第四章-1 月夜に誓う
祝賀はつつがなく終了し、各国の貴賓が帰途についた後、王城は再び静けさを取り戻した。政務は滞りなく進み、国境からの急報もない。一見すれば、すべては平穏に戻ったかのようだった。――あの日の密談も、誰に知られることはなかった。
小会議室で交わされた言葉は、風にも乗らず、壁の外へ漏れることもなかった。アリーシャは知らない。ジークハルトも、護衛たちも知らない。
だが、人の目は時に言葉よりも鋭い。祝賀の夜、玉座の前で向き合った二人――王配ルークと、帝国の皇女セレナ。同じ黒髪を持ち、赤みを帯びた茶の瞳、そして似た風貌。あの瞬間、言葉はなくとも、何かを感じ取った者がいた。
「……皇女と王配殿下は、どこか似ていなかったか?」
それは、誰かの何気ない一言だった。酒席の中で出た他愛のない軽い感想もあった。老臣の記憶が、若き日の帝国皇帝の肖像と重なり、商人の耳を通じ、やがて貴族の耳へも届く。確証も、証拠もない。それでも――人の心を十分に揺らす。噂は水面下で静かに広がり始めていた。
月明かりが、夜の闇をぼんやりともしている。城内は静まり返っていた。不意に、小さな泣き声が寝室に響く。
「……アル?」
アリーシャは目を覚まし、すぐに身を起こした。隣で眠っていたルークも、うっすらと目を開ける。揺り籠を覗くと、アルシオは小さな顔を真っ赤にして泣いている。
「どうしたの……おしめかしら?」
抱き上げると、泣き声は少し弱まる。おしめは濡れていない。
「お腹が空いたのね」
そう囁いて、ソファーに腰掛け、胸元へ引き寄せる。やがて静かな吸う音が部屋に満ちる。その小さな体温が、腕の中で確かに生きている。アルシオは円らな瞳を、まっすぐにアリーシャへと向け、ぷっくりとした両手はしっかりと握り締められている。アリーシャはそっと空いた方の手で、アルシオの拳を開かせると、その手でアリーシャの指を握りしめる。眠たくても、この瞬間が何よりも至福だった。ようやく満足したように飲み終えたアルシオだが、目は大きく開かれており、眠る気配はなさそうだ。
「あら、目が覚めてしまったの?」
アリーシャは立ち上がり、窓辺へ歩く。開いたカーテンから、月明かりが柔らかく差し込む。
「ほら、アル。お月様ですよ」
小さな指が空を掴むように動く。
「アル」
そう呼ぶと、きゃ、と小さく笑う。その無垢な笑みに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(この子が愛しい。髪も、瞳の色も、そんなの関係ない。この子はわたくしとルークの子、何を言われても、絶対に守る)
ただ、この小さな命が愛しい。
「……眠らないのか」
不意に後ろからルークが声をかける。アリーシャは振り返る。
「ええ。少し月を見ていたの」
ルークもベッドから起きていて、アリーシャの後ろに立ち、そっと後ろからアリーシャと、腕に抱かれたアルシオごと抱きしめた。
ルークを見上げると、微笑んではいるが、その表情は憂を帯びている。きっと、城内で囁かれている噂はすでにルークの耳にも入っているのだろう。それに、祝賀会でのセレナと見つめ合ってたこと。もやもやとした気持ちで、アリーシャの胸は締め付けられた。
「ルーク」
アリーシャの瞳が、まっすぐにルークに向けられる。
「……少しだけ、聞いても?」
そう言われて、ルークはわずかに眉を寄せた。
「ああ」
ルークは少しだけ身構えた。
「……帝国の皇女殿下とルーク。なにか繋がりがあるの?」
ルークは、しばらく黙っていた。隠すことはできる。「何もない」と言えば、それで済む。だが――隠すのは、やめた。血のことも、小さな違和感も、自分の中に芽生えた動揺も、全て伝える覚悟を決めた。
「三日前、セレナ皇女と会った」
アリーシャの瞳が揺れる。
「……そう、ですか」
「ああ」
短く認める。
「父の話をされた。――俺が、帝国の皇帝の落胤かもしれないと」
飾ることはせず、静かに告げる。アリーシャは息を呑んだ。想定外の答えに、アルシオを抱く腕がわずかに強張る。ただ、静かにルークを見つめている。
「証はない。俺も父については、何も聞いてなかったし、知りもしない。皇帝と、よく似ていると皇女殿下に言われただけだ」
沈黙が落ち、月の光が三人を照らしている。アリーシャは振り返り、ルークに向き合った。
「それで……あなたは、どうするつもり?」
アリーシャの声は震えていない。これは、妻としての問いだ。ルークは迷わず答えた。
「何もしない。俺は皇国の王配で、お前の夫だ。それだけでいい。お前と、アルシオの側にいる」
アリーシャの瞳が潤む。だが涙は落ちない。
「話してくれて、ありがとう」
ルークはわずかに息を吐いた。
「隠すのは、やめた」
そして、いつのまにか眠っているアルシオの額に口付ける。
「ここが、俺の居場所だから」
その言葉に、アリーシャの胸の蟠りが、少しだけ溶ける。ルークはアリーシャにも口付ける。血がどうであれ、過去がどうであれ、今選ぶのは未来だ。
窓の外、夜風が庭を渡る。静かな日々の裏で、波紋は広がっている。だが二人の間に、もう隠し事はなかった。




