第六章-3 残された者たち
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どれほどの時間が過ぎたのか、エリアスにはわからなかった。出血のせいで、体が震える。それなのに、左の太腿だけが燃えるように熱く、石床を濡らしていた。
「……っ、く……」
歯を食いしばり、なんとか身体を起こす。足に力を入れた瞬間、激痛が走って視界が白くなった。それでも、倒れているわけにはいかなかった。姫を守れなかった。その現実だけで、喉の奥が焼けるようだった。
すぐ傍に、ネリーが倒れているのが見えた。
「ネリー殿……!」
エリアスは足を引きずるようにして彼女のもとへ辿り着く。膝をついた途端、傷がずきりと脈打った。
「ネリー殿、しっかりしてください……! ネリー殿!」
肩を揺する。反応はない。だが、呼吸はある。毒ではない。殺意のあるやり方でもない。そこまで考えた瞬間、相手の狙いが明確になって、エリアスは歯噛みした。
「起きてください……! お願いです……!」
もう一度、強く肩を揺すると、ネリーの眉がわずかに寄った。
「……っ……」
「ネリー殿!」
まぶたが震え、やがて薄く開く。焦点の定まらぬまま、ネリーは小さく息を呑んだ。
「……姫様……!」
跳ね起きようとして、首元を押さえたまま顔を歪める。だが次の瞬間には、彼女の視線は庭の惨状を捉えていた。
「姫様は……! アンナは!」
「……連れ去られました」
その一言で、ネリーの顔色が変わる。
「シュバルツ卿です。伏兵を用意していました。俺は……止められなかった」
絞り出すような声だった。ネリーは一瞬だけ目を閉じたが、すぐに表情を引き締めた。
「謝罪は後です。今は近衛を」
「ええ……」
エリアスが頷くより早く、ネリーは立ち上がろうとした。だが、身体がわずかにふらつく。エリアスが片腕で支える。
「走れますか」
「走ります」
その目に迷いはなかった。ネリーは裾を持ち上げ、西庭の扉へ向かって駆け出した。首筋の痛みも、息苦しさも、今はどうでもよかった。廊下に出るなり、張り裂けるような声で叫ぶ。
「誰か! 近衛を! 姫様が――王妃殿下が攫われました!」
夜の王城に、その声は鋭く響き渡った。
足音がいくつも重なる。近衛兵たちが駆け寄り、異変を察した侍従や女官たちが青ざめた顔で立ち尽くす。ネリーは呼吸を乱しながらも、言葉を切らなかった。
「西庭です! フェルナー卿が負傷しています! 早く――!」
ざわめきが、一気に騒然へ変わる。ちょうどその時、反対側の廊下からディートリヒが駆けてきた。後ろには近衛騎士団長ヴァン・クライブの姿もある。ディートリヒはネリーを見るなり顔色を変えた。
「何があった!」
「姫様が……カイン様に……!」
短い言葉でも、十分だった。ヴァンの目が鋭く細まる。
「門を閉じろ。夜間の出入りをすべて止める。城内の兵を動かせ、西庭からの痕跡を辿れ!」
「はっ!」
命令が飛び、兵たちが散る。ディートリヒは西庭へ駆け込もうとしたが、ヴァンが低く言った。
「冷静になれ!感情で走るな、ディートリヒ!」
その声に、ディートリヒは辛うじて足を止めた。拳を握りしめる。
「……すまん」
「今は謝るな。行くぞ!」
西庭へ戻ると、エリアスが壁に身を預けていた。顔色は悪いが、意識はある。石畳に広がる血痕と真っ赤になった太腿を見たディートリヒは息を呑んだ。
「エリアス……!」
「足を止められました。それだけです。姫様は……」
言葉の続きを、エリアスは飲み込んだ。ディートリヒは一瞬だけ目を閉じ、それから低く問う。
「相手は何人いた」
「少なくとも五。……いや、六かもしれません。辺境伯本人を含めれば、それ以上です」
ヴァンが周囲を見渡す。乱れた植え込み、血の跡、踏み荒らされた土。痕跡は残っている。だが、夜闇と時間が、それを薄めていく。
「ルーク殿下には?」
ネリーが問うと、ヴァンは頷いた。
「今すぐ早馬を出す。サムロールまでは二時間ほどだ。到着次第、折り返してもらう」
ディートリヒは拳を握ったまま、低く言った。
「私が行きます」
「駄目だ。お前は城に残れ。王城の内情を知る者が城を空けるな」
ヴァンの判断は早かった。すでに数騎の早馬が用意され、最も速い者が夜の門を抜けていく。その背を見送りながら、ネリーは唇を噛んだ。
(間に合ってください……)
だが、祈りだけで戻るものではなかった。王城の夜は、一気に戦場のような緊張を帯びていく。




