ラボφ ~桜色の部屋~
折れ曲がる大小の枝を、四方へ伸びやかに広げる大きな桜の木々。その間を、透き通る薄い羽の躍動にまかせて、ミツバチの彼女は渡り飛ぶ。
枝から枝へと、独特に折れ曲がった細かい枝を意図も簡単にかいくぐり、花から花へと飛び移り、花粉を集めていた。両方の後ろ脚には見事な“花粉だんご”がすでに完成していた。
一仕事おえて飛び離れようとする。突如、姿勢がくずれた。彼女は花粉だんごをつけた身体の重さを計算せずに羽ばたき方を間違えてしまった。
なんだ!? しまった!
花びらが散り落ちる中を、そのまま意に反して地上めがけて急降下してしまう。
小さい羽は、必死に低くく重く振動する羽音をたてる。苦痛とも想っていなかった花粉だんごの重さを、彼女はこのとき感じた。取り放題にうかれているうちに桜のかおりかその蜜に酔い、頭の回転がにぶってしまったのかもしれない。
地上では二本足の大きな生き物が大勢、立ったり座っていたりして大声で騒いでいた。その中の一人へ、頭めがけてぶつかってしまいそうになる。
羽をたくみにはばたかせる。ぎりぎりのところで巨大な生きものの耳をかすめるだけですんだ。
しかし、次の瞬間は、地面が迫る。花びらもちらばる、広く置かれた様々な食べ物の一つに激突しそうになる。
おっとっと!
なんとか寸前で空中停止することができた。
まあ、こんなものだよ。ボクの飛び方は……。
危機にさいした飛行にうまく対処できた自分を誉めたいのも束の間である。彼女の存在に気付いた巨人たちは、切り裂くような声を上げ、大きな腕を振り回してきた。追い払いたいのか、叩き落としたいのか定かではない。四方から丸太のような腕が襲ってくる。しかし、危機におちいるもそこはミツバチである。
どうってことはないよ。
瞬時に身をひるがえして暴れる巨人たちの間を縦横無尽、思うとおりに大小のターンを重ねてかわしていく。仲間の働きバチがみたら、度胸を兼ね備えた華麗な技として褒め称えるものも、巨人たちの目には恐怖の乱舞いへと写像しているようだ。
おっと! いけない。調子に乗ると空中に毒をまかれてしまうからね。
小雪が降るような花びらの中、とっさに、ドングリ型のお尻を巨人たちへ向けると加速してはるか上、安全な高いところへ上昇する。
危ない危ない……。
大騒ぎの巨人たちを見下ろしたミツバチは、苦もなく大きく旋回する。そこで疑問を抱く。
ところで連中は、花がたくさん咲いているところで何をやっているのだろうか? 一度先輩たちにうかがいたいものだ。それにしても彼らから見ればかなり小さいボクなのに、野太い咆哮や、かなきり声をあげてなんとも気心の弱い生き物なのだろうか?
突如頭からのびている二本の触角が、それぞれぐるぐると回る。
なるほど! だからあのように数にたよって群れるのか。ボクたちも群れをなしルールはあるのだが、少し違うようだ。
今日はあちらこちらで花が満開だ。嬉しさのあまりにミツバチは、冒険心も相まって遠くまで来てしまったことを少しばかり反省する。だが彼女は迷わず方角を定めて帰路につく。細く節のある六肢はリラックスして下方へ垂らす。その姿勢で心地よいすべるような巡航速度の水平飛行をしばらく続けた。気まぐれでさらに高度を上げて見晴らしをよくした。
突然、春風が打つようにふきつけてきた。驚くのもつかの間、彼女はそのまま空気の津波にのまれてしまう。高度があっという間に下がった。体勢を立て直そうと何度ももがいていたそのとき、背中を硬いものにぶつけてしまった。衝撃で失神しそうになり、身体がこわばる。どこかを痛めてしまったのではないかと案じた。飛翔する力をうしないこのまま地上へ墜落するのか? いや、羽は大丈夫なようだ。興奮ぎみにあらゆる感覚をはたらかせ、太陽や地面の方向を確かめ姿勢を立て直す。花粉だんごは無事である。
冷静になって周囲を見渡した。透明な板が目の前に広がっている。どうやら人間の作った“大きな巣箱”の一つらしい。すぐに風はやんで飛翔も楽になる。
おや? 透明な壁に花粉が……。
よく目を凝らす。花粉だんごのわずかな欠片がガラスの表面にくっついていた。ぶつかった拍子のものだと気が付く。でも、それもすぐに目移りしてしまう。彼女はガラスの表面に写った美しいミツバチの姿に見とれた。ついでに窓の中を覗きこむ。人間が二人見えた。空中を停止して様子をうかがう。どうやら桜の木に群がっていた、あの恐ろしい種類とはまたすこし違うようだ。
なんだかおとなしい雰囲気だ。もっと近づいて見てみたい……。
でもガラス板のためにミツバチは中へ入れない。窓を見渡すと、わずかに隙間があるのを見つけた。脚をたくみに使ってはうようにもぐりこめば入れそうだ。でも大切な羽を傷めそうだからあきらめる。それに入ってみたところで、この二人は、あの桜の木々の下で騒いでいた巨人達と同じ振る舞いをするかもしれない。
ボクを追い払うのではないか?
