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皇国のアリーシャ  作者: 岡井チマ
第三部
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第七章-1 守るべきもの

 6日かけて熱は下がったが、身体の奥に重い倦怠が残っていた。朝の淡い光が寝室に差し込む。厚いカーテンは半分だけ開けられ、静かな空気の中で、ルークは寝台に横たわっていた。左腕にはまだ包帯が巻かれている。痺れは薄れたが、力は戻りきらない。


「無理はしないでね」


 傍らの椅子からアリーシャが声をかける。アリーシャは、政務があるためずっとそばにはいられない。それでも、また熱が上がっていないか、時折様子を見に寝室へと戻る。ルーク自身も歩けるようにまで回復したため、本来の寝室へと戻っていた。


「あぁ。でも、そろそろ寝てばかりいるのも限界だ」


 まだ掠れている声で。ルークは苦笑いする。こんなにもベッドの上で過ごすなど、ほとんど経験がない。意識が混濁していた時ならそうは思わなかったが、はっきりしてきた今となっては、時間を持て余して仕方がない。そのとき、扉が静かに叩かれた。


「アリーシャ様、アルシオ様をお連れしました」


 アンナが、アルシオをルークの元へと連れてやってきた。アリーシャは一瞬だけルークを見る。ずっと離れていたアルシオを、連れて来るようアンナには伝えていたのだ。


「……いいかしら?」


「もちろんだ」


 三か月のアルシオは、まだ何も知らない顔で、柔らかな毛布に包まれている。アンナが寝台の端に敷いた柔らかな布の上へ、そっと横たえる。


「アルシオ」


 ルークが顔を向けると、アルシオは父の気配に気づいたように、声のする方へ顔を向ける。まだ焦点は曖昧だが、黒い瞳が揺れる。


「あー」


 小さな手が、何かを掴もうとするように、ふと動く。ルークは左手をゆっくり伸ばし、かすかに触れる。途端に、その小さな手がぎゅっとルークの指先を握った。痺れの中に確かに感じる小さな温もり。胸の奥にこびりついていた焦燥が、少しだけ溶ける。毒が身体を巡ったあの夜の熱も、悪寒も、遠いもののように感じられた。


「……生きていて、よかった」


 誰に向けた言葉でもなく、ぽつりと呟く。


 アルシオは何も分からない。無垢な瞳は、ただまっすぐにルークを見上げている。守ると決めた存在が、こうしてすぐ隣で息をしている。それだけで、身体の奥、力はなくても、満たされる。アリーシャが静かに微笑む。


「昨日より、顔色がいいわ」


「そうか?」


「ええ。……きっと、この子のおかげね」


 ルークは否定しない。アルシオの小さな指は、まだ離れない。この温もりを、失いたくない。それだけが、はっきりと胸にあった。



 それから二日後、倦怠感も無くなり、痺れもほとんど消えている。だが、身体は正直なもので、立ち上がるだけで足に力が入りきらない。剣を握れば、握力が以前より落ちていることが分かる。


「焦るなよ」


 ジークハルトが腕を組んで言う。


「分かっている」


 分かっているが、認めたくはない。あの夜、あと一歩遅れていれば死んでいた。ルーク自身も無意識に慢心していたのだ。己の力で、アリーシャもアルシオも、守り切れると。だが事実、暗殺されかけ、生死の淵を彷徨った。次は、――守りきれない。

 誰が、自分を殺そうとしているのか、はっきり決着をつけなければならない。



 その夜、窓の外は、雨の音が絶えずガラス越しに聞こえている。アリーシャは揺籠を揺らしながらアルシオを寝かしつけていた。いつもルークが執務から戻るのは、アリーシャも眠ってからが多かったが、ここ数日は逆である。思えば、こんなふうに共に穏やかに過ごしたのも、久しぶりかもしれない。アルシオを産んでからも、夜中の授乳や夜泣きで、幸せだったが、余裕など無かった。

 ルークはベッドに横になり、揺籠の側で子守唄を口ずさむアリーシャの後ろ姿を見つめている。この日々を壊させはしない。ルークはアリーシャへと歩み寄り、意を決してその背中へと思いを告げた。


「帝国へ、行こうと思う」


 アリーシャは、ゆっくりとルークへと振り向く。その瞳には、すでに涙が滲んでいた。


「……なぜ」


 理由など、聞かなくても分かっている。それでも、口にせずにはいられなかった。ルークは、揺籠で眠るアルシオを見つめている。かけがえのない、愛しい我が子だ。


「このままでは、また来る。次は俺じゃなく、お前やアルシオが狙われるかもしれない」


 アリーシャの指が、揺籠の縁をぎゅっと握る。


「皇帝の血を継いでるかどうかなんて、俺には関係ない。後継の意思などないと、帝国に直接告げてくる」


 ルークの声は静かだが、すでに意思は固いようだ。


「必要なら、文書にでもなんでも書いてやる。だから――」


 そこで言葉を止める。ルークは、アリーシャをまっすぐ見た。


「俺を行かせてほしい」


 雨の音だけが、しばらく部屋に響く。アリーシャは目を伏せる。分かっている。このままでは危険は消えず、ずっと怯えながら過ごさなければならないこと。ルーク自身が命の危機に晒されるかもしれず、ましてアリーシャやアルシオにもその悪意の手が伸びるかもしれないこと。そうなれば、ルークは悲しむだろうこと。

