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皇国のアリーシャ  作者: 岡井チマ
第二部
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第六章-2 揺らぐ視界

 従者が扉を開ける。眩しいほど整えられた空間で、視線が一斉にアリーシャへと向く。女皇としての顔を、纏う。


「お待たせいたしました」


 完璧に微笑む。ほんの少し前まで、胸が締め付けられていたことなど、誰にも悟らせぬまま。バロンたちが一斉に起立する。


「女皇陛下」


 形式的な一礼に対して、アリーシャは頷き、中央の席へと進む。ルークは一歩後ろ、そして斜めに控える位置へ。視線を感じるが、それは、いつもより重くアリーシャへと突き刺さる。着座と同時に、議題が読み上げられる。


「まずは、ガルデへの支援進捗について」


 粛々と報告が続く。兵站の整備、物資の搬入、護衛の配置。アリーシャは頷きながら耳を傾ける。だが、頭の奥では先ほどの報せが反芻されていた。負傷者を出してしまったこと。再編の混乱が原因、離れた者達が、関係しているのか。頭の中では、まとまらない考えがぐるぐると回っている。


「――以上が現状でございます」


 報告が終わる。その時、バロンが、ゆるやかに口を開く。


「女皇陛下のご尽力により、ガルデとの関係は確かに前進しております」


 柔らかな声音だが、どこか粘りを孕んでいる。


「国境の安定は、我が国としても望むもの。女皇陛下の御英断、実に素晴らしい」


 一瞬、視線がルークへ流れるが、今度は女皇陛下の英断、と言い換えてきた。それでも、違和感は消えない。今のアリーシャには、それが返って突き刺さる。

バロンは続ける。


「ただ――辺境では小規模ながら混乱も生じているとか」


 なぜすでにその情報をバロンが持っているのか。


「再編は大事業。焦らずともよろしいのでは?」


焦らずとも。その言葉が、先ほどの報せと重なる。


(焦り?わたくしは判断を急ぎすぎたの?)


 胸が、きゅっと縮む。ルークの気配が変わったのを、背中で感じる。低く、抑えた声が割って入る。


「再編は計画に則り進められている。局地的な衝突をもって全体を論じるのは早計だ」


 短く、鋭い声でバロンを制する。場の空気が張り詰める。バロンはわずかに目を細めた。


「もちろん。わたくしも全体を否定するものではございません。ただ、民の不安の声が広がれば、外交にも影響が及ぶかと」


 民の声、責任。すべてが、アリーシャの肩へ乗せられる。視線が、アリーシャへと集まる。女皇として、試されている。アリーシャは、ゆっくりと息を吸う。


「……再編は、未来のための礎です。負傷者が出たことは重く受け止めております。ですが、それを理由に歩みを止めることはいたしません」


 視線を真っ直ぐに向ける。バロンの口元が、ほんの一瞬だけ歪む。


「さすがは女皇陛下です」


 その声音は柔らかい。だが、底に何かが沈んでいる。会議はそのまま進み、エストリアからの返答についての議論へ移った。仲介の場を国内に設けること。双方に利のある条件の整理。言葉を選び、立場を保ち、アリーシャは一つひとつ丁寧に応じる。揺らぎを、悟らせぬまま。


 やがて、閉会が宣言される。


「――本日は以上といたします」


 アリーシャが退席しようと、立ち上がった、その瞬間。世界が、ぐらりと揺れた。視界が暗く、狭まる。


(あ……)


 声にならない。身体が傾ぐ。咄嗟に、腕が伸びる。力強い手が、肩と背を掴む。


「アリーシャ!」


 低く、鋭い声が、室内に響く。ルークに抱き留められていた。会場にざわめきが広がる。


「……陛下?」


「お顔の色が……」


「やはり――」


 小さな、しかし確かに耳に声が届く。


「女皇には、荷が重いのでは……」


 心臓が、強く打つ。暗くなりかけた視界の中で、その言葉だけが鮮明だった。ルークの腕の中で、支えられている自分。


 弱いーーそう、見られている。


「……大丈夫、です。少し立ちくらみしだだけ」


 かすれそうになる声を、整える。ルークの腕が、わずかに強くなる。だがすぐに、彼もまた表情を整えた。


「お騒がせした。少し休めば問題ない」


 有無を言わせぬ声音で、周囲に告げる。視線が下がる。だが、もう遅い。

 見られた。

 支えられた姿を。

 女皇としてではなく、一人の、倒れかけた女性として。

 胸の奥に、冷たいものが沈む。


(なにか、間違えたの?)


 その問いが、初めて、はっきりと形を持った。


 ランタンの明かりがほのかに寝室を照らしている。アリーシャは静かに寝台へ腰を下ろす。一日の緊張が、ようやく体から抜けはじめる。けれど胸の奥は、まだ冷え固まっていた。

 ルークは窓辺に立って、外を見ている。背を向けたまま、腕を組んでいる。何も言わない、その沈黙が、ひどく重い。アリーシャは俯いたまま、指を握る。そして、ほんのかすかな声で零れた。


「……焦って、いたのかしら……」


 独り言のつもりだった。自分の胸にだけ落とすはずの言葉だった。しかしーー


「あの男の言葉か?」


 ルークの背中越しに、鋭い言葉が返って、空気が張り詰める。アリーシャの呼吸が止まる。ルークの表情は見えない。だが、怒りを……感じた。


(失望させた)


胸が、ぎゅっと締めつけられる。


「……ごめんなさい」


 か細い声を出してしまったが、言った瞬間、ルークの肩がわずかに強張る。低く、押し殺した声が落ちる。


「……すまない。こんなこと、言うつもりはなかった」


 吐き出すように、でも、言葉が続かない。


「俺は……」


 アリーシャに対する苛立ちでも、怒りでも当然ない。うまく整理できない感情が、声を濁らせる。あの時、咄嗟に手を出してしまった。余裕なんてなかった。それでも、あの時のバロンの顔が忘れられない。あいつは、笑っていた。バロンに対して腹が立つ。思惑通りに動いてしまった。でも、アリーシャをその状況に追いやっているのは、自分の行動でもあるのか。

 ぐちゃぐちゃだ。やがて、深く息を吐く。


「……すまない」


 今度は、はっきりと声に出た。アリーシャの前に立ち、膝を折る。目線を合わせて、アリーシャを覗き込み、そっと抱き寄せる。強くはないけれど、離れないように、確かに。


「俺は、お前に負担を強いることが怖い」


耳元で、低く。


「お前が強いのは知っている。……だが、一人の女性だ」


 その言葉は、慰めでも命令でもない。ただの本音だ。アリーシャは胸元に額を預ける。温もりを感じる。けれど、完全には溶けない。自分が弱さを見せたこと。ルークを怒らせたと思ったこと。消えない小さな痛み。

 その夜、二人は同じ寝台に横たわる。触れれば届くのに、触れられない。それでも心のどこかに、薄い膜のようなものが残っていた。


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