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初めての「美味しい」

いつも読んでいただき、本当にありがとうございます。 温かい応援のおかげで、頑張れています。どうぞお楽しみください!

 サクッ。



 静寂に包まれたボロ家の中に、軽快で、それでいて力強い音が響いた。  

 それは、硬い殻が砕ける音ではない。  

 極限まで脱水された表面の衣が、歯の圧力によって崩壊し、その内側にある柔らかさを解放する音だ。


 最初にその音を立てたのは、毒見役を買って出たアレクだった。  

 彼は眉間に深い皺を寄せ、まるで劇薬を飲み込むような悲壮な覚悟で、その黄金色のスティックを噛み切った。


 サクッ、カリッ。  そして、ホフッ。


 咀嚼するたびに、小気味よい音が連続する。  

 直後、口の中から漏れ出たのは、白い湯気と、言葉にならない吐息だった。


「…………は?」


 アレクの動きが止まった。  

 彼の瞳孔が開き、手にした残りのポテトを凝視する。


「な、なんだこれ……?」


 彼が知っている『オークの足指』の食感じゃない。  

 石のように硬く、噛めばジャリジャリと泥の味がして、飲み込むと喉がイガイガするはずのあの不味い根菜。だというのに、今、彼が体験しているのは――。


「か、軽い……! なんだこの歯ごたえは! 外側は薄いガラスみたいにパリパリしてやがるのに、中は……中はまるで、クリームみたいにトロトロだぞ!?」


 アレクが叫んだ。  

 そう、それこそがフライドポテトの真髄。  

 高温の油で一気に加熱することで、芋の水分が膨張し、内側の細胞を破壊してホクホクの食感に変える。同時に、表面の水分は完全に飛び、油の膜が旨味を閉じ込める壁となる。


 硬さと柔らかさ。

 香ばしさと甘さ。  

 相反する二つの要素が、一本のスティックの中で奇跡的な同居を果たしているのだ。


「うそだろ……これがあのゴミ芋だってのか!? 泥臭さはどこへ行ったんだよ! それに、この味……!」


 アレクは次々にポテトを口に放り込んだ。もう毒見なんて建前は忘れている。  

 ハフハフと熱い息を吐きながら、彼は目を見開いて私を見た。


「塩だ! ただの岩塩なのに、油と混ざるとこんなに……っ、甘みを引き立てるのかよ! 舌が痺れるどころか、もっとくれって叫んでる!」


 彼のリアクションは、開発者冥利に尽きるものだった。塩分と脂肪分。それは生物が生存するために最も欲する二大要素。  

 飢えた体にとって、この組み合わせはどんな高級料理よりも脳髄に響く「快楽物質」だ。


 けれど。  


 私が本当に見たかったのは、アレクの驚愕ではない。  

 その隣で、小さな両手でポテトを握りしめている、妹の反応だ。


「…………」


 マリーは、まだ動かない。口には入れた。サクッという音もした。  

 けれど、彼女は目を丸くしたまま、彫像のように固まっている。


 ドキリ、と私の心臓が跳ねた。  

 やっぱり、五歳の子供には油が重すぎただろうか。  

 それとも、熱すぎて火傷をしてしまったか。


「マリー? どうしたの? 熱かった?」


 私が心配して顔を覗き込んだ、その時だった。


 ぽろり。


 マリーの大きな瞳から、大粒の雫がこぼれ落ちた。  

 それは汚れた頬を伝い、握りしめたポテトの上に落ちる。


「マリー!?」


「……ない」


 マリーが、震える唇で何かを呟いた。


「痛く、ないよぉ……」


「え?」


「いつも、ゴハンたべると、お口の中がチクチクして、喉が痛くて、お腹がシクシクするのに……」


 マリーは泣きじゃくりながら、もう一口、ポテトをかじった。  サクッ。


「痛くないの。……あったかいの」


 その言葉を聞いた瞬間、私は胸を金槌で殴られたような衝撃を受けた。


 ああ、そうか。

 この子は今まで、「食事」=「苦痛」だったんだ。  

 生きるために無理やり詰め込む、不味くて、硬くて、消化に悪い異物。それが彼女にとっての「ゴハン」だった。「美味しい」なんて概念は、おとぎ話の中だけの夢物語だったのだ。


「あったかいよぉ……お姉ちゃん……」


 マリーの顔がくしゃりと歪む。  それは苦痛の表情ではない。  生まれて初めて知った温もりに、凍えていた心が溶かされていく表情だった。


「あまくて、しょっぱくて……すっごく、おいしいよぉ……!」


 マリーは泣きながら、それでも笑顔を作ろうとして、不器用に頬を緩ませた。  涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。  

