第八章-2 衝動
ダグラスが指定した期日までに、現場の詳細や、盗賊の足取りなど、細かな報告が届くが、どれも決定的なものはない。ただ、時間だけが過ぎていく。アリーシャは机に両手をついていた。視界の端が、また、わずかに暗くなる。
(だめ……まだ……)
ぐっと歯を食いしばり、倒れないように身体を支える。その様子を、ルークは黙って見ていた。――数日間、ほとんど食べず、眠らず、顔色は日に日に失われていく。それでも彼女は、出立の準備を止めなかった。
「……本当に、行くつもりか」
ルークの低い声が落ちる。
「ええ」
アリーシャは顔を上げる。
「ガルデ王直々の要請ですもの。わたくしが出向くべきだわ」
「お前の身体がこうなっていてもか」
「関係ありません」
その即答が、ルークの胸を刺した。
「関係ないわけがないだろ」
「女皇としての責任の話です」
声が強くなる。
「わたくしが抗議を宣言したの。ならば、わたくしが向かわないと――」
「やめろ」
「なぜ!」
アリーシャも、もう引けなくなっていた。
「また……わたくしを、政から遠ざけるつもり!?」
その言葉に、ルークの瞳が鋭く揺れる。
「そういう話じゃない」
「では何なの!」
声が震えながらも、熱を帯びる。
「わたくしは女皇。あなたに守られるだけの存在では――」
「違う!」
机を叩く音が響いた。
「……やっぱり、お前は行くな」
ルークの声が、低く、重く落ちる。
「俺が行く」
「……なぜ、そこまで……」
アリーシャの目に、悔しさと焦りが滲む。
「なぜ、そんなに頑ななの!」
その瞬間――ルークの中で、何かが切れた。
「愛しているからだ!!」
執務室の空気が、一瞬で震える。王配としてではなく、夫としての、剥き出しの叫びだった。
「失いたくないからだ!」
胸を掴むように続ける。
「お前が倒れるのを見るのも、苦しむのを見るのも、もう……」
言葉が、そこで詰まる。アリーシャは息を呑んだまま動けない。
「国だの、責任だの……そんなものより……、俺にとっては、お前のほうが……」
だが、アリーシャは、すぐには受け止められない。
「……それでは……」
小さく、しかしはっきりと言う。
「わたくしは、あなたに守られるだけの、存在になってしまう。女皇として、立たねばならないのに……。それを、あなたは……許してくれない」
ルークは言葉を失う。それは、正論でもあるから。
「……準備は整っています」
アリーシャは、静かに言った。
「わたくしは……行きます」
だが、その直後。ルークが低く言う。
「……いいや。行かせない」
ルークは足早にアリーシャの手を掴む。だがその手は、力任せではなく、震えていた。
「なにをするの!」
執務室奥の仮眠室へと引き入れ、扉を閉める。鍵の音が、やけに大きく響く。
「……行かせない」
ルークは、絞り出した声で、アリーシャを寝台へ押し倒す。上着を乱暴に解きながらも、その動きには迷いが混ざる。
「ふざけないで!どいて!」
「国境には行かせない……」
アリーシャのドレスを踏みつける。
「……抱き潰せば、明日は起きられないだろ」
凶暴な言葉。だがその目は今にも壊れそうだった。アリーシャの両手を押さえる。アリーシャが見上げると、そこにあったのは激情ではなく――恐怖だった。
「……たのむ。行かないでくれ……」
ルークに押さえ込まれた瞬間、一瞬だけ、過去がよぎった。強引に触れられたあの夜。拒む声を聞かなかった男の影。胸が、ひやりとする。でもーー違っていた。ルークの指は震えている。力は強いのに、壊れものを扱うように躊躇っている。唇が落ちる。深く、奪うようでいて、懇願するような口付け。
(この人は……)
胸が締めつけられる。アリーシャは震える声を絞り出す。
「……ルーク、わたくしは、女皇よ」
「わかってる」
アリーシャを見下ろし、ルークは即答する。
「それでも……俺は、お前を失いたくない」
その言葉が、深く刺さる。国を背負う責任と、ひとりの女として愛される重み。どちらも、本物だ。アリーシャは、ゆっくりとルークの頬に触れた。
「……そんな顔をしないで」
指先が、彼の涙を拭う。ほんのわずかに、瞳が濡れていた。葛藤が、胸の奥で揺れる。行かなければならない。それが正しい。でも――
「……わかったわ。……あなたに任せる。わたくしはここで待ちます」
アリーシャにとっては苦渋の選択だった。
「あなたを、信じる」
その瞬間、ルークの力が抜ける。額を彼女の肩に埋める。
「……すまない」
震えた声だった。




