限界値の攻防、外部冷却装置(ラジエーター)の発見
6時間目のチャイムが鳴ると同時に、悠真は机に突っ伏した。
クラスメイトの目には、いつもの「死んだように眠る置物」に映っていただろう。だが、そのまぶたの裏で、悠真の脳内演算回路はかつてない感度で情報の精査を続けていた。
(廊下の足音3名、止まることなく通過。右斜め後方の座席、断続的なスマートフォンの操作音……。周囲の視線に執着の兆候なし)
ソラの下駄箱に入っていたあの写真。犯人はこの教室にいるのか、それとも違うクラスか学年か。教職員の可能性すら否定できない。悠真は脳内スイッチを「オン」にしたまま、聴覚とわずかな隙間からの視覚を駆使し、周囲をスキャンし続けた。だが、放課後のチャイムが鳴るまで、犯人につながる明確な違和感は検知できなかった。
(……このままのペースで行くと、また今日もバイト中に倒れてしまうかもしれない)
何も手がかりが掴めないことへの焦燥と、数時間に及ぶ情報の膨大な蓄積。こめかみの奥を叩くような重苦しい圧迫感が悠真を襲う。
昨日のように倒れてしまえば、本格的に店にいらぬ心配をかけてしまうことになる。今日はシフトを短縮してもらうよう、店長と掛け合うべきだろう。
今日のバイトはソラと悠真が入っており、美月は休みだ。写真の件もあり、より一層の注意が必要だが、学校と違いバイト中にソラと一切やり取りをしないわけにはいかない。
そもそも、同じ店で働いていることを犯人はすでに知っているのか。まだだとしても、露見するのは時間の問題だ。その時、犯人は次にどんなカードを切ってくるのか。
悠真は思考を巡らせながら、ソラとは別々にバイト先へと向かった。
着替えを済ませてバックヤードから出ると、店長の小杉が姿を現した。
「お、水瀬副店長。昨日途中で倒れたみたいだけど、今日は大丈夫?」
「……まだ全快してない感じです」
悠真はあえて気だるげに、最小限の言葉で答えた。
「なので、ピークタイムを過ぎたら早めに上がらせてもらっていいですか?」
「おお、もちろんだよ」
小杉は心配そうに悠真の肩を掴んだ。
「でも、『副店長じゃないです』って突っ込みがないところを見ると、かなり調子悪いみたいだね。今日はもういいから、このまま帰りな?」
(……それを体調の指標にしているのか?)
非論理的な観測基準だと訝しげに思った悠真だが、コミュニケーション能力の高い――ただし一方的であることも多い――店長らしい配慮なのだろうと、妙な納得感があった。
「いえ、時間短縮にしていただければ本当に大丈夫です」
「そう……? まあ、水瀬君にピークタイム抜けられると、全く回らなくなって困っちゃうんだけどね~……って、せっかく心配して帰っていいよって言ったのに台無しか」
小杉は一人でノリツッコミのように軽口を叩き、最後は真面目な顔で付け加えた。
「でも、本当にしんどくなったら、すぐ言うんだよ?」
悠真が「はい」と短く答えると、小杉は彼の肩をポンポンと叩いて去って行った。
すると、入れ替わるように、先に入店していたソラがさりげなく近寄ってきた。
「ねえ、大丈夫? あんた、学校でずっとスイッチ入ってたんじゃないの?」
ソラが小声で、探るように話しかけてくる。
「……問題ありません。ただ、持続限界が近いのは事実です」
「無理しすぎだって……。厳しそうなら、すぐ言って?」
「店長には話しました。ピークが終わったら早退させてもらうことになっています。……そこまでは、何とか」
悠真はそれだけ告げると、表情を消してホールへと踏み出した。
ディナータイムが始まると、悠真は「オン」の状態を極限まで研ぎ澄ませた。
各テーブルの注文状況、料理の提供順序、ドリンクバーの補充タイミング、会計を待つ客の微かな動静。それら全ての変数を脳内で統合し、最短距離の動線で捌いていく。混雑する店内で、悠真だけが別次元の速度で「最適解」を出し続けていた。
店長の小杉も、ソラも、他のスタッフも、その働きには目を見張るしかなかった。体調不良を口にしながらも、悠真一人のパフォーマンスは他のスタッフ数名分に匹敵していた。
だが、その代償は確実に彼を蝕み、脳内アラートは止むことなく発報され続けていた。
(何とか、持ってくれ……!)
ピークタイム終盤。悠真は祈るような心地でタスクをこなしていたが、視界は白く霞み始め、一歩踏み出すたびに脳が揺れるような感覚に襲われていた。
「もういいよ、水瀬君。ピーク過ぎたから上がって。お疲れさん!」
小杉がそばに来て、労いの言葉をかけた。
「ありがとうございます。……では、お言葉に甘えて、ここで上がります」
意識の混濁を悟られないようそれだけ言い残し、悠真は逃げるようにバックヤードへ引き上げた。
しかし、控室のドアに手をかけた瞬間、平衡感覚が消失した。悠真の膝がガクンと折れ、身体が冷たい床へ吸い込まれそうになる。
「ちょっと、水瀬……っ!」
鋭い声と共に、強い力が悠真の二の腕と肩を掴んだ。仕事中ずっと悠真の限界を察知し、ハラハラしながら追いかけてきていたソラだ。
その瞬間、脳内を埋め尽くしていた焼け付くような重圧がピタリと止んだ。
脳内アラートが霧散するように消失していく。
「…………え?」
ソラが掴んでいる箇所から、心地よい静寂が波及してきた。それは全身の血管を伝わり、熱を持った脳内へと清涼な流れとなって注ぎ込まれる。
(……どういうことだ?)
「ちょっと、マジでヤバいって。……水瀬? 起きてる?」
ソラの焦ったような顔が、今は驚くほど鮮明に見える。悠真は荒い息をつきながら、自分を支えるソラの瞳を凝視した。
(オーバーヒートの閾値を超えたはずだ。なのに、なぜシャットダウンしない? ……白石さんが掴んでいる箇所から流れ込む、この不思議な感覚は何?)
悠真は、自分の腕を掴むソラの手へと、ゆっくり視線を落とした。
彼の中に芽生えた仮説は、数秒の観測を経て、みるみるうちに確信へと変わっていく。
(……白石ソラ。君は、僕にとっての……『外部冷却装置』なのか?)