 証拠など無いが、ルーク本人を狙う動機を持つ者など皇国内には、もういない。セレナが危惧していた通りルーク自身が火種になり得るのならば――、それを消したい者が帝国に居ると考えるのは、難しいことではない。大国だからと、いつまでも、皇国内で好きにしてもらうのは癪にさわる。抗議でもなんでもしてやりたい。女皇としてなら、答えは決まっている。


 だが――妻としては。


「……行ってほしくない」


 かすれた声が漏れた。その瞬間、ルークの表情が揺れる。帝国へ赴けば、命が狙われる危険はさらに高まるだろう。敵の懐へ自ら入りに行くのだ。不安という言葉で収まらないほど、心配で堪らない。


「でも……」


 アリーシャは、ゆっくりと顔を上げた。努めて冷静に言おうとするのに、涙は止まらない。


「女皇としては、行くべきだと思う。……嫌な役目ね」


「一人では行かないよ。ジークも同行してくれる」


「そう、ね」


「必ず帰る」


 アリーシャはルークの少し小さくなった背中に腕を回す。


「約束して」


 ルークは迷わず答えた。


「ああ。必ず帰る」


 その声は揺るがなかった。アリーシャはルークの胸にそっと顔を埋めて声を殺して泣いた。



 翌日、政務に復帰したルークは帝国第一皇女、セレナに向け筆を取る。表向きは、友好関係の確認と輸出入品目の交渉のため、使節として入国を希望するものだ。そして、それとは別に、セレナ個人に確認すべきことがある。セレナは黙認すると言った。だったら、俺を消したいのは誰だ、と。


 筆を置いたとき、迷いはなかった。


「これをすぐ、帝国へ向けて送ってくれ」


 ジークハルトが手紙を受け取り、執務室から出ていった。


 扉が閉まると、ルークはゆっくりと立ち上がった。エルンストが、支えそうと寄るが、ルークは手で制した。いつまでも、介添してもらうわけにはいかない。


「どちらへ行かれますか」


「中庭だ」


 軽い鍛錬を再開したい、と言ったとき、医師は渋い顔をしていた。だが、寝台に横たわっているだけでは、気も鈍る。剣を手に取り、中庭の石畳に立つ。

 剣を構え、振り下ろす。


 ――重い。思った以上に、重かった。腕の傷は癒えたものの、筋力が落ちている。たかが十数回の素振りで、息が上がる。以前なら百や二百、なんでもない回数だったのに。素振りを繰り返すうちに、汗が額を伝う。


「無理をなさらないでください」


 エルンストが困ったように言う。ルークは息を整えながら、左の手のひらを見つめた。微かに痙攣している。


「無理はしていない。だが、――気の緩みがあった」


 王城内だからと帯剣しなかった。自分は戦えると慢心した。その隙を突かれた。エルンストがいなければ、暗殺者二人を相手にするのは、不可能だった。

 息を切らしながら、布で汗を拭う。帝国へ向かうまでに、体力も剣を握る感覚も取り戻さなくてはならない。


「エルンスト、少し相手してくれるか?」


 一瞬、エルンストの目が見開かれる。


「……よろしいのですか?」


「ああ。素振りだけでは感覚が戻らない」


 そう言って、ルークは剣を構えた。まだ重いが、柄を握る手に力をこめる。

 ルークは護衛対象である。だが同時に、剣技において、憧れる存在でもある。エルンストは数歩前へ出ると、深く一礼して剣を抜く。エルンスト自身にも、ルークを負傷させた自責の念があった。――今度は、守り切る、その決意が若い騎士の胸にあった。


「……胸をお借りします」


「来い」


 石畳の上で、二人の剣が構えられる。一瞬の静寂をおいて、鋼が打ち合う音が中庭に響いた。エルンストの剣は速い。若さゆえの勢いと、迷いのない踏み込み。だが、ルークの剣はそれを受け流す。左手にはいつもよりも鈍った感覚と脱力。足は支えようにも、震えている。

 エルンストが手加減しているのが分かる。だが、甘えているわけにはいかない。帝国へ赴くまでには、実戦で戦えるまでには戻しておかないといけない。おそらく、話をするだけでは済まない。


 そう思った矢先、背後から、気配がした。


「人が留守してる間に何してんの」


 振り向かなくても分かる。ジークハルトであった。腕を組んで呆れた顔でルークを見る。だが、止める気は無いようだ。


「後で俺も混ぜてくれよ」


 そう言って、柱に寄りかかる。


 三人で、時間の許す限り、剣を振るった。


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