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皇国のアリーシャ  作者: 岡井チマ
第三部
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第八章 止められない想い

 窓の外には、新月の夜空が広がっていた。月明かりがない分、星々はひときわ冴えて見える。無数の光が、まるで凍りついたように静かな闇の中で瞬いていた。けれど、その美しさを眺めながらも、アリーシャの胸の内は晴れなかった。明日、ルークは帝国へ向けて出立する。


 (命じたのは、わたくし)


 その事実が、重く胸にのしかかる。けれど同時に、どうしても消せない思いが胸の奥でくすぶっていた。


 (戻って来れないかもしれない)


 もしも――ほんのわずかでも、ルークが思いとどまってくれたなら。そんなありもしない願いが、ふとした拍子に浮かんでしまう。けれど、そんなことは起こらない。誰よりも、それを分かっているのはアリーシャ自身だった。


「まだ寝ないのか」


 いつの間にか隣にルークは立っていた。アリーシャをそっと後ろから抱きしめる。


「……眠れないの」


 明日にはルークは出立してしまう。アリーシャは眠るのが怖かった。ルーク自身も同じなのだろう。アリーシャを抱きしめる腕の力が強くなる。


「大丈夫だ。必ず帰ってくる」


 その声は迷いがなく、穏やかで、いつもと同じように頼もしかった。だが、――必ずなんて、そんなものがこの世に存在しないことを、アリーシャは知っている。

 兄のケイネスだって、すぐ戻ると言ったまま帰ってこなかった。もしも、――もしもルークも帰ってこなかったら。その考えが頭をよぎるだけで、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。不安でたまらない。

 すがりつくように、アリーシャは振り返った。ルークを見つめて、何か言わなければと思うのに、言葉にならない。代わりに出てくるのは涙だけだ。


「アリーシャ?」


 その声を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが溢れそうになった。

 行ってほしくない。でも、止められない。女皇として決めたことを、今さら覆すことなどできない。だから――せめて今夜だけでも。アリーシャはルークの顔を引き寄せ、そのまま唇を重ねた。

 驚いた気配がわずかに伝わる。そんなこと、構わなかった。離したくなくて、何度も、強く重ねた。言葉ではどうにもできない想いを、すべてそこに込めるかのように。



 翌朝、王城の中庭には使節団の馬車と騎士たちが整列していた。朝の空気は涼しく澄んでいる。帝国へ向かう使節団は、選び抜かれた精鋭ばかりだった。その列の中に、エルンスト・クライスの姿がある。かつてルークを守れなかったことを、彼は今も悔いている。だからこそ、この任務に自ら志願したのだとアリーシャは聞いていた。まっすぐに前を見据えるその横顔には、迷いはない。他の近衛騎士たちも頼もしい者たちだった。


 ――お願い、どうかルークを守って。


 やがて、ルークが歩み出る。王配としての装いに身を包んだ姿は、いつもの彼とはどこか違って見えた。穏やかな微笑みの奥に、揺るぎない覚悟がある。女皇として、アリーシャは一歩前に出た。


「王配殿下。帝国への道行きの無事を祈っています。よろしく頼みました」


 静かな声だったが、中庭にいる全員に届くよう、はっきりと言葉を紡ぐ。ルークは膝をつき、深く頭を下げた。


「仰せのままに、陛下」


 形式ばったやり取り。公の場では、女皇と王配としての形式ばったやり取りだ。ルークが立ち上がり、いよいよ出立が迫ってきた。無意識にルークへと手が伸びる、だが、その手はルークへは届かなかった。


「……気をつけて」


 思わずこぼれた言葉は、それだけだった。ルークは微笑みをしっかりと返した。


「ああ。必ず帰る」


 その言葉を、アリーシャは何も言わずに受け止めた。ふと、ジークハルトと目が合う。


「大丈夫ですよ。いざとなれば、俺が殿下の前に出ますから」


 そう、ジークハルトは微笑んでアリーシャに言った。それは、ルークの矢面に立つということ。危険を承知で、それでも、頼るのはジークハルトしかいない。


「貴方にも無理を言ってしまいます」


「お任せください」


「それでも、ネリーを悲しませるのは許しませんから」


 一瞬、目を見開くジークハルトだが、ふっと笑ってアリーシャの後方、ネリーへと優しい笑みを向ける。ルークは馬にまたがり、やがて使節団は動き出す。馬車がゆっくりと城門へ向かい、騎士たちがそれを守るように続いていく。王城の門が開き、ルークたちは皇都を後にした。その背が見えなくなるまで、アリーシャはその場を動かなかった。遠い帝国の地へと、愛する者たちを送り出す。守るべき未来のために――

 昨夜、必死に重ねた肌の温もりが、まだ消えずに残っている気がした。




 帝国への行程は、四日かけて、いくつかの街を中継しながら進み、夜は街の宿へと泊まることになっていた。使節団の顔ぶれは多くはない。代表であるルークと、側近のジークハルト。それに文官が4名、通商担当1名。そして近衛兵が五名。その中には、エルンストの姿もあった。

 道中、ルークの傍には常に護衛がつく。ジークハルト、エルンスト、そして近衛の騎士たちだ。皇国内であれば、まだ安全と言える。だが――帝国の地に入れば、何が起こるか分からない。ルークは馬上で静かに前を見据える。気を引き締めていかなければならない。

 宿の二階、使節団に用意された一室では、机の上には地図が広げられ、ランプの灯りが静かに揺れていた。


「明日で国境か。ここまでは平穏に来れたな」


 地図を見下ろしながら、ジークハルトが呟く。


「そうだな」


 ルークは椅子に腰掛け、腕を組んだ。窓の外では、近衛の騎士たちが交代で見張りに立っている。宿の廊下にも、護衛が二人。皇国内とはいえ、油断はできない。


「帝国側が何も仕掛けてこなければいいがな」


 ジークハルトが肩をすくめる。そのとき、扉が静かに叩かれた。


「エルンストです。報告を」


「入れ」


 扉が開き、エルンストが一礼して入室する。


「周囲の警戒は問題ありません」


「ご苦労様」


 ルークが短く頷く。エルンストは一瞬、視線を上げる。


「……帝国へ入れば、警戒をさらに強めます」


 その言葉には、静かな決意がこもっていた。ルークを守れなかった――あの日の後悔を、まだ背負っているのだろう。ルークはエルンストに、視線を送る。


「頼りにしている」


 ルークの笑みに、エルンストの目がわずかに見開かれる。


「……はっ」


 深く頭を下げると、彼は再び警備へと戻って行った。ジークハルトが小さく笑った。


「いい顔つきになってきた」


「ああ」


 ルークは窓の外、皇都の方角を見た。アリーシャと、アルシオは今頃どうしているだろうか。泣いていないだろうか。あの温もりを思い出す。明日には、国境へと到達する。帝国は、もう目の前だった。



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