第五章-1 祝福の裏で
午前、執務室へと向かう前にアリーシャはネリーを伴い、侍女棟の一室の前で足を止めた。
「ここが、アンナの私室です」
戸口で戸惑うネリーに、アリーシャは小さく微笑む。
「ありがとう、ネリー。本当は来てはいけないと知っているけど、……アンナの顔を少しみていくだけだから」
ネリーが、静かに扉を叩く。
「アンナ、アリーシャ様がお越しくださいました」
中から、少し遅れて声が返る。
「……アリーシャ様? どうぞ……」
扉を開けると、寝台に身を起こしたアンナが、どこか青ざめた顔で頭を下げた。
「お見苦しい姿を……申し訳ございません」
「顔色が優れませんね。体調は?」
アリーシャは自然に歩み寄り、寝台の傍らに腰を下ろす。主人が侍女の部屋で座るなど、本来あり得ないことだ。ネリーがそっと視線を落とす。アンナはしばらく逡巡し、両手を握りしめ、震える声で告げた。
「実は……、子を身ごもりました」
アリーシャも、ネリーも息を呑む。アンナは俯いたまま続ける。
「このような……陛下が大変な時に……わたしなどが……申し訳ございません」
その肩が、かすかに震えている。だが。
「――まあ!」
弾む声が、部屋の空気を一変させた。アンナが顔を上げると、アリーシャの瞳は、驚きと喜びにきらめいていた。
「それは、本当なの?」
「は、はい……まだ月は浅いですが……」
「なんて素晴らしい……!」
両手を胸元で合わせる。
「おめでとう!アンナ!」
あまりにもまっすぐな祝福に、アンナは目を瞬かせる。
「……お怒りには、ならないのですか」
「どうして?」
首を傾げる。
「とっても喜ばしいじゃない。国がどんな状況かなんて関係ないわ!」
そして、少し身を乗り出す。
「――それで。お相手はどなたなの?」
小さく咳払いをしたが、ネリーも聞き耳を立てている。アンナは顔を真っ赤にして、小さな声で答えた。
「そ、その……エリアス様です」
「まあ!」
さらに瞳が輝く。
「いつ、そのようなことに? わたくし、まったく気がつかなかったわ」
観念したように、アンナはぽつりぽつりと語り出す。
「……あの折です。カイン様が陛下を攫われた時……」
空気が少しだけ引き締まる。
「エリアス様が負傷なさったあとで、謝罪に伺ったのですけど…わたしも被害者だ、と。怪我がなくてよかった、と……それから」
アンナの頬が赤く染まる。
「……ずっと、好きだったと」
ネリーも驚いて目を見開き、アリーシャは思わず両手で口を覆う。
「まぁ!まぁ!まぁ!!」
アリーシャが目を輝かせ、思わず大きな声を上げる。
「それで、お受けしたのね!なんて素敵なの!」
しかし、ネリーは少し不安な表情で尋ねる。
「貴方たち、おめでたいことだけど、結婚はどうするの?」
アンナの表情が、ネリーの一言で曇る。
「――あの、まだエリアス様にはお伝えしていなくて…」
アリーシャとネリーも、驚いて言葉が出ない。なるべく早く婚姻しなければ、未婚の身で子供を産むなど、アンナにとっては醜聞にしかならない。
「エリアス様は爵位をお持ちだけれど、私は一侍女にすぎませんし、ご迷惑になると思います」
「そんな…、そんな不誠実なこと、彼はしないはずよ」
「貴方だけの問題ではないわ、エリアス様にお話なさい」
ネリーがアンナの手を握りしめる。
「いいんです。今は悪阻があるので難しいですが、落ち着けばまた仕事には戻れます」
そう笑顔を作るアンナにアリーシャは何も言えなくなってしまった。
侍女棟を出たあとも、アリーシャはしばらく黙っていた。ネリーが控えめに声をかける。
「……いかがなさいますか」
「……エリアスには伝えた方がいいと思うの。ルークに相談してみましょう」
だがその声音には、どこか迷いが混じる。
「アンナは、優しすぎるのよ」
「そうですね。身を引くなんて、エリアス様がそう望んでいるかもわからないのに」
執務室へ到着すると、中ではルークが書類に目を落としており、その隣でジークハルトも控えていた。ルークはアリーシャに気づき、声をかける。
「アンナはどうだった?」
アリーシャはゆっくりと歩み寄る。
「……実は、身ごもっているそうです」
一瞬、ルークが驚いた表情をするが、そう告げるアリーシャの表情の険しさにすぐに気づいた。
「そうだったのか。それで、相手は?」
「エリアスよ」
エリアス・フェルナー。アリーシャの護衛だった近衛騎士だ。カインに深い傷を負わされて、今は療養していた。今後、近衛としての復帰は残念ながら、厳しいと聞いている。しかし、フェルナー男爵の次男であったか、騎士としては無理でも、如何様にも仕事の道はあるはずだ。
「なるほどな」
アリーシャは視線を落とす。
「でも、まだエリアスに伝えていないそうなの」
ルークはさらに驚く。
「は?」
「結婚の話も出ていないし、自分は一侍女に過ぎないから迷惑になるかもしれない、と」
短い沈黙が流れる。そばで聞いていたジークハルトやネリーも口を噤む。
「……彼はそんな無責任な男じゃないと思うが」
ルークは低く、断言する。
「わたくしもそう思うわ。でも、アンナはきっとまだ負い目を感じていると思うの」
ルークは机から離れ、腕を組み、ジークハルトへと視線を向ける。
「早めに話をさせるべきだ。ジーク」
「わかった。今から向かうよ」
名前を呼んだだけなのに、ジークハルトはルークの意図するところが伝わったようだ。
「アンナとエリアスは、会って直接話をした方がいい」
ルークは席を立ち、アリーシャのそばへ歩み寄る。
「ジークにエリアスにアンナの件は任せよう、大丈夫だ」
ふと、ルークの視線が柔らぐ。
「ルーク…」
アリーシャは少しだけ苦笑する。
「ジークなら状況だけを伝えて、会う場を作るだろう。あとは、二人次第だろうが、うまく取り持ってくれる」
アリーシャの瞳がわずかに明るくなる。
「よかった」
ルークの手が、そっとアリーシャの背に触れる。
「心配するな。二人とも、不誠実な人間じゃない」
その言葉に、アリーシャの肩から少し力が抜ける。
「……ありがとう」
ルークとアリーシャはお互いの温もりを感じながら抱き合った。




