第五章-1 忍び寄る気配
柔らかな陽光が、王城の庭園を包んでいた。春を越えた芝は青く、風は穏やかで、空は高い。敷かれた大きなシートの上で、アルシオが腹ばいになっている。
「うー……あっ!」
小さな両手をぱたぱたと動かし、目の前の黒い髪へと必死に伸ばすレックス。鼻先を近づけ、くん、と小さく鳴いた。
「まぁ、レックス。優しくするのですよ」
乳母のアンナが微笑みながら声をかける。ネリーは、転がっていかぬようアルシオの横にそっと手を添えていた。アルシオは首もすっかり据わり、最近ではよく笑い、よく泣く。感情が、はっきりと声に出る。今も、レックスに耳に触れられた瞬間、あーっ!と、嬉しそうに笑った。その声に、わたくしは思わず頬を緩める。
「あら、アルシオ。相変わらずレックスが好きなのね」
思わず零れた言葉に、ネリーがくすりと笑う。
「仲がよろしいようで、微笑ましいですね」
「本当に。先が楽しみだわ」
穏やかな笑いが広がる。少し離れた位置では、ディートリヒをはじめとする護衛たちが一定の距離を保って控えている。心なしか、表情が穏やかに見えるの、気のせいではないだろう。護衛は増え四人になったが、距離があるためさほど重々しくはなっていない。
アリーシャは多忙なため、日中アルシオに構えていない。そのため、今日は一日休日にして、アルシオと過ごす日としている。陽だまりの中で、我が子が笑っているのを見ていると、それだけで十分だった。
「今日はピクニック日和でございますね」
アンナの言葉に、わたくしは空を仰ぐ。
「そうね。今頃ルークも、気持ちよく馬を走らせているんじゃないかしら」
ルークはというと、今日は丘陵地にて行われる軍事演習を視察にでている。皇国には、騎兵部隊が別に存在するわけではないが、正規軍の騎馬での戦闘訓練も定期的に行われている。軍事に関しては、ルークの方が戦闘経験もあり、任せてある。そして、アルベルトとの一件以来、たびたびルークは視察と称して訓練への同行や参加を求められていた。
その時、庭園の芝生を走りながら、伝令が駆け込んできた。ディートリヒらも集まる。伝令は膝をつき、息を荒げた。
「――陛下!」
その声に、アルシオがびくりとし、顔を歪める。
「どうしました」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「王配殿下が……軍事練習の視察中に、落馬なさいました!」
空気が、止まる。
「……怪我は」
「命に別状はございません!」
その言葉に、少しホッとする。でも、無傷ではないということだろう。
「どこか、身体を痛めているのですね」
問いは鋭く、短い。
「背中を強く打たれたご様子です。しかし意識は明瞭で、すぐに立ち上がられたと」
立ち上がった。その一言が、かえって胸を締めつける。兵たちの手前、痛みを、隠して無理をしたのではないか。
「……すぐに戻られますか」
「はっ」
アルシオが、何かを感じ取ったように泣き出す。
「あぁ……大丈夫よ」
抱き上げながら、わたくしはそっと囁く。大丈夫。そう、言い聞かせるように。
――場面は、少し遡る。皇都のそばにある丘陵地には、乾いた砂塵が舞っていた。ルークはジークハルト、正規軍総司令官のアルベルトと共に、騎馬兵たちとは少し離れた場所で訓練の様子を見ていた。
号令と共に統率された動きを見せている兵士達。それぞれが動きを合わせて周りをよく見ているのが分かる。
「いかがですか?殿下。」
「よく動けているな。皆、馬の扱いにも長けている。隊列が乱れていない」
アルベルトは、不敵な笑みで笑う。
「殿下にそう言って頂けるのは、何より!兵達には、各々馬の世話も普段から見るように言いつけてあります。馬とのコミュニケーションが取れなければ、話になりませんしな」
馬は特に臆病な生き物のため、軍馬とするならば、騒音や光、血の匂いなどに驚かないよう厳しく育てていく必要がある。目の前に広がる軍馬達はそうして鍛えられてきたのだ。
ルーク自身の馬も、皇国へ来た時からの付き合いがあり、今では相棒として絆を深めてきた牡馬だ。大人しい気性ではあるが、少し偏屈なのかルーク以外には、時折舐めた態度をとっているらしい。
「王配殿下、次はご一緒に旋回訓練をいかがですか」
アルベルトが、にやりと笑いながらルークを誘う。ルークは苦笑した。
「視察だけじゃなかったか?」
「皆、それでは満足できますまい」
ジークハルトがボソッと低く言う。
「特にあんたが、だろ」
「ペイル卿、君も一緒に、是非とも!」
「……これ、断れないじゃん」
ため息をつくジークハルトと、苦笑いのルーク。したり顔のアルベルトと共に、各々馬へと跨る。手綱を握った瞬間、身体は相棒と一体化したかのように、軽やかに駆け出す。騎馬兵達と合流して、丘の上から、坂を駆け降りる。風を切り下った先で、一同左へと旋回する号令がかかる。
ルークが相棒の手綱を引いて、旋回する――その瞬間。
ブチッ。
腹の下で、嫌な感触がしたと思えば、鞍が横に滑る。
「――っ」
咄嗟に鐙を蹴り、身体を投げ出す。背中に衝撃を感じ、地面へ転がる。砂が舞い、一瞬、視界が白くなる。幸い意識ははっきりしており、すぐに立ち上がる。背中の痛みはあるが、歩けないほどではない。すぐさま馬に怪我がないか、確認する。驚いた様子だが、脚は問題なさそうだ。
「よかった」
兵達が、ざわざわと様子をみている。ルークは笑顔を向ける。
「大丈夫だ。鞍が緩んだだけだ」
だが、鞍を外して確認すると、腹帯が不自然に裂けている。駆け寄ってきたジークハルトも、アルベルトもそれを見て、怪訝な表情を見せる。その一部に、鋭利な刃物で入れたような、真っ直ぐな切れ込みがあった。ルークの視線が冷える。
「……自然に裂けたとは思えねぇな」
ジークも声を落として呟く。ということは、誰かが故意に切れ込みを入れたということだ。負荷がかかった時に、千切れるように。意図して。
ルークは答えない。だが、胸の奥で静かに確信する。偶然を装って、誰かが、自分を狙った可能性がある。
「王妃殿下には、どうする?」
ジークが問う。
「言わなくていい。落馬したことはどうせ隠せないだろうが、必要以上に心配はさせたくない。警戒は上げるから、侍女には伝えておいてくれ」
「了解」
兵たちのざわめきが遠くで続く。アルベルトは状況を察して、兵たちに喝を入れる。
「おら!訓練に戻れ!殿下だって馬から落ちることはあるんだよ!お前らだって気ぃぬいてると、痛い目見るぞ!」
気を抜いていたつもりは無いのだけれど、少しルークはバツの悪い顔をする。だが、空気を変えてくれたアルベルトには感謝しかない。動揺を兵たちの前で見せるわけにはいかない。ルークは背中の痛みは感じさせないよう、努めて普段通りに帰路に着いた。