 けれど、私にはその顔が、どんな天使よりも愛おしく見えた。


 彼女は小さな口いっぱいにポテトを頬張り、咀嚼する。飲み込むたびに、その小さな体に熱が灯っていくのがわかる。  

 蒼白だった頬に、薔薇色の赤みが差してくる。死に絶えていた生命力が、一本のポテトによって再び着火されたのだ。


「う、うぅ……」


 私の視界も滲んだ。  

 鼻の奥がツンとして、喉が熱くなる。  

 泣いちゃダメだ。料理人が、お客さんより先に泣いてどうする。  

 私は笑顔で「美味しい?」って聞いてあげなきゃいけないのに。


「……よかった」


 絞り出した声は、ひどく震えていた。私は涙をこらえるために歯を食いしばり、マリーの頭を撫でた。  パサパサだった髪。でも、今は体温を感じる。


 ついさっき、この子は言ったのだ。  


『お姉ちゃん、私はもうお腹いっぱい』と。


 あの悲しい嘘が、ほんの2〜3時間で、黄金色の真実に変わった。  

 もう嘘をつかなくていい。我慢しなくていい。  

 この子は今、心からの言葉で「美味しい」と言ってくれたのだから。 


「ほら、もっと食べて。たくさんあるから」


「うん……! うんっ!」


 マリーは必死に頷き、次のポテトに手を伸ばす。その勢いは凄まじかった。まるで、これまでの五年間の飢えをすべて取り戻そうとするかのように。


「……ははっ、すげぇな」


 隣でアレクが、目元をこすりながら笑った。彼もまた、何かを感じ取ったのだろう。少しだけ声が湿っている。


「俺も負けてらんねぇな。おいハル、これマジで美味すぎるぞ。止まらねぇ」


  「どうぞ。あなたの油と塩のおかげですから」


 私も、ようやく自分の分の一本を手に取った。揚げたてからは少し時間が経ってしまったけれど、まだ十分に熱い。


 私はそれを口に運んだ。


 サクッ。


 懐かしい音。  

 口の中に広がる、油のコクと芋の甘み。そして岩塩の鋭い塩気。


(ああ……これだ)


 前世の記憶にある、ファーストフード店の味。仕事帰りに、疲れ切った体で食べたあのジャンクな味。  けれど、記憶の中のどんなポテトよりも、今この瞬間のポテトの方が、何倍も美味しく感じられた。


 それはきっと、スパイスのせいだ。  

「空腹」という最高のスパイスと。  

「大切な人を笑顔にできた」という、料理人にとって最高の隠し味が効いているから。


 ――美味しい。本当に、美味しい。


 ただの揚げた芋なのに。

 どうしてこんなに、涙が出るほど美味しいんだろう。


 気づけば、私たちは三人で、ザルに山盛りだったポテトを無言で貪り食っていた。行儀なんてどうでもよかった。指についた油を舐め取り、落ちた塩の粒さえ指で拾う。外では冷たい風が吹いているけれど、このボロ家のテーブルの周りだけは、暖炉のような熱気に包まれていた。


 そうして、山盛りだった黄金の山が、あっという間に消滅した頃。


「ふぅぅー……」


 マリーが、満足げなため息をついて椅子の背もたれに寄りかかった。そのお腹は、ポンポコリンに膨らんでいる。  

 今度こそ、嘘偽りのない「お腹いっぱい」だ。


「……食ったぁ。信じられねぇ、芋だけでこんなに満たされるなんて」


 アレクも腹をさすりながら、呆れたように天井を見上げている。そして私を見て、ニカッと笑った。


「ハル。あんた、すげぇよ。魔法使いかと思った」


「ただの料理ですよ。……でも、最高の褒め言葉です」


 私も笑い返した。  体の中に、力が漲ってくるのを感じる。  

 炭水化物と脂質。エネルギーの塊が、血液に乗って全身を駆け巡っている。  

 これなら動ける。これなら、戦える。


 私は、空っぽになったザルを見つめ、冷静な「開発者の目」に戻った。


(まずは第一段階クリア。炭水化物カロリーの確保には成功した)


 マリーの命の危機は脱した。けれど、これだけじゃダメだ。フライドポテトは美味しいけれど、栄養バランスで言えば偏りすぎている。  

 ビタミン、ミネラル、タンパク質。  成長盛りのマリーには、もっと体を作る栄養素が必要だ。


 それに、ポテトだけでは味が単調だ。もっと食欲を刺激し、風邪を引かない強い体を作るための「薬」のような食材が欲しい。


 私の脳裏に、村外れの丘に群生している「あの草」が浮かんだ。村人たちが『犬泣かせ』と呼んで忌み嫌う、強烈な臭いを放つ雑草。踏むと悪臭がして、犬でさえ逃げ出すという嫌われ者。


 でも、今の私にはわかる。あれは悪臭なんかじゃない。あれこそが、料理に魂を吹き込み、疲れた体を内側から燃やす最強のスタミナ源――『ニンニク』と『ノビル』の香りだ。


 ふと横を見ると、マリーがとろんとした目で、こくりこくりと船を漕ぎ始めていた。  

 限界だった糸が切れて、満腹感と共に強烈な睡魔が襲ってきたようだ。  

 アレクもまた、大きなあくびを噛み殺している。


「アレクさん」


「ん? ……なんだ? ふわぁ……」


  「今日はもう休みましょう。でも、明日の朝は早起きして手伝ってくださいね」


「あ? 何をだ?」


  「最高の『薬味』を採りに行きます。……ちょっと、臭いかもしれませんけど」


 私は悪戯っぽく微笑んだ。マリーの寝顔を見つめながら、心の中で闘志を燃やす。  

 彼女の笑顔を守るための戦いは、まだ始まったばかりだ。


 しっかり寝て英気を養ったら、明日の朝一番。次は、この村の常識を、その「匂い」でひっくり返してやる。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


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