犬泣かせの丘
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翌朝。
隙間風の音ではなく、小鳥のさえずりで目が覚めるなんて、いつぶりだろうか。
私は薄い毛布を押し退けて、冷たい空気の中に身を起こした。
隣ではマリーが、安らかな寝息を立てている。その顔色は、昨日までの死人のような白さではなく、ほんのりと桜色が差していた。
昨夜の「魔法のポテト」のおかげだ。
「ん……ふわぁ……」
部屋の隅、暖炉の前で丸まっていた毛布の塊が動いた。
アレクだ。
昨夜は暗くなってしまったため、彼には狭い我が家に泊まってもらったのだ(といっても、床にわらを敷いただけの客間とも呼べない場所だが)。
「よう、ハル。おはよう」
「おはようございます、アレクさん。体、痛くないですか?」
「あー……まあ、泥の中で野宿するよりはマシだ。おかげで生き返ったよ」
彼はボキボキと首を鳴らしながら立ち上がった。
そして、盛大にお腹を鳴らした。
グゥゥゥゥ……。
「……あー、なんだ。昨日のポテトは最高だったけど、やっぱり消化が良いんだな」
「ふふ、そうですね。あれはあくまで『おやつ』みたいなものですから」
私も苦笑しながら、お腹のあたりをさすった。
確かに、昨夜のフライドポテトは美味しかったし、カロリーは摂取できた。
けれど、人間が活動するには、それだけじゃ足りない。
特に今日は、アレクさんの荷車を本格的に泥から引き上げたり、家の修繕をしたりと、体力を使う仕事が山積みだ。
必要なのは、一瞬のエネルギーではなく、体を内側から燃やし続ける持続力。
そして、冬の間に弱った免疫力を叩き直す強烈な活力。
(やっぱり、あれが必要ね)
私は開発担当者としてのスイッチを入れた。
マリーやアレクに、今日一日を戦い抜くための「燃料」を補給しなければ。
「アレクさん。朝ごはんの前に、ひと仕事手伝ってくれませんか?」
「へ? まだ何かあるのか?」
「ええ。最高の『薬味』を採りに行きます。……ちょっと、臭いかもしれませんけど」
◇
マリーには「すぐ戻るからお留守番しててね」とお願いし、私たちは村はずれの丘へと向かった。
雪解けの朝の空気は凛としていて、肺に入れると痛いくらいだ。
目指す丘は、南向きの斜面にある。
ここは雪解けが一番早く、春の兆しがいち早く訪れる場所だ。
「なぁ、ハル。薬味ってなんだよ? ハーブか何かか?」
「似たようなものです。ほら、あそこ」
私が指差した先。
半ば溶けた雪の間から、鮮やかな緑色の細長い葉が、剣のようにツンツンと天に向かって伸びていた。
風向きが変わる。
その瞬間、ツンとした独特の刺激臭が鼻をかすめた。
「うっ!?」
アレクが露骨に顔をしかめて、鼻をつまんだ。
「くっさ! なんだ今の匂い!? 腐った玉ねぎみたいな……」
「やっぱり、もう芽吹いてた。これですよ、今日のお目当ては」
私はニヤリと笑った。
村人たちが『犬泣かせ』と呼んで忌み嫌う雑草。
踏みつければ強烈な悪臭を放ち、鼻の利く猟犬たちが涙を流して逃げ出すことから、その不名誉な名前がついた。
だが、その正体は――前世で言うところの『行者ニンニク』や『ノビル』の類だ。
雪の下でじっと耐え、大地の栄養を球根に溜め込んだ、生命力の塊。
「本気かよ!? これ、村の連中は『毒草』だって言ってるぞ。食ったら腹を下すとか……」
「それは生で大量に食べるからです。火を通せば、毒どころか最強の薬になるんです」
私は躊躇なく泥の上に膝をつき、素手で土を掘り返した。
冷たさに指が痺れるが、構っていられない。土の中から、白くて丸々とした球根が顔を出す。
ブチッ。
引き抜くと、さらに濃厚な硫黄系の香りが漂った。
「うえぇ……俺、マジで無理かも」
「アレクさん、昨日のポテトを思い出して。あれも最初は『ゴミ』に見えたでしょ?」
「うっ……それはそうだけど」
「信じてください。私の舌と、知識を」
私が真っ直ぐに見つめると、アレクは観念したように溜息をつき、隣にしゃがみ込んだ。
「わかったよ。毒見して死ぬなら本望だ。……その代わり、不味かったら昨日の油代、倍にして請求するからな」
「ふふ、商魂たくましいですね」
私たちは並んで泥まみれになりながら、籠いっぱいの『犬泣かせ』を収穫した。
作業をしているうちに体が温まってくる。
土の匂いと、強烈な薬味の香り。それは不思議と、空腹を刺激する香りでもあった。
◇
帰宅すると、マリーが玄関まで出迎えに来てくれていた。
「お姉ちゃん、おかえり。……なんか、変な匂いがする」
「ただいまマリー。ごめんね、ちょっと強い匂いだけど、すぐに良い匂いに変身させるから」
私は収穫したばかりの『犬泣かせ』を桶の水で洗い、土を落とした。
薄皮を剥くと、艶やかな白い肌が現れる。それをまな板の上で、ザクザクと刻んでいく。
包丁を入れるたびに、目に染みるような成分が弾け飛ぶ。アリシンだ。
強力な殺菌作用を持ち、ビタミンB1の吸収を助け、疲労回復とスタミナ増強に劇的な効果を発揮する成分。
「さて、調理を開始するわよ」
「ホントに美味しくなるんだろうな?」
「まあ、見ててください」
私は鍋を熱し、油をひく。
十分に温度が上がったところで、刻んだ『犬泣かせ』を一気に投入した。
ジュワァァァッ!!
