第六章-1 綻びの始まり
午後の執務室に、硬質な光が差し込んでいた。アリーシャは今、席を外しており、ルーク一人だ。扉が叩かれ、ジークハルトが入室する。その歩みは静かだが、わずかに急いでいる。
「時間をもらえるか」
「何があった」
ルークは顔を上げる。書状から目を離した瞬間、その表情の違いを察した。ジークは声を落とす。
「右派の一部が騒いでいる」
「……」
「何度か集まって、声高に同じ言葉を使っている。“辺境再編を急ぎすぎた”“女皇は外交にばかり目を向けている”――どの口も、似た調子だ」
「それに、ライオネル侯爵が、お前の会議での発言を調べてるらしいぞ」
机の上に置かれたルークの手が、わずかに止まる。ライオネル侯爵、カイルを推していた筆頭貴族か。勢いはすでに無かったはず。今もまだ、女皇の有り様を認めず、王配である自分の足元を救おうとしているのか。または、右派を焚き付けている?そこまで姑息な手を使う御仁には見えなかったが。ルークは思考に浸り、沈黙が落ちる。
「偶然、ではないな」
「ああ」
ジークの視線が、静かに鋭くなる。
「裏で誰かが誘導している可能性がある」
ルークは椅子の背にもたれ、息を吐いた。
「……あの男か」
名を出さなくても、二人は同じ顔を思い浮かべる。ジークは否定も肯定もしない。
「証拠はない」
「だろうな。簡単に尻尾を出すはずがない」
短く吐き捨てる。窓の外では風が穏やかに揺れているのに、この部屋だけが冷えているようだった。
「もう少し調べてくれ」
「そのつもりだ」
「気取られるな。証拠を集めろ」
「わかった」
数歩下がり、ジークは扉へ向かう。そこで、ふと足を止めた。少し綻んだ顔で振り返る。
「ああ、それと、アンナとエリアスの件は、安心してくださいと殿下に伝えて下さい」
わずかに口元が緩む。
「二人で話した。エリアスはアンナと結婚するってさ」
ルークの表情が、ほんの少し和らぐ。
「……そうか、伝えておく」
扉が閉まり、ジークは退出していった。アリーシャの喜ぶ顔が目に浮かび、自然と笑みが溢れる。しかし、バロンのあの嫌みな笑顔が浮かべば、眉間に皺がよる。
(右派の動き……人的被害が出れば、声はさらに大きくなる)
だが、その事実を――彼女に伝えるべきか。視線が机上の書状に落ちる。エストリアからの回答。仲介国としての責任。若い女皇の肩に乗せるには、あまりに重い。
「……まだだ」
小さく呟く。彼女に余計な重荷を背負わせたくはない。そう判断した。その選択が、後の小さな亀裂へ繋がることを、この時の彼はまだ知らない。
その日、ガルデとの会議を控え、アリーシャは資料を見返していた。支援物資は着実にガルデへと送られている。目標数が、ガルデへと届けば完了である。今の所、小さな騒ぎはあっても、着実に北部の地へも物資が流れ、人も流れ、活性化に繋がっていると思っていた。後はエストリアからの返答を、バロンへと伝えればいい。アリーシャはゆっくりと目を通し、指先でそっと整える。
「仲介の場は、国内で――わたくしは、あくまで仲介に徹します。どちらかに肩入れすることなく、双方が納得できる形を探る。それでよろしいですね、ルーク」
向かいに立つルークは短く頷いた。
「ああ。それでいい」
落ち着いた声。その低さに、ほんの少しだけ胸が安らぐ。
(大丈夫)
そう、自分に言い聞かせる。辺境の再編も、外交も。すべては前へ進むためのものだ。
その時だった。扉が、強く叩かれた。室内の空気が変わる。ルークが視線を上げる。
「入れ」
扉が開き、伝令が駆け込んできた。息が荒い。
「ご報告申し上げます! 辺境にて小規模な盗賊討伐の最中、衝突が発生――」
アリーシャの背筋が、無意識に伸びる。
「被害は」
ルークが低く問う。
「守備隊長によってし鎮圧は済んでいるとのことですが、村民一人が軽傷、駆けつけた兵士が重症とのこと。周辺からは“再編の混乱が原因”と声が出ているとのこと」
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
(わたくしの、再編が……?)
ルークが何か言いかける。しかし、その瞬間、さらに別の文官が慌ただしく顔を出した。
「陛下、王配殿下。会議のお時間が迫っております」
無情なほど、事務的な声で告げられる。考える時間はなかった。頭の中を整理しなければ。負傷者や住民たちへの対応。エストリアへの回答。ガルデ支援の進捗。すべてが一度に押し寄せる。
(落ち着いて)
深く、息を吸う。
「……辺境守備隊長へ、負傷者の救護と、住民の安全を最優先にとお伝えください。再編は止めません。ですが、現地の判断を尊重すると」
声は震えていない。それだけを確認する。
「承知いたしました!」
伝令が退出する。文官が再び頭を下げる。
「失礼いたします。皆様、既にお揃いでございます」
アリーシャはゆっくりと立ち上がる。
「……参りましょう」
自分でも驚くほど、静かな声だった。ルークが一歩、隣に並ぶ。何も言わない。その沈黙がいつもなら安心なのに、かえって心を締め付ける。足音だけが石床に響く。
(急ぎすぎたのかしら)
ふと、そんな考えが胸をよぎる。けれど、首を振る。今は進むしかない。




