第四章 燻る火種
馬の前で、革手袋を引き締める。通達より数日して、レオナール一行が辺境へ向けて出立する日となった。
「準備は整っております。レオ様」
背後からマリウスが声をかける。レオナールは小さく舌打ちした。
「……マリウス。レオはやめろ。子供扱いするな」
振り返ると、年嵩の男は微動だにせず立っている。
「失礼いたしました、隊長」
言葉は改める。だが声音は変わらない。幼い頃から変わらぬ、あの声音。マリウスはレオナールの父の右腕だった。父が侯爵となり、剣よりも筆を取るようになってから、レオナール兄弟に稽古をつけてくれていたのは、ずっとマリウスであった。いつもイタズラをしたりしても、すぐ背後にいてゲンコツをくらっていたのは懐かしい。
レオナールは視線を逸らす。
「俺は、もう子供じゃない」
「存じております」
即答だった。マリウスはわずかに目を細める。
「……ですが、私にとっては、今もレオ様です」
レオナールは小さく息を吐いた。
「……勝手にしろ」
そう言いながらも、ほんのわずかに肩の力が抜ける。若いレオナールの胸に、焦りと高揚が混ざっていることを、マリウスは気づいていた。
「焦りは禁物ですぞ」
レオナールは鼻で笑う。
「説教か」
やがて、レオナールは馬に跨る。
「行くぞ」
「は」
レオナールたちが、辺境へ向けてかけていった。
会議室では、女皇アリーシャと、ガルデの使節――バロン・クラウゼンが長机をはさんで、正面に座っている。アリーシャの背後にはルークと宰相、その後方に文官たちが控える。対するバロンの後ろにも随員が立つ。だが空気は、薄く張りつめていた。
「本日は、支援の件について擦り合わせをお願い致します」
静寂な空気を切って、アリーシャが穏やかに口を開く。声は落ち着いている。揺れはない。
「ガルデとしても、前向きなご対応痛み入ります」
バロンはにこやかに応じる。書簡を机上に広げながら、言葉を続ける。支援物資の内容、数字の確認が一通り終わったころ、バロンは何気ない口調で言った。
「ところで、辺境の再編についても耳にしております」
宰相がわずかに視線を上げる。
「守備隊の統合、再配置。思い切ったご判断でした」
「秩序の立て直しは急務でしたので」
アリーシャは淡々と答える。バロンは頷き、視線をルークへと向ける。
「国境の安定は、我が国としても望むところ。――王配殿下の御英断、見事でございます」
一瞬の沈黙が会議室を包む。――王配殿下の。あえて女皇の名を出さなかった。ルークは表情を動かさない。
「再編は陛下のご裁可のもと進めている」
短く、事務的に返す。しかし、バロンは微笑みを深める。そう返すことなど想定していたかのように。
「もちろん。最終の御裁可は女皇陛下にございます。ですが、実務をお取りになるお立場のご判断が、いかに重いか。わたくしどもも理解しております」
――実務を取っているのは王配とはいえ、ルークなのだろう?そう言いたげにルークを笑顔の奥の視線で刺す。室内の空気がわずかに硬くなる。
そのとき。
「わたくしが、ルークの判断を信じているのです」
澄んだ声が落ちた。まっすぐ、迷いなく、バロンを見据える。アリーシャは微笑んでいる。
「進言を受け、検討し、決するのはわたくし。それが、この国のかたちです」
静かに、しかし明確にバロンへと告げる。ルークの指先がわずかに緩む。バロンは、ほんのわずかに目を細めた。
「……なるほど。大変失礼を申しました」
何事もなかったかのように笑顔を戻すが、その奥で何かが測られているように感じた。
会議が終わり、バロンはあてがわれた部屋とは別の場所へと足を向けた。王城の奥、これから会う約束をしている者の待つ場所へと向かった。
カーテンは閉め切られ、広くない部屋がさらに閉塞的に感じられる。そこに待つのは、ライオネル侯爵。年の頃は五十を越える。かつてカイルを強く推した右派の重鎮だった。だがカイルが討たれてからは、その影響力は目に見えて衰えていた。
「遠路はるばる、ようこそおいで下さった」
侯爵の声は低く、警戒を含んでいる。バロンは穏やかに微笑む。
「とんでもございません。わざわざ、お時間を頂き、誠に光栄でございます」
侯爵は椅子に座ったまま、視線だけバロンへと向ける。
「要件はなんでしょう」
「私はただ、敬意を表したいだけです」
侯爵の眉がわずかに動く。
「……白々しい」
「あなたほど、王家の行く末を案じておられる方はおりますまい」
バロンは甘い声音だが、侯爵は冷静にバロンを観察している。
「女皇陛下は聡明でいらっしゃる。疑いようもない。ですが――王配殿下の影響力は、思いのほかお強い様ですね」
侯爵は表情を変えない。それでも、バロンは続ける。
「本日も会議の場におられましたが、最終的な言葉は、常に王配殿下が落とされる。若き陛下が、真に自由にお考えになれているか……外からは測りかねます」
静かな毒を落としていく。
「何が言いたいのですかな」
「いえ。ただ、あなたほどの忠臣が、このまま黙しているのは惜しいと申し上げているのです」
重い沈黙が部屋を支配する。侯爵の胸には、かつての挫折が残っている。カイルを支えられなかった悔恨。王家の形が変わったことへの戸惑い。バロンは追い打ちをかけない。すっと立ち上がる。
「誤解なきよう。私は女皇陛下の御代の安定を願っております」
扉へ向かいながら、最後に振り返る。
「ですが、女皇は侮られやすい。傀儡にさせてはいけません」
その言葉だけを残して、バロンは去った。
ライオネル侯爵は長く沈黙していた。
「……傀儡、だと」
吐き捨てるように呟く。あの女皇は、愚かではない。だが――王配の影が濃いのは事実。やがて、侯爵は側近を呼ぶ。
「最近の会議録を持て。王配殿下の発言箇所を抜き出せ」
疑っている訳ではない。確かめるだけだ。女皇は傀儡になってなどいないと。




