第二章-6 初めての選択
サロンの窓から、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
白いカーテンがわずかに揺れ、外の庭園の緑が淡く映り込んでいる。
アリーシャは、いつもより少しだけ背筋を伸ばして、ソファーに腰掛けていた。
膝の上で組んだ指先は、静かに重ねられている。
震えてはいない。
だが、完全に落ち着いているわけでもなかった。
扉が控えめに叩かれる。
「……どうぞ」
返した声は、思ったよりも落ち着いていた。
扉が開き、ルークが一礼して入ってくる。
昨日と同じ簡素な装い。
だが、その立ち居振る舞いには、どこか張りつめたものがあった。
「お呼びでしょうか、殿下」
向かい側の席へと促す。束の間の沈黙が流れる。
「……昨日は」
ようやく、アリーシャが口を開いた。
「考える時間をいただき、ありがとうございました」
「いえ」
短い返答。
それ以上の言葉を、ルークは添えなかった。
アリーシャは、一度だけ視線を伏せる。
それから、意を決したように顔を上げた。
「昨夜、一晩考えました」
ルークの表情は変わらない。
だが、その言葉を受け止めるように、わずかに姿勢が正される。
「……ですが」
アリーシャは、そこで一拍置いた。
「まだ、迷いがございます」
それは、逃げではなかった。
事実だった。
ルークは、静かに頷いた。
「もちろんそうでしょう」
否定も、落胆もない。
「迷われて当然です。
答えを急ぐ必要はありません」
その言葉に、アリーシャの胸の奥が、かすかに揺れた。
(……この方は)
昨日と同じだ。
いや、昨日以上に。
彼は、ここで自分を“選ばせよう”としていない。
「ですが……」
アリーシャは、ゆっくりと言葉を探した。
「それでも、今日、お呼びしたのは」
視線が、まっすぐルークを捉える。
「……あなたと、もう一度だけ、きちんとお話をしたかったからです」
ルークは、すぐには言葉を返さなかった。
「…少し、外へ出ませんか」
提案するような口調ではない。
ただ、思いついたことをそのまま口にしたようだった。
ルークが案内して欲しいと言ったため、二人はサロン横の庭園へと出た。
白い回廊を抜けた先に、王城の庭園が広がっている。季節の花々が、過不足なく手入れされていた。
派手ではないが、どれもアリーシャの好みを知り尽くした配置だ。
幼い頃から、ここは彼女にとって数少ない“息をつける場所”だった。
「……ここは、美しいところですね」
ルークがそう言うと、アリーシャは振り返り少しだけ微笑んだ。
「兄様が、好んで歩いていた庭です」
ルークは一歩後ろを歩きながら、視線を巡らせる。
「存じています。
陛下は、ここに来ると肩の力が抜ける、と仰っていました」
それを聞いて、胸の奥がきゅっと締まる。
知らなかったわけではない。
けれど、兄が誰に、どんなふうにそう語っていたのか――。
その事実が、静かに重なった。
しばらく、二人は言葉を交わさずに歩いた。風が花弁を揺らし、鳥の声が遠くで響く。
「……兄様は」
アリーシャが、ぽつりと口を開く。
「いつも、迷っておられるようでした」
それは責める声ではなかった。
思い出すような、確かめるような響きだった。
「王として、正しい選択をしなければならない。
けれど、時には無情にならないといけない時もある。その間で……」
言葉が途切れる。
――ルークは、促さない。
ただ、歩調を合わせる。
「それでも、兄様は立ち止まらなかった。
悩んで、迷って……それでも、決めていました」
アリーシャは足を止めた。
小さな花壇の前で、膝丈ほどの白い花を見下ろす。
「……怖かったのだと思います。
でも、怖いからこそ、逃げなかった」
ルークは、静かに頷いた。
「陛下は、迷うことを、弱さだとは考えていませんでした」
その言葉に、胸の奥で何かがほどける。
迷っていい。
それでも――選ばねばならない。
アリーシャは、ゆっくりと顔を上げた。
「……わたくしは、まだ怖いです」
正直な言葉だった。
声は震えていないが、覚悟が定まったわけでもない。
「それでも……、兄様がそうであったように、考えることから逃げてはいけないと思うのです」
ルークは、すぐには返事をしなかった。
「殿下」
名を呼ぶ声は、低く、穏やかだった。
「私は――、殿下がどのような答えを選ばれても、それを否定することはありません」
昨日と同じ言葉。
そう答えるルークが微かに微笑んでいるように見えた。
「……ありがとうございます」
庭園に、再び風が通り抜けた。
花々が揺れ、朝の光が二人の間を満たしていく。
アリーシャは、その光の中で思う。
(……選ぶ、ということは)
正しさを示すことではない。
恐れを消すことでもない。
――それでも、歩き出すことなのだと。
兄が、そうしてきたように。
そして今、その歩みの先に、もう一人、並んで歩く者がいる。
(……この方の隣なら)
アリーシャは、胸の奥で、そう思った。
迷いは、消えていない。
怖れも、まだある。
――けれど。
(迷いながらでも……、選んでいけるかもしれない)
それは確信ではなく、希望でもなく――覚悟に近い、感覚だった。
庭園の小径は、まだ続いている。だが、足取りは、先ほどよりもわずかに軽い。
回廊の入口が見えたところで、アリーシャは足を止めた。
ルークも、それに気づき、立ち止まる。
何も問わない。
促しもしない。
この沈黙が、彼の答えなのだとアリーシャは理解していた。
彼女は、ゆっくりと振り返る。
「……ルーク様」
初めて、名を呼んだ。
それだけで、胸が静かに震える。
「わたくしは……まだ、怖いのです」
正直な言葉だった。
「皇国の行く末も。
自分の選択も。
この先にあるものも」
一拍置く。
だが、視線は逸らさない。
「それでも……、考えることから逃げずに、選び続ける道を歩みたい」
小さく、息を吸う。
「その隣に…、あなたがいてくださるのなら」
ルークは、すぐには応えなかった。
その沈黙が、アリーシャの言葉を軽く扱っていない証だった。
「……殿下」
低く、穏やかな声。彼は、深く一礼する。
「身に余るお言葉です。ですが――」
顔を上げ、まっすぐに告げる。
「私は、殿下が選ばれたその道を最後まで支える覚悟でおります」
それだけで、十分だった。
アリーシャは、静かに頷く。
「……では」
言葉を選び、けれど、逃げずに。
「ルーク・アリスター。
セレスティア皇国のために、そして……わたくし自身の選択として」
胸の奥が、確かに定まる。
「あなたとの婚姻をお受けいたします」




