最終章-4 侵入
王座の間は、奇妙なほど静かだった。
高窓から差し込む光は変わらない。
近衛騎士たちも、いつも通りの位置に立っている。
それでも――。
(……静かすぎる)
アリーシャは、指先にわずかな緊張を覚えた。
本来なら、城門前で戦が始まっている刻だ。
鬨の声、剣戟、遠く響く怒号――それらが、まだ届かない。
代わりに聞こえるのは、城内を巡回する足音と、鎧の擦れる音だけ。
近衛騎士団長ヴァン・クライブも、同じ違和感を覚えたらしい。
視線を巡らせ、低く呟く。
「……おかしいな」
隣で警護にあたっていたディートリヒも、小さく頷いた。
「正門前がこれほど静かなはずがありません。
もう始まっていても……」
ヴァンは一瞬考え、近くの近衛に視線を向ける。
「外の様子を確認してこい。
異変があればすぐ戻れ」
「はっ」
騎士が静かに駆けていく。
その背を見送った瞬間、アリーシャの胸に、別の記憶がよぎった。
――暗い通路。
幼い頃。
王城の奥で迷い込み、ケイネスと、そしてカインと、松明も持たずに走った、ひんやりとした石の道。
誰に教えられたわけでもない。
ただ、好奇心のままに踏み込んだ場所。
(……あの時)
薄暗く、音が吸い込まれるような通路。
王城の表からは、決して気づけない場所。
心臓が、強く脈打つ。
「……ヴァン」
アリーシャの声は、静かだったが、迷いはなかった。
「もしかしたら、…兄様はすでに城内に入り込んでいるのかもしれません」
ヴァンが、はっと顔を上げる。
「……隠し通路か!」
ディートリヒが、無言で剣の柄に手をかけた。
王座の間に、張り詰めた沈黙が落ちる。
最初に起きたのは、音と呼ぶには曖昧な違和感だった。
王座の間の奥――玉座の背後、厚い石壁の向こうから、ごく低い擦過音が伝わってくる。
――ぎ……。
金属が石に触れたような、あるいは、誰かが息を潜めて足を運んだような。
あまりに微かな音だった。
聞き逃しても、不思議ではない。
だが。
近衛騎士の一人が、ふっと顔を上げた。
次の瞬間、鎧の擦れる音が、わずかに止む。
ヴァンの視線が、鋭く奥へ走る。
「……今のは」
言葉が終わる前に、もう一つ、音がした。
――こつ。
はっきりとした、人の足音。
王座の間にいる者すべてが、同時に理解した。
――城内。
しかも、背後にすでにいる。
近衛騎士たちが、一斉に振り返る。剣が抜かれる音が、遅れて重なった。玉座の背後、普段は誰も意識しない石壁。その一角に、わずかな継ぎ目が浮かび上がる。
アリーシャの胸が、強く脈打った。
(……あの時)
幼い頃、迷い込んだ暗い通路。
冷たい石の感触。
出口の分からない分岐。
記憶は断片的で、怖かった記憶だけが残っている。
――けれど。
ここに繋がっていた。
そう、理解してしまった。
ヴァンが一歩、前に出る。
「陛下!下がってください!」
近衛が即座に壁とアリーシャの間に陣取る。
その時。
がり……。
石が削れる音が、今度ははっきりと響いた。
継ぎ目が、ゆっくりと――開く。
真っ直ぐに、その闇を見据える。
闇の奥から、一人分の足音が、はっきりと聞こえた。
――こつ、こつ。
規則正しく、迷いがない。
近衛騎士たちの視線が、自然と一点に集まる。
そして。
暗い通路の出口に、人影が立った。
逆光に縁取られた輪郭が、ゆっくりと前へ出る。
松明の光が、その顔を照らした瞬間――王座の間に、息を呑む気配が走った。
「……カイン兄様」
アリーシャの声が、静かに落ちる。
カイン・シュバルツは、剣を抜いていなかった。
鎧も軽装。
まるで、戦場ではなく、かつての王城に戻ってきたかのような佇まい。
その唇に、微かな笑みが浮かぶ。
「やはり、ここにいたか」
声は穏やかだった。
責める調子も、急かす響きもない。
だが、その目には、確信が宿っている。
近衛騎士団長ヴァンが、即座に一歩踏み出す。
「これ以上、前へ出るな」
剣を構え、通路を塞ぐ。
カインは足を止めたが、怯む様子はなかった。
むしろ、どこか満足そうに周囲を見渡す。
「ずいぶんと、固めたな」
「だが……」
視線が、一直線にアリーシャを捉える。
「迎えに来たのは」
一拍。
王座の間が、張り詰める。
「――アリーシャ。君だ」
その言葉に、近衛の誰かが、思わず一歩前に出かける。
ヴァンが、無言で制した。
アリーシャは、動かない。
狼狽はあった。
だが、それは一瞬だった。
「……取り戻しに来た、と言うのですね」
震えを抑えた声。カインは、はっきりと頷く。
「そうだ」
迷いはない。
言い訳もない。
「奪われたものを、正しい場所へ戻す」
「それだけのことだ」
勝ち誇った笑みが、わずかに深まる。
「もう、迷う必要はない」
「一緒に戻ろう、アリーシャ」
王座の間に、凍りつくような沈黙が落ちた。