彼女は成就しない好奇心のやり場にこまる。
そよ風を受けた。
おっといけない。もどらないと先輩たちに心配をかけてしまうから……。
遂行すべき仕事を思い出したミツバチは、羽を力強くはばたかせてガラス窓から離れる。その向こうにいる人間二人へ小さな宙返りをつくって別れをつげた。
*
春のそよ風が吹き付ける研究室の窓から、夕陽になりかけの低い日差しが入り込む。部屋のほぼ中央には大きな机が備えられ、ブレザーを着る一人の少女がそこで椅子に腰掛けて読書をしている。他にも数冊、机に重ねられていた。
眼鏡をかけながら読みすすむ彼女のもとへ、早苗は湯気のたつティーカップをしずかな仕草で机に置く。
「ごめん、クッキーもケーキもなくて……」
「ありがとう。紅茶だけでいい」
「ああそうだ、キャンディーならあるよ」
「いいえ、今はいらない」
そっけない返事の少女は一旦、眼鏡のフレームに細い指先をふれると、姿勢を変えずに開いたページへ視線を向け続けた。
早苗は、カップを降ろしたプラスチックのトレイを両手で抱きしめた形で胸にあて、彼女の後ろに立つ。眼鏡の少女が開いているページを眺めた。字が小さい。少し眉の間にしわが現れかけた。凝らした瞳は、ちょうどよい位置を求める。前屈みになった。息を吹き掛けて読書の邪魔になってはならないと、距離や高さを細かく調節する。肌が触れそうなほどでもない。けれど髪は髪にさわりそうだ。それでやっと肩ごしから盗み見る。
(ふむ、『静磁場とベクトル・ポテンシャルの関係式B=∇×Aが∇・B=0を満たすのは、電場と静電ポテンシャルの関係式E=−∇φが∇×E=0を満たすのと似ている』………初学者の電磁気学か。ということは基礎の反復……)
どこをどう読んでいるのか納得した早苗は、一歩さがって腕を組む姿勢をとろうとする。しかし、トレイが邪魔になり、片方の目が悩ましげに歪む。すぐにあきらめて視線を移し、読書にあけくれる彼女の横顔をうかがう。耳とやわらかい線の頬っぺた。眼鏡のフレームだけが分かる。
それもわずかで髪へと目を凝らした。かすかな黄色い西陽のためなのだろうか、少女の長いストレートの黒髪は、その陰影とまなう質感をいっそうひきたたせている。
そのとき早苗の鼻の中でしとやかな匂いをほのかに感じた。
(あれ? なんだろう、外からきているのかな。でも窓は閉めているのに……いや、もしかして……)
自分の感覚がどこへ流れているのか迷いかけた早苗はトレイをかたくつかみ直すと、口を開く。
「ねえ香織、桜が満開で、あっちこっちでお花見やってるよね? 近くの大きな公園に行ってみない?」
枝折りを挟んで本を閉じた彼女は、ティーカップを静かに取り、紅茶を一口飲みながら遠くを見つめる。
「人が集まるところの桜の木の周りは、アルコールの匂いばかりで、大人たちの吐瀉物があちらこちらに落ちている。そんなところ、見ても桜の木が可哀想だとは思わない?」
早苗の背中に少し冷たいものが走った。
「うん、どうかなぁ……うーむ、人によりけりかなー」
眉毛が“ハの字”になった早苗はその場しのぎで頭をかいてみせる。
もう一口飲んだ黒髪の少女はティーカップを置くと瞳を早苗に向けた。
「桜のことは別にして、ここの紅茶はいい香りはするけど、あなたは飲まないの?」
「ああ、そうだね」
早苗は自分の紅茶を急いで用意し、ふたたび本を開いた彼女の向かいへ座る。
「あちっ!」
香織の様子をまっすぐ見つめたまま紅茶を口につけた早苗は、思わず顔が彩色したように真っ赤になる。火傷をしたか確かめようと舌なめずりしたり人差し指で軽く唇のまわりをふれてみる。
怪訝な目で黒髪の少女は見つめてきた。
「どうしたの? いつも会っているのに、はじめて地球外生命を見るような顔をして」
「あっ、いや、なんというか、気づかなかったことに気づいたというか……えっと……」
なんとかその場をやりすごそうと笑顔を作る。
「自前の言葉が見つからないようね」
眼鏡をかけた少女は唇の端を苦笑いしかけたように見せた。早苗は目のやり場に困る。
(うーむ……この人は憂えず恐れず……)
張り詰めたような静けさが、重い流体となって体にまとわりついてくる。皮膚から内部に染み込んで、迷い道から抜け出す気持ちをしおらせてしまうほどに支配しようとしていた。突如、研究室の扉が音をたてて開いた。
「やあ、お二人とも!」
重い空気を吹き飛ばす甲高い声が部屋中に響きわたる。強引に開いた出入口の真ん中で仁王立ちするのは彼女たちと同じ年頃の少女だ。
