第七章-3 残された痕
バルコニーから広間へと戻ってきたアリーシャを、ルークが発見する。駆け寄ると、アリーシャの表情が暗いことに気づいた。だが、理由を聞いても、なんでもないと返される。護衛たちに視線を投げると、険しい表情で静かにつげられる。
「先ほどまで、クラウゼン卿が…」
その先は、言えない。アリーシャの前では言いにくい、と顔で察した。だが、アリーシャの表情はこれまで以上に辛そうに見えた。
ルークはそっとアリーシャの背中に手を回しだが、アリーシャの身体から力が抜けることはなかった。アリーシャは、バロンに掴まれた手首を、もう片方の手で、必死に隠していた。
夜は深まり、人の気配は少ない。晩餐が終わったあと、ルークはアリーシャを先に下がらせ、回廊である男が通るのを待っていた。やがて、足音が響き、バロンが歩いてくる。
やがて、バロンもルークに気づいた。その表情が険しく、怒気を孕んでいることも。
「おや、王配殿下、ここは使節に宛てがわれた区域ですが、こんな時間にどうされました?」
悠然と近づいてくるバロンにルークは歩み寄りながら、しかし無言である。なにも発しない。しかし、一歩分の距離に近づいた時、胸ぐらを強く引かれ、そのまま壁へ叩きつけられる。
「っ……!」
視線を上げると、殺気をむき出しにするルークと目があった。その鋭さは戦場のそれだった。
「これ以上、アリーシャに近づくな」
声は低く、震えるほどの怒りを含んでいる。
「おとなしく国に帰れ」
バロンは喉を鳴らして笑う。
「王配殿下……言われなくとも、もうすぐ帰りますよ?」
ルークの手はさらに強く締まる。
「ふざけるな。――あれは俺の女だ」
空気が、張り詰める。ルークが、王配としてでなく、夫としての顔をむき出しにする。
「気安く触れるな」
バロンは目を細め、唇を歪める。
「……いささか失態ではないか?王配殿?」
その言葉に、ルークの瞳がわずかに揺れる。ルークが乱暴に手を離す。
「抗議は受けましょう」
バロンは乱れた襟元を淡々と整える。
「だが、あなたはもう一線を越えた」
そう言い残し、去っていく。
(くそっ)
静まり返った寝室ではランタンの灯りがほのかに室内を照らしている。アリーシャは鏡台の前に座っていた。手首に残る、薄い赤い痕に指先で触れると、痛みはもうない。ダンスの時にバロンに触れられた時と比べると、嫌悪感は比ではなかった。言葉は甘く優しくても、向けられる侮蔑と敵意をはっきりと感じた。
だから、自分で拒んだ。あの時はルークが助けてくれた。でも、今回は自分で突き飛ばした。抗議を宣言した。胸の奥に確かな感触がある。それでも夜の静けさが、恐怖を思い出させる。ほんのわずかに、肩が震えた。
扉が静かに開き、ルークが入ってくる。鏡越しにルークと視線が合うと、平静を装ってルークへと笑顔を向ける。
「……お帰りなさい」
「ああ」
ルークは短く返した。何があったのか、改めて聞いてはこなかった。だが、その表情から、すでに知っているのだろう。ディートリヒらから聞いたのかもしれない。さっと、掴まれた手首を反対の手で隠す。
ルークは無言でアリーシャへと近づき、そばで膝を折る。そして、隠した手首をそっと持ち上げた。手首に残った痕を無言で見つめる。
(こんな跡が残るほど強く掴まれたのか)
バロンに対する怒りが、沸々と蘇ってくる。だが、それを隠そうとしたアリーシャに対しても、苦しい想いがつのる。
「こんな時まで強がるな」
ルークは掴んだ手を、自身に引き寄せ、おでこをのせる。まるで、すがっているようだ。アリーシャは胸が締め付けられる。ルークが見せた、願いのようだった。
「怖かったけど、ちゃんと、自分で拒んだのよ?」
そう、ルークに笑って見せる。
「そうか」
ルークは掴んだ手をそっと離した。
「ルーク、きて」
アリーシャは、ルークに向き直り両手を広げてみせた。アリーシャは、ルークを抱きしめる。ルークも、アリーシャを抱き返す。守るように、奪われないように、きつく。二人はそのまま、静かに口付けを交わした。
外ではまだ、バロンは王城にいる。油断はできない。だが今この瞬間だけは。互いの体温が、恐怖を薄めていく。




