第5話 狂気
次の日も待ち合わせ場所は、静かな原っぱ
太陽の光が随分とまぶしかった。
そんな中僕は、クジラの声を録音するために、バッグの中に色々な機材を詰めてここまで来た。
上手くいったら、と思うと気持も弾む。
僕は自身満々でスマホを取り出すと、あかりに説明を始めた。
「バウリンガルアプリを改造して、クジラ用にしてみたんだ!」
「そうなの、すごい!」
あかりが目を輝かせる。
ぼくはうなずくと、説明を始めた。
これはもともと犬の声を何パターンかに分けて録音してある。
それは楽しい時の声だったり、悲しい時だったり。
そして、マイクが拾った声を波形解析して、録音した声と比較、楽しい声嬉しい時のこえだったら、嬉しいって文字が表示される。
もし登録してある犬の声をクジラに置き換えたなら、クジラの鳴き声に応じて、それが画面上に言葉ででてくることになるんだ。
「ふうん」
なんだかあまり良くわからなそうにあかりが相づちを打った。
真剣になって昨日の成果を自慢する僕に対して。
「それじゃあ、ホエリンガルの完成だね!!」
クジラは英語でホエールでしょ、ホエーってなくし、だからさとあかりがニコニコしながら呟いた。
変なネーミングセンスだ。
もちろん実際はあかりに説明したのより、もう少し複雑だ。
バゥリンガルは、元になる声を混ぜたり、分解したりしながらマイクで録った声と比較する。
それはつまり、元の声音が3種類ある場合、色で言うなら赤と、緑色と青に相当していて、それらの混ざり具合で判断する。
赤と緑が混ざって黄色になるように、陽気な感情を表したり。
赤と青が混ざって紫色のように、少しふさぎこんだりする感情を。
三つが混ざっていれば、軽い混乱と。
そんな風にして、今までよりはるかに犬の声から正確に感情を読み取れる。
けど、その犬用の代わりとなるクジラの音声を探すのにはひどく苦労した。
大学の研究室のホームページや研究論文なんかを調べ続けて、僕はようやく、海洋生物学の研究者が、数年間にわたってクジラを追い続け、声と状況を克明に記したページをみつけた。
ありがたいことに、解説つきで音声データはすべてそこにあった。
そんなこんなで、データの解析やら色々アプリをいじくりまわしていたせいもあり
おかげで今日はひどく寝不足だ。結局ほとんど寝ていない。
僕の説明はあまり伝わっていないようではあったけど、そうなんだクジラの言いたいことが分かるんだ、とあかりは一応納得してくれた。
「でもクジラはあんなに高いところを飛んでいるけど、声聞こえるの??」
いいところに気づいた、そのために今日は色々と準備をしてきた。
遠くの音をとらえるために指向性のパラボラマイクってものがある。
僕が普段やっているような録音で使うマイクとはちょっと別物だけど
臆病な鳥の鳴き声とか、自然環境の音をうまく録音したい人なんかが使うみたいだ。
傘を改造しても代用できるらしく、昔試しに作ってみたことがある。けどまさかこんなことに使うとは、思いもしなかった。
「どかんとこれでクジラの声をとって、何が言いたいのか聞いてみる!」
なんだかワクワクしてくる。
さあクジラなんかしゃべれ!!
あかりと二人肩を並べて、ドキドキしながら、クジラが鳴くのを待った。
「あっ、こっちに飛んできた!!」
あかりがはしゃぎながらそう言う。
光に包まれた白い空に、甲高い大音量のクジラの鳴き声が響き渡る。けど僕のホエリンガルからはなんの反応もなかった。
「おかしいねえ・・・」
あかりが首をかしげた
なんでだろう、家で試しに他のクジラの声でやったときにはうまくいった。
クジラがうれしい時になくという声を、僕のスマホのマイクに流すと。
確かに、「楽しい!」、「嬉しい!」、「幸せ!」とたどたどしい文字が、画面上に流れたというのに、どうしてなんだろう。
遠すぎて声が聞こえないのかなあ?
いや、僕のスマホにはきちんとクジラの声が録音されている。
その状態でしばらく続けてみても、クジラの声は言葉に変換されなかった。
いくらやってみてもなんの文字も画面には浮かんでこない。
周りの音がうるさい?
でもなあ違うよなあ、録音されているのはクジラの声だけだ。
この間和志に部活に来ないなら、せめて家で練習しろと、無理やり貸し付けられたアンプに、スマホをつなぎこんで音量を上げながら、あかりと二人で録音したクジラの声にホエリンを向けてみる。
うーん。
そんなこんなで、悪戦苦闘しても、全くダメだった。
時間だけが、あっという間に過ぎて行く。
気づけばもう夕方だった。空が赤く染まりかけて、夕暮れ時に鳴くセミの声で、あたりがひどくうるさかった。
「また明日にする?」
あかりがそう言って僕の顔を覗き込む。
半ば意地になり、そんなあかりを無視するかのようにして、だめだなあ、なんでだろう、困り顔をして僕は空を仰いだ。
夕焼けから、夕闇に。夜の先端が少しずつ伸びて、僕の気持も沈みかけていた。
どうして、うまくいかないのだろう?
