第八章 止められない想い
窓の外には、新月の夜空が広がっていた。月明かりがない分、星々はひときわ冴えて見える。無数の光が、まるで凍りついたように静かな闇の中で瞬いていた。けれど、その美しさを眺めながらも、アリーシャの胸の内は晴れなかった。明日、ルークは帝国へ向けて出立する。
(命じたのは、わたくし)
その事実が、重く胸にのしかかる。けれど同時に、どうしても消せない思いが胸の奥でくすぶっていた。
(戻って来れないかもしれない)
もしも――ほんのわずかでも、ルークが思いとどまってくれたなら。そんなありもしない願いが、ふとした拍子に浮かんでしまう。けれど、そんなことは起こらない。誰よりも、それを分かっているのはアリーシャ自身だった。
「まだ寝ないのか」
いつの間にか隣にルークは立っていた。アリーシャをそっと後ろから抱きしめる。
「……眠れないの」
明日にはルークは出立してしまう。アリーシャは眠るのが怖かった。ルーク自身も同じなのだろう。アリーシャを抱きしめる腕の力が強くなる。
「大丈夫だ。必ず帰ってくる」
その声は迷いがなく、穏やかで、いつもと同じように頼もしかった。だが、――必ずなんて、そんなものがこの世に存在しないことを、アリーシャは知っている。
兄のケイネスだって、すぐ戻ると言ったまま帰ってこなかった。もしも、――もしもルークも帰ってこなかったら。その考えが頭をよぎるだけで、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。不安でたまらない。
すがりつくように、アリーシャは振り返った。ルークを見つめて、何か言わなければと思うのに、言葉にならない。代わりに出てくるのは涙だけだ。
「アリーシャ?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが溢れそうになった。
行ってほしくない。でも、止められない。女皇として決めたことを、今さら覆すことなどできない。だから――せめて今夜だけでも。アリーシャはルークの顔を引き寄せ、そのまま唇を重ねた。
驚いた気配がわずかに伝わる。そんなこと、構わなかった。離したくなくて、何度も、強く重ねた。言葉ではどうにもできない想いを、すべてそこに込めるかのように。
翌朝、王城の中庭には使節団の馬車と騎士たちが整列していた。朝の空気は涼しく澄んでいる。帝国へ向かう使節団は、選び抜かれた精鋭ばかりだった。その列の中に、エルンスト・クライスの姿がある。かつてルークを守れなかったことを、彼は今も悔いている。だからこそ、この任務に自ら志願したのだとアリーシャは聞いていた。まっすぐに前を見据えるその横顔には、迷いはない。他の近衛騎士たちも頼もしい者たちだった。
――お願い、どうかルークを守って。
やがて、ルークが歩み出る。王配としての装いに身を包んだ姿は、いつもの彼とはどこか違って見えた。穏やかな微笑みの奥に、揺るぎない覚悟がある。女皇として、アリーシャは一歩前に出た。
「王配殿下。帝国への道行きの無事を祈っています。よろしく頼みました」
静かな声だったが、中庭にいる全員に届くよう、はっきりと言葉を紡ぐ。ルークは膝をつき、深く頭を下げた。
「仰せのままに、陛下」
形式ばったやり取り。公の場では、女皇と王配としての形式ばったやり取りだ。ルークが立ち上がり、いよいよ出立が迫ってきた。無意識にルークへと手が伸びる、だが、その手はルークへは届かなかった。
「……気をつけて」
思わずこぼれた言葉は、それだけだった。ルークは微笑みをしっかりと返した。
「ああ。必ず帰る」
その言葉を、アリーシャは何も言わずに受け止めた。ふと、ジークハルトと目が合う。
「大丈夫ですよ。いざとなれば、俺が殿下の前に出ますから」
そう、ジークハルトは微笑んでアリーシャに言った。それは、ルークの矢面に立つということ。危険を承知で、それでも、頼るのはジークハルトしかいない。
「貴方にも無理を言ってしまいます」
「お任せください」
「それでも、ネリーを悲しませるのは許しませんから」
一瞬、目を見開くジークハルトだが、ふっと笑ってアリーシャの後方、ネリーへと優しい笑みを向ける。ルークは馬にまたがり、やがて使節団は動き出す。馬車がゆっくりと城門へ向かい、騎士たちがそれを守るように続いていく。王城の門が開き、ルークたちは皇都を後にした。その背が見えなくなるまで、アリーシャはその場を動かなかった。遠い帝国の地へと、愛する者たちを送り出す。守るべき未来のために――
昨夜、必死に重ねた肌の温もりが、まだ消えずに残っている気がした。
帝国への行程は、四日かけて、いくつかの街を中継しながら進み、夜は街の宿へと泊まることになっていた。使節団の顔ぶれは多くはない。代表であるルークと、側近のジークハルト。それに文官が4名、通商担当1名。そして近衛兵が五名。その中には、エルンストの姿もあった。
道中、ルークの傍には常に護衛がつく。ジークハルト、エルンスト、そして近衛の騎士たちだ。皇国内であれば、まだ安全と言える。だが――帝国の地に入れば、何が起こるか分からない。ルークは馬上で静かに前を見据える。気を引き締めていかなければならない。
宿の二階、使節団に用意された一室では、机の上には地図が広げられ、ランプの灯りが静かに揺れていた。
「明日で国境か。ここまでは平穏に来れたな」
地図を見下ろしながら、ジークハルトが呟く。
「そうだな」
ルークは椅子に腰掛け、腕を組んだ。窓の外では、近衛の騎士たちが交代で見張りに立っている。宿の廊下にも、護衛が二人。皇国内とはいえ、油断はできない。
「帝国側が何も仕掛けてこなければいいがな」
ジークハルトが肩をすくめる。そのとき、扉が静かに叩かれた。
「エルンストです。報告を」
「入れ」
扉が開き、エルンストが一礼して入室する。
「周囲の警戒は問題ありません」
「ご苦労様」
ルークが短く頷く。エルンストは一瞬、視線を上げる。
「……帝国へ入れば、警戒をさらに強めます」
その言葉には、静かな決意がこもっていた。ルークを守れなかった――あの日の後悔を、まだ背負っているのだろう。ルークはエルンストに、視線を送る。
「頼りにしている」
ルークの笑みに、エルンストの目がわずかに見開かれる。
「……はっ」
深く頭を下げると、彼は再び警備へと戻って行った。ジークハルトが小さく笑った。
「いい顔つきになってきた」
「ああ」
ルークは窓の外、皇都の方角を見た。アリーシャと、アルシオは今頃どうしているだろうか。泣いていないだろうか。あの温もりを思い出す。明日には、国境へと到達する。帝国は、もう目の前だった。