とっさの出来事に驚いた早苗は肩まで伸びている髪を逆立てそうになった。だがすぐにうれしそうな顔に変えて迎える。
「ああ、ちょうどよかった……じゃなくて、カザカどこへ行っていたの?」
たたずむ少女の、茶色の短めな髪に合わせたようなきらめく目が二人を見つめていた。
「おや? 紅茶ではないですか。へっへっへっ。これを持ってきたんですよー」
元気でほがらかそうな女の子の片手には和菓子屋の包装紙に包まれたものがある。
「――フンフフーン――」
鼻歌をかなでながら大股で部屋の中へすすむと、そのまま机の上に丁寧とは言いがたいそぶりで包みを置く。不意の来訪者はもったいぶった笑顔で二人の表情を確認するように目を配る。そして包みを広げて中身を見せた。
「ほらほらどうですか! どうですか! 桜餅ですよ! ちょっとここで“お花見気分”に浸ろうという提案をしたいのです」
机をはさんで向かい合わせに座っている二人は黙ったまま、陽光を跳ね返すようなカザカの輝く目を見つめた。
香織の眼鏡の奥からきた乾いた雰囲気の瞳と、早苗の整理のつかない驚いた丸い目の先で、カザカの笑顔が固まった。
「あれ? だめかな?……ちょっと駅前の商店街まで行ってきまして。ここのお店の桜餅は、桜の風味がいいんだけど……」
わずかの沈黙の空気に優しげな声がただよう。
「フフフ……」
薄笑いを耳にし、その方向へ早苗は視線を向けてみる。黒髪の少女は微笑を浮かべ、手にしている本をまた閉じた。
「桜の香りか……それではカザカの紅茶も出さないと、ね? 早苗」
思いがけない気づかいに、カザカの目はLEDが点滅するようにまばたきを繰り返す。次に白い歯を見せた。
「あれ? シャレですか?」
「違うけれど」
「それとも今、自分のこと言いました? 言いましたよね?」
黒髪の少女の頬が朱色にそまる。
「ち、ちがうったら。そんなつまらないこと言うわけないでしょ? カザカ、わたしの名前で遊ばないでよ!」
「あ、ああ、ごめんなさい。へへへ……」
にらまれたカザカの額の隅に小さな汗の滴が光る。
その一方、香織の変化に早苗は思わずまた頭をかいた。それをカザカは見逃さない。
「ん? なにごとですか?」
「いや、別に、あは、あはは……」
早苗はまた無意識に頭をかこうとした。自分のくどい手つきに気付くとすぐに止めて、手のやり場に困惑した。
あわててカップをつかむ。紅茶の数滴が指にこぼれた。
「うぁっちっ!」
「大丈夫?」
カザカと香織のほぼ二人同時の言葉がかかった。
「いや、その、早く桜餅が食べたいなぁと……」
急いで席を立ち、早苗は訪れた女の子のために手早く紅茶を作る。
「それではいただきますか。ささ、ではどうぞ香織おねえさま」
「私からでいいの? 気づかいはいらないのに……」
カザカのすすめで先に香織が差し入れの和菓子を手に取る。
「うん、おいしい」
「では次にサナ先輩」
「いやいや、カザカさんお先にどうぞ」
「いやそういわず、まあお一つどうぞ社長」
「私は社長になったのか? するとカザカは?」
「わたしはこの学園で暗躍する黒幕です」
「それは怖いな」
早苗も一つつかむとゆっくりほうばった。口の中を桜の香りがひろがる。
椅子に腰掛けたカザカは、自分の買ってきた菓子へ手をつける前に、ティーカップを慎重にひとすすりする。味わいながらいたずらっぽく目を細めて、香織が読んでいる本を見つめた。
「ほほう……ベクトル・ポテンシャルは任意のスカラー関数χをベクトル演算子で∇χにしたベクトルを足しても変わらないですよね?」
不意の問い掛けに、香織は顔を動かさずに瞳だけをカザカへ一瞬向ける。それは守るために、容易な事では動じないといった威圧感をわずかにただよわせた。
「分かっているくせに……」
眼鏡の少女の唇から出た細い一言に、カザカは憎めない微笑を返す。
「いや、分かりませんなぁ」
「――あなたは空手もやっているんでしょ? それなら、基礎の反復はおろそかにできないことは知ってるとは思うけど」
「それがその……おろそかでして」
「カザカらしいわね」
「でもここにタイミングよく桜餅を差し入れたのはどうですか?」
「それはお見事です」
「うん、見事だ」
今度はカザカへ二人の少女がそろって応えた。
机を囲み三人の間に小さな笑い声が交差する。はずむ会話の中で早苗は眼鏡をかけた黒髪の少女の方をそれとなくちらりと見る。
(うむ……女の子から見た女の子は、不思議に見えることがある……)
早苗は食べるしぐさの中で、気づかれないようにうなづいた。
了