で。でも少しだけ間抜けそうに片手をあげ駅の西側の道に向かおうとする僕を彼女が引き止める。
「待って。」
左腕の袖口を掴まれる。
何か言おうとしているのだろう。
僕は黙って彼女の次の言葉を待った。
沈黙を保つ僕らの横を沢山の人が通り過ぎていく。
同じ年頃の学生、仕事帰りのサラリーマン、年配のおじさんやおばさん。
周りからは僕達はどの様に映るのだろうか?そんな事を考えていると、彼女がその沈黙を破り話し始める。
「さっきは時間が欲しいって言ったけど、正直な事を言うともう私の中じゃ答えは決まっているの。ただ心を落ち着けてからでないと、まともにあなたの顔を見る事すら出来なそうだから、そういう意味で時間が欲しいって思ったの。だからね、その、ね。私、死んでもいいから。」
それだけ言うと、彼女は一目散に南口に通じる道を走って行ってしまった。
その後姿を見えなくなるまで見送ると、僕は今の言葉の意味を頭の中で考える。
”私、死んでもいいから”
これは二葉亭四迷がツルゲーネフの”片戀”を和訳した時に生まれた言葉で、”月が綺麗ですね”とセットで使われる言葉だ。
つまり、僕の告白をOKしてくれたことになる。
文学が好きなだけあって、なんと奥ゆかしい返事であろうか。
僕は今更ながらに実感が湧いてきて、もう一度空の月を眺める。
今夜はとても月が綺麗だ。
いつも以上に。いや、今までに見上げた月の中では断トツに美しく僕の目に映る。
月がとっても綺麗だから、さ。ちょっとだけ遠回りして帰るのもいいかな。
そんな事を思った17歳の夜でした。