そのとき遥か上空のクジラの“眼”が夕焼けよりも赤く光ったような気がした。
あれ、なんだろうと、僕が瞬きをするほんのわずかな間よりも速くクジラが巨大な咆哮を上げ、“セミの声”がやんだ。
あああああっああああああ。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。
上空のクジラの様子がおかしい。
地獄の底から登って来るかのように、気持ちの悪い悲鳴を上げている。
口からよだれを垂れ流すかのように泡を吹きながら、ギリギリとないはずの歯をかみしめ真っ赤に爛々と光る眼をした、クジラが僕らの方を“見た”。
一変したクジラの姿に、あかりが恐怖のあまり目を見開く。
ものすごいスピードでクジラが僕らの方へと向かい突っ込んできた。
「うわああ」
こんな時なのに、あかりが緊張感のない悲鳴を上げている。
あかりの手をひっぱるようにして、とっさに横っ飛びで倒れこむ。
僕らのすぐ上をクジラは通過した。
轟音が僕の頭上を掠める。
埃まみれの地面に転がって、切れた唇と、乾いた土から泥と血の味がした。
草むらに倒れたまま、必死に上を見ると、クジラはものすごい低空飛行で、その場の木をなぎ倒し、めちゃくちゃな軌道でそのあたりをぐるぐると狂ったように駆け廻り、雲を突き抜けるように急上昇して怒りとも、悲鳴ともつかないような鳴き声を上げ続けた。
「走れ、あかり逃げるぞ!」
抱きかかえるようにしてあかりの身を起こすと、そのまま原っぱを駆け抜けるようにして走り出す。
遥かなる上空から、悲鳴と怒号の混じったような、どこか悲しい叫び声が
聞こえ続けてくる。
と、木々をなぎ倒して、ダイブするかのように真横から僕目掛けてクジラが突っ込んできた。
またしても転がるように地面に倒れこみながら、猛スピードで超低空飛行を
続けるクジラをやり過ごす。
埃と泥にまみれ、何も考えられない。すれ違いながらクジラが後ろを流し見るように
真っ赤な眼で僕を睨みつけた。
バウンドするかのようにクジラは地面にぶつかると
地面をまるで耕作機械のように抉りながら、泥ごと飲み込んでいる。
なんとか逃げないと、そう思い、一瞬動きの止まった僕を狙うかのように
クジラが真上から回転しながら僕らへと急降下した。
抱きしめて、かばうようにした僕の脇腹にクジラのひれが激突する。
そのまま地面に叩きつけられ全身がひどく傷む。
空から見下ろす牙のない口。そこから垂れ流れ続けるあぶく。
見上げた僕の眼の前に、今にも溶け出しそうな、濁ってよどんだクジラの赤い眼があった
もうだめかと思ったその時、少しだけ先に、アンプとスマホが転がっているのが見えた。
苦痛に身をゆがめながら、クジラの気を引くようにして、必死にそこを目指す。
後から追いすがる怒りと苦痛にまみれたクジラと僕の眼が交差する。
超高速でこっちへ向かってくるクジラに、アンプもスマホも音量を最大限にして
僕は録音した声をかき鳴らした。
轟音で僕の耳が一瞬はじけ飛んだ。
けどそれはクジラも同じよう。
のけぞるようにして、空を仰ぐとクジラはまた身を悶えるようにして、どこへ向かうともなしに、空を縦横無尽に駆け巡った。
その隙に、やっとのことでその場から身を起す。
僕らは呆然とその光景を眺めていた。
やがて天空で大声を上げ続けたクジラは大空ではじけるように身を捻り、力を使い果たしたかのように、ゆっくりと空から落ちてきた。何もかもがスローモーションのように僕の眼に映った。
夕焼けと、太陽の光に照らし出されて荘厳な光景だ、地面にぶつかりそうになる寸前でクジラは息を吹き返したかのように身をひるがえすと、ふわりと姿を消した。
その間は、一瞬の出来事だった。
身動き一つ取れない僕の横であかりがくしゃくしゃになった髪を押えて、震えていた。
顔色が普段よりずっと青ざめていた。
もう日は落ちかけていて、辺りが随分と暗い。
どうしてこんなことになってしまうのか、色々上手くいくはずだったのに・・・・・・
先ほど打ちつけられた、脇腹が不気味なぐらい体温を奪われて、ひどく傷んだ。
「クジラが消えちゃったわけじゃないし」
「また明日になれば、元に戻っていると思うんだ。いつもあんな風じゃないよ」
帰り際に、あかりが落ち込んだ僕を励ますようにそう言った。
うんって僕は力なくうなずいたように思う。
なんだかどこか遠くの世界に自分の気持ちが行ってしまったようだ。
いつの間にか、また鳴き出した
セミの声がいつまでも、頭の中で鳴り響いていた。
「また今度やってみようよ」
黙ったままの僕のそばで、あかりがずっとしゃべっていた。
そんな優しさが少しだけ、ありがたかった。