激しい音と共に、湯気が立ち昇る。
その瞬間、部屋の空気が一変した。
「……あれ?」
鼻を押さえていたアレクの手が、ゆっくりと離れていく。
「臭く……ない? いや、この匂い……」
先ほどまでの鼻を刺すような刺激臭は消え失せ、代わりに漂ってきたのは、食欲中枢を直接殴りつけるような、香ばしく濃厚な香り。
いわゆる「ガーリックオイル」の香りだ。
グゥゥゥゥ! アレクの腹の虫が、まるで猛獣の咆哮のように鳴り響いた。
「なんだこれ!? 腹が減る! 無性に腹が減る匂いだ!」
「でしょう? 加熱することで、臭みが旨味と香りに変わるんです」
私はそこに、昨日下処理をしておいた残りの『オークの足指(芋)』を、薄い輪切りにして投入した。 昨日は揚げたが、今日は「炒め(ソテー)」だ。
ジュウジュウと音を立てて、芋がガーリックオイルを吸い込んでいく。
白かった芋の表面が、こんがりときつね色に焦げ、ニンニクの香りを全身に纏う。
仕上げに、貴重な岩塩をパラリ。
そして、彩りに刻んだ『犬泣かせ』の青い葉を散らす。
完成だ。
『オークの足指と犬泣かせのスタミナソテー』。
別名、無限ガーリックポテト。
皿に盛り付けると、湯気と共に暴力的なまでの「美味そうな匂い」が立ち昇った。
「さあ、朝ごはんにしましょう」
テーブルに置いた瞬間、マリーとアレクの手が同時に伸びた。
もう、「毒見」なんて言葉は誰も口にしない。
パクッ。
二人同時に口に放り込む。
ハフハフと熱い芋を噛み締め――動きが止まった。
「…………っ!!」
マリーの瞳がカッと見開かれる。 アレクが天を仰いで震えた。
「んんーーっ!! おいしいぃぃ!」
「うおぉぉっ! なんだこれ、力が湧いてくる!」
昨日のフライドポテトが「優しさ」なら、これは「暴力」だ。
ガツンとくるニンニクのパンチと、油を吸った芋の甘み、そして岩塩の塩気。
噛めば噛むほど、唾液が溢れて止まらない。
マリーは夢中でフォークを動かしている。
「からい、けど、おいしい! 体がポカポカするよぉ!」
食べているそばから、白い頬に赤みが差していくのがわかる。即効性のエネルギーだ。
アレクに至っては、もはや笑うしかないようだった。
「ははっ、すげぇ! これなら泥沼だろうが雪山だろうが走っていけるぞ! 酒だ、誰か酒を持ってこい!」
「朝からお酒はダメですよ」
私も一口食べる。
……うん、間違いない。
開発室で徹夜明けに食べた、あのにんにく増し増しのまかない飯の味だ。細胞のひとつひとつが目を覚まし、「生きろ」と叫んでいるような味。
あっという間に皿は空になった。食べ終わった後、アレクは真剣な眼差しで、空っぽの皿を見つめていた。 そして、ゆっくりと顔を上げ、私を見た。
「なぁ、ハル」
「はい」
「これ……売れるぞ」
彼の声は、低く、熱を帯びていた。
「この村だけじゃない。王都でも、いや、世界中どこへ行っても通用する。冒険者や肉体労働者は、金貨を出してでもこれを食いたがるはずだ」
彼の目に宿っているのは、ただの食いしん坊の光ではない。商人の光だ。
ゴミ同然の芋と、嫌われ者の雑草。原価ほぼゼロの素材を、宝の山に変える可能性に気づいたのだ。
「俺と組まないか、ハル。俺が元手と販売ルートを用意する。あんたはその知識と腕を貸してくれ」
アレクが、油でベトベトの手を差し出してきた。
その顔は、泥んこの少年ではなく、一人の男の顔だった。
「ゴミと雑草を、金貨に変える錬金術だ。……一緒に、のし上がろうぜ」
私はマリーを見た。
口の周りを油だらけにして、満足そうにお腹をさすっている妹。
この笑顔を守り続けるためには、綺麗事だけじゃダメだ。
力がいる。
私一人では限界がある。
でも、この、私の料理を信じてくれる「共犯者」となら――。
私は手を伸ばし、その熱い手をしっかりと握り返した。
「条件があります。……売上の配分は、きっちり交渉させてもらいますよ?」
「ははっ、手厳しいな! 望むところだ!」
握り合った手を通して、確かな熱が伝わってくる。
ボロ家の窓から差し込む朝日は、昨日までよりもずっと明るく、輝いて見えた。
こうして、私たちは手を組んだ。
けれど、まだ私たちは知らない。
このガーリックポテトの香りが、村中を巻き込む大騒動の呼び水になることを。
そして、村人たちが「呪い」と恐れる『冥府の使い』との戦いが、すぐそこまで迫っていることを――。
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